短編小説 芹姫(せりひめ)

那智タケシ  

1 野心

数年前、私が、とある精神世界系の出版社の仕事をした時の話である。その都内にある小さな出版社の名前を聞いても、ほとんどの者が知らないだろう。主に自費出版を扱うその会社の社員は僅かに二人。疲れた顔をした六十代くらいの社長とその右腕らしい、無精ひげを生やした年齢不詳の青年とも中年ともつかぬ薄汚れた男がいるばかりで、「スピリチュアル」な業界特有の胡散臭いこぎれいさはどこにもなく、雑然として煙草の煙が充満した編集部は、昔ながらの編集プロダクションのようだった。

ライター募集などしていなかったにもかかわらず、私はホームページを見てアポを取り、ゴーストライターの仕事を引き受けることに成功した。とは言っても、社長と雑談をして、これまでの仕事の見本を見せると、「ライターだけじゃなくて、マックでデータ入稿までできるなら仕事はいくらでも回すよ」というイージーな答えだった。私はマックを売り払ってしまっていたのでそのことを告げると、「一台、余っているから持って行ってもいいよ」と言うので驚いたものだ。何でも、人手が足りなくて困っているとのことだった。

「一人、あっちの世界に行っちゃったからさ」と無精ひげを生やした編集部員のSが、回転椅子をくるりとこちらに向け、話に加わってきた。
「あっちの世界って?」
「神様の方だよ」と男は笑った。
「そういうケース、多いんですか?」と私は聞いた。
「多いね、取り込まれちゃう人」とSは言った。「そうなるとまず戻ってこない。他の体系の本なんか書けないから。逆に勧誘してきたりね」
「怖い世界ですね」と私は言った。
「怖いよ」と社長が言った。「でも、きみは大丈夫そうだね」
「そう見えますか?」
「なんか、逆に、ものすごくやっかいな感じがするよ」社長は笑った。「でも、それくらいじゃなくちゃね、我々は商売でやっているんだから」

私は、彼らの少しばかり斜に構えた態度や、シニカルな笑いを理解した。この手の世界では、著者に対して必要以上のリスペクトは厳禁なのだ。でなければ、相手の世界に取り込まれてしまう。あくまでもビジネスとして距離を取り、客観視しながら仕事を進めなくてはならない。逆に、そうでなければ新興宗教の教本のように、独善的で社会性を欠いた作品しか作ることはできないだろう。

しかし、私は彼らのような嘲笑的な態度を取る必要もないと感じていた。元々、求道者の一人であった私は、その時、ある種の限界点を突破し、ようやく自分なりの軸ができていたところであった。突然、訪れたエネルギーの奔流と全能感。私は、自分の力と確信とに酔っていた。どんな相手でも、価値観でも、乗り越える力があると過信していた。実を言えば、このような怪しげな出版社とコネクトしたのも、魑魅魍魎うずまく世界で、自分の力を試してみたいというよこしまな野心があったからである。もちろん、今にして思えば、このような自負心に満ちた姿勢は未熟さを証明するものであり、ろくでもない果実しか実らせないものであるには違いなかったのだが…

早速、振られた仕事は「やばそうだから断ろうと思っていた」という案件であった。

「どんな相手なんですか?」と私は聞いた。
「よくわからないけどやばい」とSは言った。
「でも、傾向ってあるでしょ? アセンション系とか、引き寄せ系とか、神様系とか」
「そんなんじゃないよ」とSは何やら言いにくそうに言った。「正直、もっとやばい系。電話で話しただけだけどね」
「どうやばいんです?」
「話せばわかるよ」とSは言葉を濁した。「たださ、強いて言えば、統合失調系かな。ああいうのが一番やばい。本にもしづらいし、対処法もないから。おれには無理だと思った。一緒にいたら頭がおかしくなりそうでね。きみも気をつけた方がいいよ」

私は、こんな曖昧な事前情報を元に、「芹姫」と名乗る怪しげな人物と会うことになったのである。

 

2 私のいない物語

「芹姫」こと芹沢涼子は、東京寄りの埼玉郊外に住んでいた。人ごみが苦手で都内には出て来たくないとのことで、私は芹姫が住む地元駅に出向くことになった。待ち合わせは午後の2時だった。老人とカラスしかいないようなさびれた駅で、薄汚れた商店街の向こう側には畑が広がっているだけの土地だった。4月の昼下がりであったにもかかわらず、なぜかわびしい秋の夕暮れといった空気が辺りを支配していた。

改札を出ると、一目で芹姫とわかる人物が立っていた。というよりも、そこには芹姫のほかに誰もいなかったので、彼女が私を待っていた人物であることは一目瞭然だったのだ。しかし、それは必然的な出会いのようにも感じた。彼女は、はるか昔からここで私を待っていたのだ、とさえ思えた。

どこか子供めいた白いワンピースを着た、美しく長い黒髪を持つ女性は、確かに、「姫」と名乗るだけの独特の存在感と気品があるように感じられた。しかし、その半ばがちゃ目の瞳はどこを見ているかわからなかったし、貧弱な顎の輪郭はゆがんでいて、人格の安定感はどこにも見出せなかった。妙に白っぽい血の気のない顔に、口紅ばかりが赤く浮き立っているその様は、明らかに精神的な異常者の証のようにも見えた。しかも、よく見ると、「姫」というには年が行き過ぎているように感じた。30半ばか、それ以上かもしれない。私は、本能的な恐怖を覚えながら声をかけた。

「芹沢さんですか?」

すると芹姫は不思議そうに私の顔を眺めたまま、何も言わずにじっとしていた。不安に駆られた私が、再び何かを口にしようとすると、彼女はこう言った。

「あなたとお話するために、私はここにいるのですよ」

私たちは、駅から10分ほど無言で歩き、国道沿いにあるファミレスに入った。仮にも「姫」と名乗る女がそんな安っぽい店に入るのはいかにも不似合いにも思えたが、彼女はまるで常連のように、奥まった場所にある窓際の席を勝手に陣取った。お互いにドリンクバーで飲み物を持ってきて、一息ついた後、彼女は言った。

「ここに、不思議な物語があります。しかし、私はその物語の中にいません。でも、あなたはその物語を書き留める必要があります」

私は、ぎょっとして尋ねた。

「どういうことでしょう?」

「私には、私のことを語ることが許されていないのです。私には私の言葉がないのです。ですから、あなたは物語をあなたの言葉で書き留めてくださればいいのです」

「言葉がない?」

「今にわかります」と芹姫は言って、目を伏せ、紅茶をすすった。

 

3 宇宙人との対話

ここから先の会話は、私が手を加えることのできるようなものでもないし、解釈できることでもない。幸い、ボイスレコーダーで録音していたから記録されているが、もしも耳で聞いただけなら、彼女と何を話したのか、まったくもって記憶することはできなかっただろう。これは夢の言語である。夢が記憶できないように、日常の言語パターンを超えたものを我々は記憶することはおろか、表現することもできない。

分量やプライベートな問題もあり、3時間に亘るテープのすべてを開示することはできないので、彼女との対話がどんなものだったかを示す一端だけを録音されたままにここに記してみようと思う。しかし、事前に注意書き代わりに付け加えておくが、こんな会話をどんな形であれ公にすることが許されることなのかわからないし、この対話を読んだ人の精神にどのような影響を及ぼすかも想像できない。夢は真夜中に見て、消えてしまうからこそ遠慮なくありのままの真実を突きつけてくる。もしもそれが日の光の下で生じたとしたら、大抵の夢は見るに耐えないものである。なぜなら、それは私たちの生きる範囲を超えた現象である場合が、ままあるからである。

「元々人間である人は、人間であることの尊さを知らない」と芹姫は言った。
「芹姫さんは人間じゃないみたいですね」と私は言った。
「生物学的には人間です」
「魂が人間じゃない?」
「魂は誰にもわからないでしょ?」
「どういうこと?」
「人間になりたいと思っている魂」
「妖怪人間みたい」
「そのへんは内緒です。だから多い。私のような人は多い。だからね、人は知らない間に人でなくなっていると思う。でもそれを自覚していないからきっと、痛みも感じない。だから人に対して、数学的な、言葉的な意味の何かしか感じない」
「人間が悪くなって、人間でなくなっているということ?」
「だって、だって意味がないでしょう?」
「何が?」
「よくなっていても、悪くなっていても、どっちだってよかったんですよ。でも結局、意味がなくなったら、理由がなくなったら、生まれた意味がなくなったら、ここにこうして存在する意味がなくなったら、それは何かができるできないとかそういう問題ではなくて」
「それは絶対的な意味があるかないかということ? 生きている意味が」
「絶対的な意味が欲しい」
「絶対的な意味がないと虚無?」
「あのね、絶対的な意味がある許された存在があるとして、もしもその存在をプラスにもマイナスにもできないとしたら、それは絶望なんです。絶望というのではなく、虚無なんですよ、無なんですよ。何かではない。絶望よりも何もない。だから言葉にできない。誰も感覚的に体感したことはないから」
「虚無に落ちる人はいる。寸前まで行く人は」
「でもね、虚無という名前の感覚を体感する人はいるんですよ」
「それは生きている意味がなくなる恐怖?」
「だからね、本当の、言葉にできないね、存在しない、無というものを実現する、体感する人間はたぶん存在しない。それは人間ではない。もしも体感している人間がいるというのなら、それはおかしい。体感したことによって人は狂う。生きてなんかいられない、と思う」
「恐怖を感じているうちは落ちていないのかもしれませんね」と私は言った。「ぎりぎりで踏みとどまることが恐怖」
「私は、たいしたことない。ただほんとわずかな・・・だけど私という存在は無意味だ。私ではなく、他の何かが存在したらよかった。この先、それは悲しい。・・・(聞き取れず)と認識されるのが悲しい。私は、生まれてこないほうが良かった」
「それは不幸になるから? 自分が? 誰かの役に立てないから?」
「私は、存在自体が意味がなかった。プラスでもマイナスでもなく。無意味だ。こんな・・・(音、聞き取れず)でなければよかった。ごめんなさい。わけわからない話。両親と私と違うのは、精神レベルでも性格レベルでも同じなのに、あの人たちの性格を受け継いでいて、確かにそれはわかるのに、根本が違うと感じるのは、そういうところから、生まれる・・・わかっているのに。電波さんだから言わないの、こういう話は。感覚的なものだし、理屈もつかない、理由もつかない、証拠もない。ただ、認識しているだけ。そんなのは、異常だから。ただ遺伝子も血もつながっているのに違うと感じるし、通常の人間のDNAと遺伝子も形態も同じなのに、人間の形をしているのに」
「宇宙人みたいに感じているということ?」
「わからない。でもそれは、みんな同じなんでしょうね、とずっと思っていた。今も思っている。でも、たまに戻ってくるものがあるの」
「戻ってくる? 何が戻ってくるの?」
「なんか、全然違うもの。説明つかない。それは無を表現すると同じ感じ。だから無を表現することは難しいからそれと同じ感じ」
「それは虚無感とは違う?」
「全然違う」
「ネガティブでもないんだ?」
「説明がつかない。ただ、魂と・・・だから人間という存在は意味を見つけるために、わかんない。見つけたくて生きているのかもしれない。でも、私はたぶん、きっと意味はあって、そのために何をするのかがあって、生きているような気がする。私がきっと主体的に見えないのはそれもあるし」
「意味があるってこと?」
「意味はない。ただのひとつの末端の何か。だからそれは自分という、芹沢涼子という人間ではなくて、何か、本当に、無に帰る何か。わけわからないですね、芹姫と名乗ることで、きっと話してしまうのだろうなって。時々、私という人間や肉体というか精神が傷つけられているから。時々、そういう空間に出ちゃう。なんでもない」
「幽体離脱しているみたい?」
「だから、私という何かがここにいれる時間に、別の何かがここにいるべきだった。そしたらきっと、非常に有意義な何かを得られたと思うから。同じ結論であったとしても、同じ流れであったとしても、と、思う」
「芹姫さんはどこか他の星から来た人みたいですね」
「他の星からは来ていない。地球上からしか生まれていない」
「でも、人間じゃないみたい」
「人ですよ。体も遺伝子も」
「じゃあ、地底人。地底から来たの」
「地底ですか?」芹姫はびっくりした様子で言った。
「地底に存在していた前の世代の人間みたい」
「SF的ですね」
「その魂が生きづらい」
「それは小説が一本書けますね」芹姫は、急に皮肉めいた口調で言った。「でも、私の話は小説にすらならないんです。なぜなら、どこにも主人公がいないからです」

この時すでに、私は、彼女の本を書くことを断念していた。彼女の宇宙を表現することは私の手に余ることだった。何とか、互角に渡り合っているように装っていたが、実を言えば芹姫の存在感に圧倒されていた。彼女には、私の言葉が通用しないことは明白だった。エゴの超克という領域に、最初から彼女はいなかったのだ。彼女は最初から救われている存在であると同時に、真実そのものであるがゆえにそれを伝えることも表現することもできないという致命的なジレンマを抱えた薄幸の存在だった。

彼女のことを理解する者はおそらく誰一人としていなかったことだろう。理解者も、愛する者もいなかったことだろう。もしかしたら一人くらいはいたかもしれないが、その人もまた浮世の荒波に耐えることはできず、消えてしまったことだろう。そこには誰知らぬ偉大な物語があったのかもしれない。しかし、それは誰も知らない物語だ。その物語をこそ誰かが書くべきなのかもしれないが、そのストーリーが記された石版はきっと、誰にも発掘されることはないだろう。真実の物語というものは、地中深くに眠っているものなのである。

私は、本能的に彼女の真実を感じ取っていた。その絶望と愛の深さも理解していた。だからこそ彼女は私に助けを求めたのだ。自分のことを理解し、表現してくれる媒介者として、初めて会った私に全面的に身を任せたのだ。しかし、当時の私にとって、彼女は自分の存在を脅かす巨大な矛盾そのものに見えた。そう、私は敗北宣言をし、尻尾を巻いて逃げ出したのである。

あのまま彼女と一緒にいたら、間違いなく虚無以前の「無」の中に取り込まれ、逃げられなくなっていただろう。あの時の私にはまだ、その「無」の世界を乗り越えるだけの力を持っていなかった。私にとって、彼女はまさに宇宙人そのものであり、人間的な思考の彼岸にある、存在以前の神の具現化そのものであった。

 

4 祝福

芹姫との会話は、この小説を書くにあたって意を決してテープを起こすまでまったくもって覚えていなかったし、彼女の存在さえ、私の人生からきれいに抹消されていた。芹沢涼子は、私の人生を通り過ぎた様々な道化師や、凡人愚人、奇人変人たちの演舞者の一人に過ぎなかった。「あんな人もいたな」と思い出すことはあっても、それはまさに夢の中の現象のようにおぼろに感じた。するうち、本当にそんな人間がいたのかさえ、疑わしくなってきた。夢は、記憶に残らないものなのである。

しかし、例えこの世にはあり得ない現象ではあっても、その強烈な光輝によって、人間のもっとも深い部分に刻印される体験というものがある。それは日常生活の中であろうが、夢の中であろうが、前世の記憶であろうが、集合無意識の体験であろうがかかわりなく、その人の魂の深奥の部分に刻み込まれ、知らず知らず彼の人生を規定するものとなる。

人間の本質を規定するものは何かといえば、積み重ねてきた経験や知識でも、それによって形作られた「自我」でも、才能でも、環境でもない。それは、真実の強度である。

つまり、量ではなく、質なのだ。たった一回でも、遥か高みへ、あるいは恐るべき深さを体感すると、その体験は意識的にであれ、無意識的にであれ、一人の人間の全人生を規定するものとなる。彼はその地点からしか歩けないし、物事を見ることはできない。その時点で、一人の人間の人生の中で最も強度のある体験こそが、彼の世界の最果てであり、深さ、高さの限界点なのである。イエス・キリストの十字架の前に跪いた人々は、その十字架を背負って生きていくことになるだろう。ここに、宗教が始まるのだ。だが、真に宗教的な人間は、十字架の先へと歩き出さねばならない…

さて、3時間余りの取材を終えた我々は、ファミレスを出て駅への帰途についた。芹姫の家(実家ということだった)とは逆方向とのことであったが、駅まで見送ってくれることになった。外に出ると、日は落ちかけていて、世界は幻想的な赤銅色のベールに包まれていた。私と芹姫は、来た時と同様、ひと気ない侘しい裏道を黙々と歩いた。この見知らぬ街で、このような奇妙な女と二人きりで歩いていることに運命の不思議を感じたが、もう二度と会うこともないのだと思うと、相手に対して優しい気持ちになっていた。もしかすると、それは憐憫のようなものだったのかもしれない。

みすぼらしい公園の傍を通りかかった時、ある種、吹っ切れた気持ちになっていた私は、「一服しませんか?」とくだけた調子で誘った。芹姫はどこかおどおどした様子でうなずいた。何やら、個人的な接近を警戒している風だったが、世慣れていない様が愛らしくもあった。煙草が切れていたので、私は古ぼけた酒屋の横に自販機を見つけ、購入しようとした。ジーパンのポケットから小銭を取り出した時、ふとした拍子で50円玉がこぼれ落ち、アスファルトの上を転がって、鉄柵のあるどぶの中に落ちてしまった。私が無視して煙草を買おうとした時のことである。目の横にぎょっとする光景が飛び込んできた。芹姫がどぶ川の鉄柵を外し、50円玉を拾おうとしているのである。

「汚れるからいいですよ」と私はあわてて言った。

しかし、鉄柵を外した芹姫は道端にしゃがみ込み、迷いなくどぶ水の中に手を伸ばして、小銭を拾った。そして、バッグから取り出した白いハンカチで丁寧に50円玉をぬぐうと、うれしそうに――本当にうれしそうに――笑って、その銀色に光る小さな硬貨を道路にひざをついたまま差し出したのである。50円玉はぴかぴかに光っていたが、その生白い骨ばった手には泥水のしずくがまだらにつき、袖口にも黒い染みがついていた。

瞬間、彼女の額が黄金色に発光した。最後の陽光がその蒼白い額を打ち、知らず知らず、偉大な恩寵を授けていたのである。それは、誰一人として彼女を認めることがなくとも、誰かが彼女を愛していて、祝福していることの証であった。彼女は、愛されていたし、許されていた。しかし、彼女自身は、その祝福を受け取ることも、愛されていることも理解していないのだ。そこに彼女の美しさのすべてがあり、不幸の原因があった。

その黄金色の光の中で、中年の病的な女は少女のようにあどけなく微笑み、見返りのない愛を差し出している。どぶ水に汚れていて、ゆがんだ顔をしているが、このような美しい女を私は知らなかったし、見たことも聞いたこともなかった。それはこの世の美ではなく、別の世界からやって来たがゆえに、決して汚されることのない純真の美であった。しかし、その美しさは恐ろしくもあった。あまりにも尊いがゆえに、俗人には触れることのできない禁忌の領域からやってきた何ものかであった。

このような人間の奉仕を遠慮なく受け取る資格のある人間が、いったいどれだけいるだろう? 私は呆然としたまま、しばらくその50円玉を受け取ることができなかった。いや、受け取りはしたが、こともあろうに、彼女の目の前で、そのまま自販機の投入口に50円玉を入れてしまったのである。それは、私の人生で最大の失敗の一つであり、この失敗こそが(書きながら気づいたのだが)、芹姫という存在を記憶の底に封印する原因となっているのであった。私は、彼女の差し出したこの世のものとも思えぬ貴重な宝石を、大量生産されたひと箱の煙草に代えてしまったのである。

動揺した私は、「ごめんなさい、やっぱり帰ります、お見送りはここで結構です」と言って、どぶ川の傍にしゃがんだままの芹姫を置き去りに、逃げるようにその場から走り去ってしまった。そして煙草を駅のゴミ箱に投げ捨てると、その日から、二度と煙草を吸うことはなかった。

「あれだけヘビースモーカーだったのに、よく煙草やめれたね」と様々な人から言われたものだが、これが私の禁煙した理由である。