ゴジラ音楽、伊福部昭の無我的オスティナート(反復)
土橋数子
今月観た映画は、『シン・ゴジラ』と『君の名は。』って、ふだん映画を観ない人の行動パターンをなぞっている私ではあるが、とりあえず2016年の流行り物は押さえたとばかりに早くも年末気分……。(いや、あと二か月半ありますね) シン・ゴジラは評判にたがわず面白かった。全体的な感想としては、映画の中で人間はたいへんな騒ぎなのだが、ゴジラは基本、攻撃を加えなければ、歩いているだけというのがすごかった。
プロローグのシーンに宮沢賢治の『春と修羅』が何かを象徴するものとして置かれていた。
(春と修羅・序より抜粋引用)
わたくしといふ現象は 假定された有機交流電燈の ひとつの青い照明です (あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといっしょに せはしくせはしく明滅しながら いかにもたしかにともりつづける 因果交流電燈の ひとつの青い照明です (ひかりはたもち、その電燈は失はれ)
(引用おわり)
「私」は、明滅しながらいかにも確かに灯り続ける青い照明のようなもので、実体ではなく現象。『春と修羅』は、ゴジラを現象として捉えたとき、その暴走(人間から見ての)を止める方法が見つかる、という象徴であったのだろうか。
音楽も素晴らしかった。過去のゴジラ作品をさほど観ていない私が言うのもなんだが、伊福部昭の「ゴジラのテーマ」が、2016年の今でも色あせることなく心に響いてきた。監督と音楽担当は、パンフレットで「ゴジラ映画である以上、伊福部音楽からは逃れられない(中略)今のお客さんに対して伊福部音楽をしっかり啓蒙したい」と語っていたが、エンドロールで流れるその音楽から、製作陣のリスペクトが伝わってきたし、ゴジラ、ゴジラ、と反復される旋律=オスティナートから、「点滅する現象」が想起されもした。元祖日本のミニマル・ミュージック、やっぱカッコいいね!
ゴジラ音楽で有名な伊福部昭は日本を代表する作曲家である。とはいえ、東京音楽学校(現在の東京藝大)卒ではなく、独学で音楽を学んだことから、ある意味で反主流派の代表格とも位置づけられている。 “執拗反復”とも呼ばれるオスティナートは伊福部音楽の大きな特徴である。
北海道に暮らし、アイヌ音楽に傾倒していた伊福部昭が、音楽雑誌に寄稿した「アイヌ族の音楽」という論考に次のようなくだりがある。
(引用)~~~~~~~~
此等〔アイヌの〕の踊りにあって、共通なことは、一般に腰、膝、腕、首と言った大きな部分の直線的な動きが主で其等が展開、発展すると言うことは稀で、幾つかの動きを執拗に反復して次第に興奮に導くと言う手法をとっている。音楽も此と同様に、一つの極めて短小な単純な動機を延々と繰返するのであるが、此等は反復することそれ自体に重要な意味があるのであって、其の動機だけを取り出しても其の魅力は理解し難い。 ~~~~~~~~(引用おわり)
オスティナートという伊福部音楽の特徴が、民族音楽のリズムからもたらされていることがわかる。 また、ウィキペディアによると、伊福部はエッセイ「特撮映画の音楽」で、特撮映画の音楽について感ずることとして次のように語っている。
(引用)~~~~~~~~
一般映画においては納得しがたい観念的な芸術論に悩まされることが多いが、特撮映画ではこれはほぼ皆無である。ドラマツルギーに支配されすぎると、音楽は自律性を失いスポイルされるものだが、特撮映画にはその危険性はなく伸び伸びと作曲ができる。
音楽は本来、音楽以外表現できないものだが、スクリーンの映像と結合すると「効用音楽」として不思議な効果を生むと述べ、「音楽としての自立性を失わずに、こういった効果を万全に利用できるのが特撮映画音楽の特質の一つである」と結論付けている。
~~~~~~~(引用おわり)
観念的な芸術論や印象操作のないゴジラと伊福部音楽のオスティナートが絶妙にマッチということなのだろう。ただ歩いているだけではなく、暴れてもいるゴジラだが、あれは反復されて次第にトランスしていくトラディショナルなダンスなのかもしれない。なにせ野村萬斎がモーションアクターなのだからして、能の無我的舞がサンプリングされて、明滅しているからである。
本稿ではこれが前置きで、同じ伊福部一族の出自という老子研究家・伊福部隆彦の古い本のことを書こうと思ったが、辿りつかなかったので、稿を改めたい。
ちなみに伊福部昭も幼少期に老子を素読していたとのことである。