短編小説 秋

那智タケシ  

この季節になると思い出す人物がいる。秋のメランコリーに浸るわけではないが、街路樹が風に揺れ、金色の木の葉のシャワーを降らしているのを見ると、「あんな人がいたなぁ、今、どうしているのかなぁ」などと思うのだ。もちろん、たいがいの時は忘れているし、自分の人生の中でそれほど大きなウェイトを持った存在ではないのだが、どういうわけか、決して心の片隅から出ていかない人物というのがいるのである。

 

十二、三年ほど前のことである。定職にも就かず、博打に明け暮れる日々を送っていた私は、出会い系サイトにはまっていた。無頼を気取ってはいたものの、元来、内気な性質でナンパはおろか、キャバクラなどの夜遊びもしたことがなかった私にとって、この「出会い系」なるものの登場は、人生を変えるほどの出来事であった。私は水を得た魚になった。どういうわけか、次から次へと興味深い女性と出会い、女性というものはどんな存在か、といったことや、メロドラマから精神病的関係まで、生きた人間関係の機微というものを二十代半ばにしてようやく学ぶことができたからである。当時はサクラが少ないこともあったが、それにしても苦することなく、様々な女に出会う自分に対し、若い雀友が聞いてきたことがある。

 

「どうしてそんなに出会えるんですか? 自分はなかなかヒットしないんですが」

 

「きみは気取っているから会えないんだよ。自分を自分以上のものと見せている。どんなにうまくやっても、相手は、なぜかそういうのはわかってしまうんだよ」

 

そんな風な知ったようなことを答えていたが、本当は、私にも理由はわからなかった。

ただ、人間は、見た目やお金よりも真実を求めていることを本能的に知っていたように思う。出会いというのは結局、そういうことなのだ。みんな生きた人間の真実と触れ合うために、もう一人の他者を求めているのだ。だから低次の欲望だけで相手を求めていた場合、その出会いは失敗に終わるか、仮に出会ってもろくでもないことにしかならないのである。私は、身をもってそれを知ったのだった。

 

ヒロムなる人物に新宿で会ったのは、世紀も変わり、ようやく残暑も終わりかけた十月の初旬のことだったと思う。ヒロムといっても男性ではなく、もちろん女性である。本名は裕美(ひろみ)というようだったが、ヒロムは、イラストレーター志望の彼女が自ら作ったペンネームということであった。

「裕美って名前、嫌いなの」とヒロムは言った。

「どうして?」

「おじいちゃんがつけたんだけど、ある人物の名前から取ったから」

「ある人物って?」

「昭和天皇」

「裕仁様ね。そっち系の人だったんだ?」

「戦争には行ってないけど、そっち系だったの。でも、私はそっち系でもどっち系でもありたくないの。だから嫌いなの」

「どっち系って?」私は笑って聞いた。

「私は、何ものにもなりたくないの」とヒロムはどこか思いつめた、頑なな口調で言った。「右にも、左にも、男にも女にもなりたくない。だからヒロムにしたの」

 

彼女は、二十歳前後に見えたが、実際は二十三歳ということであった。百五十センチにも満たない、痩せた、少年のような体型をした女性で、顔つきもまだ輪郭の定まっていない子供のようなあどけないものだった。ショートの髪は完全な金髪で、古着を上手に着こなし、外交的な話し方を心得ていて、一見、ちょっとサブカルにはまった今風の子に見えたが、話は、怪しげな方向に向かっていた。

 

「私ね、薬をやっているの」

「薬って?」

「スピードとか」

「そうなんだ、でも、やばくない?」

「だから最近はマジックマッシュルームとかやってる」

「やるとどうなるの?」

「ふわっとする」

「ふわっと?」

「うん、世界が回ったり。でもそれだけ」

「何のためにそんなことをするの?」

「私ね、頭の中に雑音がするの」

「雑音って?」

「テレビの砂嵐みたいに、ノイズがしているの。そのノイズをなくしたいのよ」

 

それから、話は瞑想や、スピリチュアルマスターの方向へと流れていった。どうやら、ヒロムは私のことを同種の人間とみなしたらしく、安心してラジニーシやクリシュナムルティのことを語りだした。私は、モーニング娘の中にでもいそうな金髪の若い女性が、このような話題を振ってくるとは思わなかったので、楽しげに聞いていた。しかし、ヒロムの口調の中には共感者に出合った喜びというよりも、今にも切れそうな張り詰めた弦のような真剣さがあり、それが私の胸をどこか苦しくさせた。

 

「私、毎朝、井の頭公園にいるんだよ」

「何してるの?」

「座禅組んでる」

 私は、思わず笑い出してしまった。

「おかしい?」

「おかしくはないよ。でも、なんか笑えるじゃん」

 

ヒロムは心外そうにしていたが、私は小ばかにして笑ったわけではなかった。今時のギャルのような見た目のヒロムが、まだ夜も開けきらぬ早朝、井の頭公園の木の下で必死に座禅を組んでいる姿を想像すると、そのギャップが面白く感じられたのである。しかし、そこまでやるからには、きっとヒロムの絶望は、彼女の軽やかな口調や身振りよりもはるかに深いものであることが察せられた。

 

それから、ヒロムとは友人として二年ほど付き合った。当時、私に付き合っていた女性がいたこともあるが、彼女とは男女との関係にならなかった。実際は、粉をかけて何度か振られたこともあるし、ヒロムにも彼氏がいたりいなかったりした。それでも、私たちはお互いをそのような俗世の関係とは異なる、特殊な席を占める存在とみなしており、男女の関係を超えた深いつながりを感じていたように思う。最後は、二人で伊豆にあてもない旅行に出かけた際、その一線を越えようとした私に嫌気がさしたのか、「しばらく会えない」というメールがきて、そのままになってしまった。半年ぐらいしてメールをすると、連絡先が変わっていたので、彼女とはもう二度と会うことはできない。

 

ヒロムには言わなかったが、知り合ってから一ヶ月ほど経ったある日、座禅する彼女の姿をこっそり見に行ったことがある。新宿で明け方まで徹マンをしていた私は、もしかしたらヒロムがいるかもしれないと思い、始発の電車に乗って井の頭公園に足を運んだ。別段、彼女がいようがいまいが、本当はどうでもよかったし、実際にいるとも思っていなかった。狭苦しい雀荘で一晩中、煙草の煙と欲得にまみれた汚い空気を吸っていたのだ。ちょうどよい朝の散歩になるのだろう。

 

散歩道から少し離れた、奥まった林の中にある巨大な銀杏の樹の下で、ヒロムは眼を閉じて座っていた。足はしっかりと結跏趺坐で組まれ、手は仏像のそれと同じく、法界定印を形作っていた。眼は固く閉じられていて、何か口の中でぶつぶつとつぶやいているようだったが、何を言っているのかわからなかった。

 

まだ暗い最中、金髪の少女――なぜか少女のように見えた――が必死に生きるか死ぬかの座禅をしている。その姿は美しくもあり、痛ましくもある、胸が打たれるものであった。ふと、どこからともなく大きな風の塊がやってきた。あたり一面の樹木の枝葉が、まるで危険を察した動物たちがいっせいに動き出すように、ザワザワカサカサと激しく揺れた。ヒロムの背後の銀杏の樹の枝葉も風に揉まれて激しく揺れ、黄金色の枯れ葉が頭上からシャワーのように降り注いだ。その金色のシャワーは、まるでヒロムの輝かしい未来と愛をそっと約束する恩寵のように見えた。

 

ヒロム、眼を開けてごらん。美しい光のシャワーが見えるよ、と私は念じた。

 

しかし、ヒロムは眼を開けなかった。眉間に皺を寄せ、苦しそうに呪文を唱えながら、まだ見ぬ光の可能性を探して、暗闇の中で煩悶していた。しかし、その姿は限りなく美しく、何ぴとたりとも彼女に近づくことは許されなかった。