無我ですが何か? ~ 村田沙耶香「コンビニ人間」に想う
高橋ヒロヤス
村田沙耶香という作家の作品は、昨年菊地成孔が『殺人出産』という小説を推薦していたことから、読もう読もうと思っていた。
菊地成孔の『殺人出産』評を少し紹介すると、
「文学界では微妙な年齢である39歳の才気、村田沙耶香の、今の所頂点であろうと思われる短編集。フェニミズムとも幻想文学とも美しすぎる女流作家とも違う、なにげにかなり孤高の人。ヘタウマと言ったら大変な無礼になると思うけれども、『達者で完璧な筆致から繰り出される、隅々まで破綻の無い幻想文学の傑作』という、『想定出来るゴール』に対し、ふわっと緩めた様な脇の甘い感じが、エグい内容(表題作の「産む代わりに、殺せる権利」や「3Pが正常で、2人のセックスを異様だと思う高校生」等々)を疲れずに読ませる。」
ようやく今月読んだばかりの、この「コンビニ人間」が第155回芥川賞を受賞してしまったことにより、コンビニでのバイトの傍ら作家業を続けてきた著者のバイト人生には大きな転機が訪れることは必至であろう。
あらすじ
36歳未婚女性、古倉恵子。
大学卒業後も就職せず、コンビニのバイトは18年目。
これまで彼氏なし。
オープン当初からスマイルマート日色駅前店で働き続け、
変わりゆくメンバーを見送りながら、店長は8人目だ。
日々食べるのはコンビニ食、夢の中でもコンビニのレジを打ち、
清潔なコンビニの風景と「いらっしゃいませ!」の掛け声が、
毎日の安らかな眠りをもたらしてくれる。
仕事も家庭もある同窓生たちからどんなに不思議がられても、
完璧なマニュアルの存在するコンビニこそが、
私を世界の正常な「部品」にしてくれる――。
ある日、婚活目的の新入り男性、白羽がやってきて、
そんなコンビニ的生き方は
「恥ずかしくないのか」とつきつけられるが……。
あらすじ その2
主人公・古倉恵子は、スマイルマート日色町駅前店のアルバイト店員を18年もつづけているベテランだ。ほぼ完璧に業務をこなし、人間関係も良好だ。
コンビニの中だけでは。
彼女はそこ以外では、みんなとは違う人間だと識別されていると感じていた。
幼い頃、恵子は公園で死んでいた小鳥を見て、お父さん、焼き鳥好きだから、今日、これを焼いて食べようと言い出す子どもであり、
学校で同級生男子のけんかを止めるために、悲鳴があがり、そうか、止めるのか、と思った私は、そばにあった用具入れをあけ、中にあったスコップを取り出して暴れる男子のところに走って行き、その頭を殴った女の子であった。彼女にとっては、それが「一番早そうな方法」だと思えたのだ。
その行動には何の悪気もないし、彼女は周囲が騒いだり嘆いたりするのが解らない。
何が間違えているのか解らないのだ。
両親は「なんで治らないのか」と嘆き、周囲は彼女を「違う人間」だと識別した。
恵子はやがて自分の意志で動くことを、自ら放棄してしまう。
そして、彼女はコンビニのバイトを見つけ、それが自分に適ったものだと知るのである。
そこではマニュアルに自分自身を委ねることで、彼女は正常な人間になれると認識できるのだ。私は、初めて、世界の部品になることができたのだった。
私は、今、自分が生まれたと思った。
世界の正常な部品としての私が、この日、確かに誕生したのだった。
しかし、そんな彼女を周囲はほっといてくれない。
なぜアルバイトを18年もやっているのか、結婚はしないのか、子どもはつくらないのか。
異分子にたいする認識フラグは、言葉や視線や距離感で即座に立つ。
その識別に対抗すべく、恵子は「変化を求め」、女性客をストーカーしてクビになった元バイト店員の白羽と同棲することにする。
それをキッカケに周囲の「わたし」の見る目が変わっていき、生活が……。
この作品を読んでの一番無難な感想は、
「この作品での著書の言いたいことは、定職を持ち、結婚をしなければまっとうな人間と認めない社会に対する問いかけなのでしょう。まともな人間とそうでない人間を区別する線というのは一体どこなんだろうかと感じました。」
「<普通であること>を強要するこの社会の同調圧力に違和感を覚え、生き辛さを感じながら日々を送っている社会的はみ出し者あるいは引きこもり者へのエール(応援歌)」
といったところであろうが、そのような読み方も、もちろんアリだと思うし、著者もそれ以上に深いことはもしかすると考えていないような気さえする。
「現代の実存を問い、正常と異常の境目がゆらぐ衝撃のリアリズム小説」
という当初のキャッチコピーもそれなりに的を射ていると思う。
しかし、そういう言葉ではどうしても括れない特有の異物感みたいなものが滲みだしてくるのも確かで、そこがこの作家の最大の魅力なのだろう。
文芸評論家の佐々木敦はこのように書いている。
「村田はこれまでも、世界/社会とちぐはぐであるしかない人間が、世界/社会の歪みや矛盾に自らを馴致していくことによって、遂には生き甲斐のようなものを得る、という物語を繰り返し書いてきた。もちろんこれはグロテスクな物語である。だがしかし、それをあたかも肯定しているかのように、肯定せざるを得ないとでも言うかのように、肯定することが正しいのだと言うかのように描いてゆくところに、この作家の真骨頂がある。」
「村田が現実にコンビニで今も働いていることが話題になっているが、この小説はいわゆる『フリーター小説』の問題圏からは離脱している。彼女が相手取っているのは、もっと普遍的な主題である。」(文芸時評「東京新聞」2016年7月28日)
僕自身は、周囲が主人公に押し付けてくる「普通さ」というのは、これまでの日本近代文学の普遍的テーマとしての「近代的自我」のことであり、この小説の結末において主人公は(そして作家は)そうしたものからの訣別をきっぱりと宣言しているように感じた。
主人公は、コンビニという環境の中で、きわめて理性的、合理的にふるまうことができる。そこに余計な「自我」の思惑が介在する余地はない。彼女はコンビニの機能と同一化しており、その意味において「無我」の状態にあるとも言えるのではないか。
主人公が同棲することになる元バイト店員の白羽は、「普通であること」を押し付けてくる社会に対して不満を述べ立てるが、白羽自身の価値観はその社会規範(=自我)から抜けきっていないため、結局は主人公に対して彼自身を苦しめているのと同じ価値観の理屈で文句を垂れ流す。
主人公と白羽は、ふとしたきっかけで同棲することになるのだが、同棲するとはいっても二人の間に恋愛関係や、まして性的関係が生じることは一切なく、白羽側では他者からの非難から逃れるため、主人公の側では家族や友人から恋愛や結婚についてこれ以上とやかく言われないために相手の存在が都合よかったというにすぎない。
同居している相手を「飼っている」とか「餌をやる」などと平気で言える主人公の神経は確かに普通ではない。しかしそのこととは別に、彼女の中には、いわゆる「普通の人々」にはない「まともさ」があるように思えてしまう。
主人公(作家)には、なぜ人間(世の作家たち)が「近代的自我」というようなものに苦しまねばならないのかが端的に理解できないのだ。「彼女がなぜ苦しまずに済むのか」を周囲の人々が理解できないのと同様に。
(「『悟り』はゴールではない」MUGA第2号より引用はじめ)
音楽雑誌なんかで、よく「本格派」のアーチストが、「苦しんで、苦しんで、苦しみぬいてこのアルバムを作りました」なんて2万字インタビューとかで誇らしげに語っている記事がある。かつての僕もそういう記事をさもありがたそうに読んでいたものだ。
でも、その人の「苦しみ」ってなんだろうとよく考えてみると、要するに近現代文学がさんざんやってきたところの「自意識との泥沼の葛藤」をよりスケールダウンしたものにすぎないのである。
それって、そんなにありがたく思って、評価するに値するものなんだろうか。
「自意識との泥沼の葛藤」がありがたく持て囃されるのは、それが人間として誠実な行為だという評価がどこかにあるからだろう。確かに、ごまかさずにみっともない自意識にまともに向き合うという作業は、ある意味では正直で誠実なのかもしれない。しかし、結局のところ、自我(エゴ、自意識)なんてものは存在しないのだから、そんなものにこだわる必要はないんだ、「こだわる」のは、その人が「こだわりたい」という理由以上のものはないんだ、という認識があるかないかで、「苦しみ」のとらえかたはだいぶ違ってくるんではないだろうか。
(引用おわり)
村田沙耶香のこの小説が、従来の日本小説とは違うユニークな「新しさ」を持っているとすれば、「近代的自我のドロ沼の苦しみを持たなくて何が悪い?」つまり「無我ですが何か?」と開き直る作家の態度の身も蓋も無さにこそあるのではないか。そしてその挑戦的な態度に僕はおおいに共感を覚えるのだ。
以上