言語の百万光年彼方の映画

那智タケシ  

『サイの季節』バフマン・ゴバディ監督 2012年

 

昨今では、アッバス・キアロスタミを初めとして、イランなどの中東の映画に勢いがあるが、これらはシリアスな現実に裸で直面せざるを得ない土壌から生まれ出た必然的な実りであるように感じる。あまりに現実世界が過酷であり、不条理であり、人間の倫理や論理で許容できる規範を超えてしまっている場合、ある種の誠実な人は沈黙し、真の意味で宗教的になっていく。なぜなら、現実を現実として受け止めた時、それを表現する言葉が見つからないからだ。そうした寡黙な宗教的人間は、時に、自らの運命を外の世界に表現するために芸術的手段を行使する。

 

このイランから亡命したクルド系イラン人監督による『サイの季節』は、生々しい、不条理な現実世界を受け入れることから初めて、言葉を超えた表現にまで映像という手段で辿りついた稀有な作品である。個人的には、久々に非言語的な“映画体験”ができた作品だった。これはこの困難な世界を表現し、記述する新しい形式の発見でもあり、方程式の誕生でもあるとさえ感じた。つまり、正直、ここまでの作品だと思わなかったので驚いた。公式サイトのストーリーは以下のようなものである。

 

「イラン・イスラム革命時、ある男の試みによって不当に逮捕された詩人サヘル(ベヘルーズ・ヴォスギー)。30年後に釈放され、生き別れとなった最愛の妻ミナ(モニカ・ベルッチ)の行方を捜し始めるが、政府の嘘によって彼はすでに「死んだ」ことにされていた。一方、夫の死を信じ込まされ、悲嘆にくれるミナにはある男の影がまとわりつく。その人物こそがサヘルを監獄送りにし、ミナとの間を引き裂いた男アクバル(ユルマズ・エルドガン)だった・・・。」

 

サイを初めとした様々な動物が出てくるということで、実際、様々な象徴的映像を駆使したわかりにくい実験的作品かと思いきや、台詞がほとんどないにもかかわらず映画自体のストーリーはわかりやすく、シンプルで、直球である。しかし、イスラム革命時のイランが、詩人が反体制的表現の本を出版したという言いがかりの密告だけで30年間まともな裁判もなしに牢獄に入れられてしまうという現実それ自体が、民主主義社会に生きる我々からすると震撼せざるを得ない。

 

どうやら、これは実在のモデルがいる話らしく、クルド系イラン人の詩人サデック・キャマンガールの実体験を元に描かれたという。映画の冒頭で2人の人物の名前が挙げられ、彼らに捧げられた映画だとされるが、この2人のうち1人はクルド人の教師・詩人で反体制運動に関わったという嫌疑(弁護人によれば一切の確たる証拠もなく)で2010年に処刑され、もう1人は、2011年のテヘランのデモの最中に射殺されたという芸術大学の学生で、彼もクルド人である。中東のクルド人事情は詳しくないし、様々な宗派もあり、体制によっては優遇されていたりいなかったりと一概に言えないが、歴史的に見れば少数民族である彼らは、様々な過酷な差別や迫害を受けてきたとされるし、現代でもその負の側面は残っているのだろう。

 

ある日突然、裕福で、幸福な結婚生活をしていた男が捕らえられ(結婚して2年目だった)、美しい妻と引き離され、一冊の詩集のせいで30年間牢獄に入れられる。妻も10年間投獄される。これは妻に恋をして告白し、袋叩きにあった運転手の陰湿な策略だったわけだが、当時のイランの獄中生活は拷問も当たり前に行われているような恐ろしいもので、若い男が、富も、家庭も、仕事も、時間も、人生のすべてを奪われて、牢獄から出てきた時に苦悩と絶望が額に刻まれた初老の男になっている姿に、我々は何も語るべき言葉を持たない。そして、この男もまた、言葉を忘れてしまったかのような顔をしていて、実際、ほとんど何もしゃべらないのだが、その男の表情と風景が一体となることで、彼の運命の過酷さと重さ、深刻さを雄弁に語っている。その映像こそが――つまり、世界こそが――彼の言葉であり、祈りであり、もしかしたら唯一の希望かもしれないのである。彼はただ、世界を見つめ、立ち尽くして、ありのままの現実に対峙し、沈黙している。

 

この映画の中では、いくつかのある恐ろしい、それこそ言語を絶した運命の交錯の瞬間がある。そしてその瞬間、突如として、何の脈絡もなく動物たちが現れ出る。空から亀が降ってきたかと思うと、車の中に馬が首を突っ込んできて、彼を物言わぬ瞳でじっと見つめる。そして浜辺では疾走するサイが現れる。これらは、もちろん現象世界の出来事ではない。しかし、ある特殊な境遇において、主人公の内的表現が不可能なまでに圧縮され、高められた時、そこに必然的に人間の規範を超えた何かとして動物たちが現れ出るのである。つまり、これは現実よりもはるかに強い、確かな、真実そのものの表現なのだ。

 

動物たちは、決して何かの象徴ではないし、理屈や、一義的意味があるものでもない。フロイトのようなトラウマ論とも関係がないし、ユングの夢判断のような謎解きも通用しない。この映画において、亀は亀であり、馬は馬であり、サイはサイである。しかし、動物が動物としてそのままそこに存在するということそれ自体が、主人公の心象の言語的表現の不可能性を示唆しているのである。

 

何かの実験的映像や、いきすぎた象徴的表現といったものは、映画の自然なモンタージュを逸脱した思考の痕跡が残りやすく、大抵はあざとい、偽りの、装飾過剰な付属物になりがちである。それがどんなに凝ったものであっても、映像の中の世界における人間の内的密度と比例した関係にない限り、これらの実験的表現は、まがいものなり、映像表現の純粋さを損ない、破壊してしまう。しかし、このクルド人監督による映画においては、現象世界における主人公の内的密度と、現れ出る奇怪な動物たちの姿とが比例し、奇妙な有機的結合を果たすにまで至っている。つまり、この状況ならば、空から亀が降ってくるしかないし、サイが目の前に現れ出るほかないということが観客に納得できるだけの真実の密度が、映像それ自体(主人公の相貌や背景)の中に刻印されているのである。

 

映画というジャンルにおいて、タルコフスキーが自覚的にそれを成し遂げたように、芸術家とは、時代の最も悲劇的側面から目を反らすことなく直視し、受け止め、それらを乗り越える全的表現を試みる、主体的に十字架を背負う存在のことである。これはまた、真の宗教者の姿勢でもある。

 

「『アンドレイ・ルブリョフ』で扱ったのは、この問題だった。一見すると、ルブリョフの観察した人生の残酷な真実と、彼の作品の調和のとれた理想は、激しい矛盾をきたしているように思われる。しかし問題の本質は、もっとも激しく血を流しているその時代の潰瘍に触れ、自分自身のなかにある潰瘍を除去することなくして、芸術家は時代の精神的理想を表現することはできないということだ。高次の精神的な活動のために、冷酷な〈低次の真実を完全に自覚して、それを克服することにこそ、芸術の使命がある。芸術は、本質的にほとんど宗教的であり、高い精神的な義務にたいする神聖な自覚を求めるものだ。」(『映像のポエジア』アンドレイ・タルコフスキー著(キネマ旬報社)p.250)

 

あの畏敬の念に満ちた三位一体のイコンは、ルブリョフが安逸な僧院の中に留まることなく、タタール人が襲来する恐ろしい現実世界を放浪し、民衆を哀れみ、自らも罪を犯して苦悩した末にこそ生まれた祈りの結晶であるという解釈――これはロシア的であると同時に、近代以降のクラシカルで、全人類的な芸術が生まれる土台でもある。文学は、既にそれらを成し遂げている。ドストエフスキーやトルストイ、カフカ、カミュといった実存主義的な作家は、そのような小説を書いた。

 

しかし、このあまりにも混沌としていて、多様で、無数の歪曲した情報が渦巻くこの奇奇怪怪な現代世界においては、それらを正面から直視し、乗り越える芸術、文学という概念自体が不可能なこととして諦められ、放棄されてしまったように見える。それどころか、「芸術」という観念自体が古いという言い方をする人も出てきた。人々は混沌を直視することを避け、安易な解釈や思想に飛びつき、娯楽で精神を麻痺させることを好むようになった。そしてますます真実はゆがんだ情報の海の中に埋没し、誰も省みようとせず、海の底を漂い、まるで最初から存在しなかったかのように忘れ去られてしまう。そんな時代において、このような真摯な映画が未だ存在しえることに感謝したいし、表現者は――とりわけ芸術映画というジャンルに関わる人々は――しっかりと打ちのめされて欲しい、とさえ思う。

 

「境界に生きるものだけが、新しい祖国を作ることができる」

 

これは作中で引用される詩人の言葉であるが、祖国を奪われ、国境をさ迷わざるを得なかったクルド人たちの力強い決意表明であると同時に、ナショナリズムや宗教の問題の超克を目指す、真剣な、現代社会に生きるすべての人々へ向けた、世界の最果てからのエールであるようにも感じられる。

 

『サイの季節』は、時代の荒波に飲まれ、住んでいた土地から流され、浜辺に打ち上げられつつも、広大無辺な海を真っ直ぐに見つめ続けようと決意した映像作家による、“言語の百万光年彼方”に達成された映画である。それがどんなに恐ろしい、不条理な、忌むべき運命であったとしても、真実から目を反らすよりも、真実そのものの中に救いがあるのだ――個人的には、久々にそんな確証と勇気をもらうことができた一作だった。