『赤い線 それは空間』~熊谷守一の縁取りに見る無我表現~

土橋数子  

私がアングラすぎて夫とはほとんど趣味が合わないが、そんな二人が珍しく一致する好きな画家、それが熊谷守一。池袋にある熊谷守一美術館には家族で足を運んだこともある。かれこれ四半世紀前になるが、熊谷守一の出身地である岐阜県の付知町にある熊谷守一記念館にも来訪済。ものすごい奥地にあり、記念館は無人で、少し離れた隣の民家に頼んでカギを空けてもらうシステムだった。

その付知の記念館がリニューアルされたらしく、開館記念展示会も行われたという。時代を経て、ますます人気は高まっているようでうれしい限り。

 

熊谷守一は明治十三年岐阜県の付知村に生まれた。父は初代岐阜市長で衆議院議員もつとめた豪傑。裕福な家庭に生まれたが、実母と離れて妾二人と大勢の異母兄弟がいる大きな家に住まわされていたという。葉っぱが落ちるのが面白くてずっと見ている子どもだったらしいが、おじいさんになっても石や草花、虫などを一日中眺めながら過ごし、「石ころ一つあれば一生遊べる」、「地面に頬杖つきながら、蟻の歩き方を幾年も見ていてわかったんですが、蟻は左の二番目の足から歩き出すんです」などの名言を残している。

東京美術学校の同級生には青木繁がいた。明治四十二年には自画像「蝋燭」が文展に入選する。42歳で結婚してからは五人の子供に恵まれたが、生活は困窮。病気の子どもを医者にすぐにみせることができず、二人を亡くしている。豊島区千早に移り住み、97歳で亡くなるまでそこに住まう。

画壇で名が広まったころ、「これ以上人が来てくれては困る」と言い、文化勲章の内示を辞退、勲三等叙勲も辞退した。「上手は先が見える。下手はどうなるかわからないのでスケールは大きい」など、その言動や風貌から「画壇の仙人」とよばれていた。

熊谷守一は年代によってその作風が違っている。初期から中期の作品は、高い技術力を土台にした古典的な描き方というか、写実的な絵であった。だが、多くの人が熊谷守一と聞いてイメージするのは、やはり60歳近くになってからの作品群だろう。抽象画とも違う、単純化された形と色彩、そしてそれらを囲む輪郭線によって“平面的”に描かれた自然たち。猫、アリ、花、裸婦などの作品が有名である。

赤や黒の線で縁取りをするこの様式(形式)は、熊谷守一独自のものとして世に認識されている。

 

『アウトサイダー・アート入門』(椹木野衣著)という本の中に、短くではあるが、熊谷守一に触れられていた。

ちなみに、アウトサイダー・アートとは:

特に芸術の伝統的な訓練を受けておらず、名声を目指すでもなく、既成の芸術の流派や傾向・モードに一切とらわれることなく自然に表現した作品のことをいう。フランス人画家・ジャン・デュビュッフェがつくったフランス語「アール・ブリュット(Art Brut、「生(なま、き)の芸術」)」を、イギリス人著述家・ロジャー・カーディナルが「アウトサイダー・アート(英: outsider art)」と英語表現に訳し替えた。(ウキペディアより)

 

上記の説明に倣えば、熊谷守一は東京芸術大学の前身である東京美術学校で学んでいるし、存命の時代から絵は評価され画家として活躍していたので、少し違う気がするかもしれないが、同書によると「アウトサイダー・アーチストたちの多くが、いずれも自然との深いかかわりを持ち、しばしばその関心が社会から遊離するほどの極端さにまで及んでいた」という点などにおいて、熊谷守一の世界との向き合い方はやはりアウトサイダーであるという。つまり、アウトサイダーから普遍的なところに到達した、真の芸術家だと言えるだろう。

 

そして、やはり独自の様式(形式)を確立したという点で無我表現だとも言えるだろう。

その様式の特徴である、赤い線の縁取り。これは何なのだろうか。

 

かつて銀座に「ギャルリームカイ」という画廊があり、常設で熊谷守一作品が展示されていた。じつは私は熊谷守一っぽい絵を名古屋の蚤の市で見つけて一枚持っており、それを画商に見てもらおうと訪ねたことがある。画廊の女性はその色紙を見て「もしかしたら、守一が描いたものかもしれません。色紙に絵を描いてご近所の方にあげたりしていたらしいと聞いていますので」と言ってくれた。それを鑑定に出してどうこうというものでもないので、満足して持ち帰った。

 

その時に応対してくれた女性なのかどうかわからないが、『赤い線 それは空間 思い出の熊谷守一』の著者は、ギャルリームカイのオーナーであった向井加寿枝。彼女は画家を志していたが、戦後藤田嗣治に画商の基本を学び1959年銀座に画廊を開廊した。藤田嗣治がパリに行ってしまってからすぐ熊谷守一の絵に出会い、早速ご本人を訪ねたという。そのときの印象をこのように語っている。

 

(著書より引用)

ついこの間まで、私が一番すばらしい人と思い込んでいた藤田先生には大変申し訳ないことですが、「フジタどころのさわぎではない」というのが、私の脳裏を走った偽らない実感でした。

~中略~

やはりあまりにも自然な様子の中に、この人の深さがにじみでていたのかもしれません。

(引用おわり)

なんだか思いっきりうなずいてしまった。

 

さて、本書のタイトルにもなっている「赤い線」。多くの守一ファンもそうだと思うが、向井氏にとって大きな関心事だったらしい。以前から「赤鉛筆の赤は、日が経てばとんで消えるが、それでよいのだ」と守一は言っていたが、あるタイミングを見計らって、訊いてみたという。

 

(著書より引用)

先生はいきなり右手握りこぶしを目の前に付き出し「ここに卵があるだろう」と握りこぶしを卵になぞらえ、「この卵には光が上からも斜めからも方々からきて――」と左手で光の方向を指し示しながら「それで卵は丸く見えるのだ」とそれでおしまい。

(引用おわり)

 

向井氏は「はあ」と不明瞭な返事をしたまま終わり、その後何年間も再び尋ねる機会を逸したまま、守一は亡くなる。

 

(引き続き著書より引用)

長い眠りにつかれたばかりの先生のお顔は一、二時間前までのむくみも嘘のように引いて、透き通るほど浄らかで安らかでした。私はただひれふして、長い間の感謝の気持ちいっぱいで「ありがとうございました」と繰り返しつぶやいていました。その時のことです。これはどうしたことでしょう。ひれふす私の頭のてっぺんから後光がさしこんで、それは体いっぱいに広がっていくのが感じられました。そして先生のあのやさしい、
「あれはね」
という声が聞こえてくるではありませんか。するとそれに応えて私はまたすぐ、
「ああ、あの赤い線のことですね」
と聞き返しました。そして先生は、
「あれは空間だよ」
とおっしゃったのです。
その言葉で、はっきりその意味がわかった私は、
「ああ、それで先生はいつか赤い色は消えていいのだとおっしゃったのですね」
「そうそう」
対話はそれで終わりました。

~中略~

啓示は先生が私に残してくださった最後の慈悲としかいいようがありません。

赤鉛筆のあの赤い線にしても、九十歳を過ぎた最晩年の木炭の黒い線にしても、年を経れば消えるだろうし、「消えていいのだ」とおっしゃっていた意味がわかりました。あの線は物が光を受けることによって見える物と空間の区切りちがいないが、それは平面的にとらえた区切りではなく、向こうまで見通した空間までも現しているということが今ははっきりりと理解できます。科学的な見据え方と同時に東洋的な受け止め方の重なる線があの線になっているのではないかと思います。平面的に描いてありながら決して平面的ではなく空間の強さを感じさせられます。熊谷守一作品の秘密は、この一本の線なのかもしれません。

(引用おわり)

 

唐突に神秘体験エピソードとなったが、私もこれを読んで、熊谷守一の作品が「平面的なのに動きがある」理由がわかった。最初に線で動きを捉えて、その縁取りの横を丁寧に塗りつぶす様式。この画風が現れたのは、立て続けに幼子を亡くしてしばらくしてからだったという。「この頃気分が大きくなり、太い線で区切ることができるようになった」と、後に語っていた。

 

熊谷守一は、モノだけでなく、コトも描いている。例えば、「朝のはじまり」という現象を描いている作品は、絵葉書にもなっている有名な絵だが、時間の経過を「縁取り」しているようにも見える。私たちの知覚は「形」を捉えたり、「動き」を捉えたりするが、その知覚の原型のようなものを、一枚の絵の中に表しているのだ。

赤い線の縁取りは空間。私たちが境目だと思っているところは、実は空間であり、その空間の動きによって自然はつながっているのかもしれない。日がな一日、陽の光が当たる石や草花や虫を眺め、飽きることなくその生成変化に目を凝らしているからこそ見える自然の動きを感じさせるために描かれていたのだろう。

向井氏の一文をご紹介する。

 

(著書より引用)

底知れない好奇心で物を見、自然の神秘をこの上なくいとおしみ、雑念など一切無縁のその純度の中から生まれるエキスのような作品は世界広しといえども、類のないものであるにちがいありません。

(引用おわり)

 

参考文献:『赤い線 それは空間 思い出の熊谷守一』向井加寿枝 岐阜新聞社
                   『へたも絵のうち』熊谷守一 日本経済新聞社