短編小説 受胎告知

那智タケシ  

「すばらしい人に会ったんだ」

「すばらしい人?」

「そう、すばらしい人。でも、とても不幸な人なんだ」

「不幸なのにすばらしいの?」

「不幸なのにすばらしいんだ。だから、ぼくはその人といなくてはならないんだよ」

――カフェで耳にした、とある会話から


1 受胎告知

昼だか夜だかわからない薄暗い部屋で、一人の痩せた女が、バルコニーを背にした窓枠に半身で腰掛けて、うなだれ、黙っていた。三十半ばの疲れた顔をした女で、化粧っ気はなく、顔は土色で、目の下には、染みともくまともつかぬ、淡い黒ずみがあった。その顔はまだ美しさの余韻を残していたが、度重なる不幸と、苦しみ多い運命の中に埋もれかけていた。彼女は、半ば放心したように淡い光の中で浮き上がった、畳のほつれを見つめていたが、ふいに、途方に暮れた様子でつぶやいた。

「何だか、生きているのが嫌になってきちゃった」

その目の前には、一人の若い男がうつむき、あぐらをかいて座っていた。まだ二十歳をようやく越えた頃に見える、色白の青年で、貧乏学生らしい身なりをしていたが、その面立ちには品があり、姿態はやわらかかった。

彼は、ちらりと上目使いで相手の顔を見つめたが、すぐに正視に堪えかねたように、視線を落とした。そして、自分の白い、薄汚れた靴下の余った先っぽをこねくりまわすようにいじりはじめた。まるで、今、何か口にしても、何一つ良い回答が得られないことをあらかじめ知っているかのように。

「ねぇ、どうしたらいいと思う?」女が聞いた。

青年は、再び、相手の顔をちらりと見上げた。彼の表情は、どこか悪ふざけをしようとする子供のような、悪戯めいたものがあった。彼は、右手の親指を自分の唇にもっていった。そして下唇のあれた箇所を何度も何度もなではじめた。しかし、その顔に深刻さはなく、むしろ楽しいアイデアを考え、反芻している人のようでさえあった。彼は、唇から指を離すと、顔を上げた。そして、言った。

「生めばいいじゃん」

その顔は、まるで天使のように無邪気で、屈託のないものであった。

「いや、生むべきでしょ?」彼は、軽口を叩くように続けた。

女は、驚きおののいたように、身を仰け反らせた。そして信じ難いものを見るように、大きく目を見開いて、まじまじと目の前の青年を見つめた。

この子は何を言っているのだろう? と女は考えた。どうしてそんなにも明るく生めばいいだなんて言えるのだろう? もしかするとあなたの子かもしれないのに。別居しているとはいえ、旦那にばれたらどうなることか? それに、この子は何の経済力もない学生だし、社会常識もなければ、離婚の難しさについても何も知らない。それなのに、生めばいいだなんて?

「そんなに簡単なことじゃないのよ?」

青年は、どこかすねた様子で、再びうつむいた。そしてまたもや靴下の先をいじりはじめたが、別段、何か迷っているようでも、考え込んでいるようでもなかった。

彼はただただ、時間を計っていたのである。こんな深刻な場面で、一般的な大人がすぐに受け答えしてはならないことをドラマか何かで知っていたので、ぐすぐずとうつむいていただけであった。本当のことを言えば、彼は何一つ迷っていなかったし、思い悩むこともなかった。ただそのことをすぐに口にすることはさすがにはばかられたので、しばし、沈黙の時を作ったのである。

「なんとかなるよ」と彼は頃合を見はからって言った。「うん、なんとかなるし、大丈夫だよ」

「何が大丈夫だって言うの?」女は、悲鳴に近い声で反論した。「あなた、自分が何を言っているのかわかっているの?」

青年は、どこか冷めた目で相手を見つめた。しかし、相手を怖がらせないように、すぐにその口元に微笑を浮かべた。

「わかってるよ」と彼は優しく言った。「わかってる。だから、生んでよ。いや、生むべきなんだ。生まなくてはならないんだよ」

女は、怒りに、青い唇を震わせて言った。

「生んだら、どうなるの?」

すると青年は、突然立ち上がった。彼は、女を見つめるのでもなく、窓の外を見つめるでもなく、右斜め上に視線をやった。そこは天井と壁の境目あたりの何もない場所だった。彼の瞳の焦点はそこにあっていなかった。かと言って、自分の内部を見つめていたようでもなければ、何か考え込んでいる風でもなかった。それは一種、異様な、瞑想的とでも言ってよいような、不思議な目つきだった。彼はただ虚空の中から湧き上がるエネルギーに身を浸して、次に自分の体に起こることを待ち構えている人のようだった。

「生めばわかるよ」彼は、ぼそりとつぶやいた。

「わかるってどういうこと?」女は、ほとんどおびえた様子で聞いた。

「何も心配することはないってことさ」彼は、中空を見つめたまま、ほとんど幸福そうな微笑を浮かべて言った。「すべては上手くいくようにできているんだ」

女は、目の前の青年が愛すべき、若き不倫相手ではなく、何か異様な、宗教的喜悦にかられた狂人にしか見えなかった。彼女は、それまで青年のエキセントリックな側面を、俗世間に汚れていないゆえの純朴さによるものであり、悪く言えば世間知らずのせいだと侮っていた。俗世間で痛めつけられ、虐げられ続けてきたからこそ、傷ついていないガラス、まだ穢れていない魂に癒され、魅了され、かつ愛してきたのであった。

しかし今、穢れなき純朴な子供はどこにもいなかった。そこにいるのは、何か奇妙な、言い知れぬ霊感を宿した、ほとんど高慢に見える男だった。もしかすると、彼は自分の子供ができた、という事実に興奮して、こんなわけのわからないことを口走っているかもしれない。現実というものの困難さが見えていないのだ。私たちは今、絶望的な状況にある。そのことがわかっていないのだ。

「何もかも上手くいくわけないじゃない?」女は、相手を哀れむような口調で言った。「あなたは、現実というものがどんなものか、わかっていないのよ」

すると、青年はどこか冷めた目つきで、目の前の女を見下ろした。そして、しばしうつむいた後、窓の外を見つめた。その表情は、はっとするほどに厳しく、強い意志を感じさせるものであった。しかし、その瞳は澄んでいて、はるか遠くにある地平線をはっきりと見定めているような、硬質の輝きがあった。

女は、急に自分を惨めに感じた。何の理由も根拠もない希望と確信に満ちた、迷いのない青年と比べ、自分があまりにも小さく、ゆがんでいて、濁っていて、意味のない存在であるように思えたのであった。そして青年を羨望の眼差しで見つめながら、自らの肉体と精神を滅してしまいたいという激しい欲求に駆られた。

私がいなくなれば、この美しい青年はどこまでも羽ばたいていけるのだ。私が重荷になっているのだ。私なんて、この世界に存在しない方がいいのだ。でも、この子はどうなるのだろう? 私が母親になったばかりに……。本当に、私なんて生まれてこない方がよかったのだ。何一つ、意味がない。誰のためにも、なっていない。生きている意味がない……。

青年は、女の消え入りそうな姿を認めると、微笑んで隣に腰掛けた。そして、相手のぬくもりが感じられるくらいにぴたりと身を寄せ、そっと頭に手を伸ばすと、髪の毛を触れるか触れないかの強さでなでながら、相手の顔を覗き込んで、こう言った。

「ぼくたちは夫婦になるんだ」

女はうつむいたまま、身を固くしてじっとしていたが、突然、何かに耐え切れなくなったように肩を震わせ、しくしくと泣き出した。そして、両手で勢いよく顔を覆うと、嗚咽するように慟哭した。これまでの人生があまりにも不幸なものであったので、自分の身に降って来た幸福が理解できなかったのである。その喜びは、肉体的な苦痛とでもいってよいような、圧迫感を伴ったものであった。

青年は女との結婚を約束すると、子供を堕ろさないことを誓わせて、「試験があるから」と部屋を出た。

彼は、古錆びた螺旋階段を下りると、黙々と裏路地を歩き始めた。空は曇っていて、世界は、灰色に満たされていた。彼はしばらく、うつむいて、無表情に歩いていた。その顔は、どちらかというと陰気で、暗いものであった。しかし、何か思いつめたような様子はなく、実際、彼の頭の中に何一つ言葉は生まれていなかった。ただ、ある巨大な確信のようなものと自らの肉体が接触し、一つになろうとしているような、神秘的な感覚に満たされていた。しかし、彼にはそれが何を意味しているのかはわからなかったし、それを理解することにさして興味もなかった。

歩いて行く先に、目の覚めるほど真っ赤な服を着た、小さな女の子が立っていた。それは四つくらいの女の子で、民家の壁に左手をついて、寄りかかるようにして体重をかけていた。そのために、右足が浮いていたが、彼女はその不恰好なバランスを楽しみながら、歩いて来る青年の顔をひたすらに見つめていたのだった。青年はその少女の眼差しに気づくと、柔和な表情になった。そして、優しく微笑みかけたが、少女は驚いたように目をまん丸に見開いて、相手を見つめるばかりで、笑い返そうとはしなかった。

青年は、何かをあきらめたように視線を伏せ、通り過ぎた。そして裏路地を抜けて、駅へと向かう大通りに出た瞬間、顔を上げた。そこは見晴らしのいい場所で、灰色の空が、遠くの街並みや、道路の向こうまで拡がって、上から覆いかぶさるように浸透していた。そして、その灰色の空は彼の体の中にまで入り込み、通り過ぎることによって、すべての葛藤と濁りを浄化し、身体の輪郭を溶かし、彼という存在それ自体を消してしまうように感じられた。そして別段、彼はこのまま消えてしまってもまったく問題ないように感じていた。いや、むしろ消えてしまいたかった。

いつの間にか、彼は立ち止まり、陶酔感に浸るように、両腕を胸の前に組み、目を閉じていた。彼は深く呼吸をしながら、十秒ばかりそうしていた。そして目を見開いた時、その面には傲慢とも思えるようなアルカイックな笑みが浮かんでいた。自分には何一つ不可能はないのだし、これからも自分を押し留めるものは何もないだろう、と彼は確信した。

どうにでもなるさ、と彼は心の中でつぶやくと、再び歩き出した。そして、頭の中は、試験のことでいっぱいになっていた。