虐殺されたモーツァルト

「人間の土地」サン・テグジュペリ論

ティモ  


最近、特に印象に残った本の感想を書いてみたいと思う。

「星の王子さま」で有名なサン・テグジュペリの実際の体験を基にした、飛行日記。

これを読む前までは、「星の王子さま」の印象しか無く、どこか夢想的な作家というイメージがあったが、この「人間の土地」を読んでみたら印象が一変した。

飛行日記だが、中身は人間の本質探求の書。

何章かに分かれているが、飛行機が不時着した事による砂漠での遭難生活が特に印象に残った。砂漠の魅力と怖さを伝えてくれ、かの有名な「愛するということは、お互いに顔を見あうことではなくて、いっしょに同じ方向を見ること」という言葉のネタ本でもある。

人間の中には、本然なるものが備わっていると、テグジュペルは言う。それは、美輪明宏さんであれば美意識だったり、何かそういうものが一人ひとりに備わっているんだと思う。

なぜ、水も食料もない絶望的な状態で生き長らえる事が出来たのか。その原動力になったものはなんだろう。人が極限的な状態に置かれた時、何の観念も通用せずただ自分に、裸の己自身に由るしかなくなる。

きっと、その裸の己自身によってのみ、人間の本然というものが見えてきて、生きる原動力になるのではないだろうかと思った。

誰にでも役割というものがあって、それを自ら発見し見出す事は可能だという事。

例え人から見たらそれが無意味であっても、その人にとっては自らの役割と責任を持てる事だったりする。

それが、他者を上にも下にも置かず、権威主義にならず、観念を超えて自らを主人公とし自らの生を豊かに生きる力になるのではないだろうか。

結局、各自自らがそれを見出さねばならないのだ。誰もやってはくれない。人が豊かに生きる為には、必ず通らなければならない道であり、通るべき道なのではないだろうか。

彼の砂漠での体験は、僕にそんな事を教えてくれたし、人間の本質を捉えているのは、やはりそこに普遍的な何かがあるからなのだろう。

自分の言葉で、体験で真理を体現し見出したからこそ、人を感動させる事が出来るのだと思う。ただの観念ではなく、身体で語っているものが本物。男は背中で語る、と言わんばかりに。

砂漠の遭難生活での一滴の水があんなにも人を歓喜させるのならば、本来、価値は無限に存在するのではないかとも思った。

また、最終章の「人間」の中で、汽車旅行の際に3日間列車の中で過ごした事を書いているのだが、そこには疲れ切ったポーランドの労働者の姿が描かれていて、僕はなんだか現代の満員電車の風景に通じるものを感じてしまった。少々長くなるが、引用してみたいと思う。

引用始め「人間としての性質を,半ば失いはててしまっているように、ヘルニアのように口のあいた、縄のゆるんだ荷物の中に、彼らは台所道具と寝具とカーテンだけしか入れていなかった。彼らが愛撫したり、いつくしんだりしたすべてのもの、四、五年にわたるフランス生活のあいだに、彼らが手馴らすことのできたすべてであった、あの猫や犬やゼラニウムは、あきらめなければならなかった。彼らはただ、台所道具だけしかもち帰ってはいなかった。あまりに疲れきっているので、眠っているのではないかと思われるほどの母の乳を、一人の子供が飲んでいた。この旅行の愚劣さと混乱の中で、生命が伝えられつつあった。ぼくはその父親を見やった。石のように重く裸な頭蓋、凸と凹とからなって、労働服に包まれ、窮屈な眠りのうちに折れ曲がっている肉体、彼は粘土の一塊のように見えた。夜、これと類似の異形の漂流物が、よく市場のベンチの上にごろごろしている。

これを見ながらぼくは考えた、問題はこの貧困の中には、このよごれの中には、この醜さの中には存在しない。・・・中略・・・ここでいまもっぱら不思議なのは、彼ら両人が、いま見るような、粘土のひと包みに変ってしまったということだ。彼らははたしてどのような鋳型を通り抜けてきたのだろうか、いまのこのまるで金属打抜き機にでもかけられたかのような、姿になりはてるまでには。年老いた動物たちは、なおその美しさを保つのがつねだというに。それなのに、なぜこのみごとな人間の石膏像は傷んだのだろうか?」

引用終わり

殺風景な電車のホームから、人がゾロゾロと機械の様に電車に乗り込んでいく。けたたましい音が鳴り響き、僕は慌てて電車に乗り込む。

ぎゅうぎゅう詰めになった、息も苦しくなるほどの満員電車に揺られながら、毎日仕事に行く。その顔は険しくなり、一瞬にして身体がガチガチになり、なんだか苦行をしている気分になる。

そして、仕事を終えた後、再度電車に乗り込み、はーい、終了!と言わんばかりに電車の扉が無造作に、ぶっきらぼうに開き、ゾロゾロとホームに出て家路に着いていくのだ。

こんな生活を続けていると、なんだか心が死んだ様な気分になってくる時がある。

こんな風に感じているのは僕だけかもしれないが。

これが“働く”という事なのだろうか、とふと考える。何かが足りない、何かを欲しているが、それが何なのかは分からないまま、ただ日々が淡々と過ぎていくだけだ。

引用始め「ぼくは、あるひと組の夫婦の前に腰をおろした。その男と女のあいだに、子供はどうやらわずかに凹みを作って、眠っていた。子供は、眠りながら寝返りを打った、するとその顔が、燈火の前に浮かび出た。おお!なんと愛すべき顔だろう!この夫婦から、一種黄金の果実が生れ出たのだった。この鈍重な二人の者から、美と魅力のこの傑作が、生れ出たのだった。ぼくは、このつややかな額、この愛すべき、とがらせた唇のやさしい表情の上にうつむいた。そうして、ひとり言をもらした、これこそ音楽家の顔だ、これこそ少年モーツァルトだ、これこそみごとな生命の約束だと。・・・中略・・・花園に、新しい薔薇の変種ができると、園丁たちは大騒ぎする。人はその薔薇を別に取り分け、人はその薔薇を培養し、人はその薔薇を大事にする。ただ人間のためには、園丁がない。少年モーツァルトも、他の子供たちと同じく、金属打抜き機にかけられる運命だ。モーツァルトが、キャバレーの腐敗の中にあって、腐れはてた音楽を、自分の最大の喜びとするようになるのだ。せっかくのモーツァルトも、これで万事休するわけだ。・・・中略・・・いまぼくを悩ますのは、慈悲心ではない。永久にたえず破れつづける傷口のために悲しもうというのでもない。その傷口をもつ者は感じないのだ。この場合、そこなわれる者、傷つく者は、個人ではなく、人類とでもいうような、何者かだ。・・・中略・・・ぼくがいま悩んでいるのは、スープを施しても治すことのできないある何ものかだ。ぼくを悩ますのは、その凸でも、凹でも、醜さでもない。言おうなら、それは、これらの人々の各自の中にある虐殺されたモーツァルトだ。」引用終わり

電車の中で座っていると、子供をよく見かける。険しい表情の大人たちとは対称的に、彼らは元気だ。そして、赤ちゃんの目は、まるで混じりっ気の無い水晶の様に澄んでいて、ハッとさせられるものがある。

ふと、自分の子供時代を想い出す。あの頃は、世界が生き生きとして、世界が身近にあった。あの頃、僕の中のモーツァルトは確かに生きていた。言葉で表現できない何ものかを、確かに奏でていた。

どうしてこうなってしまったのか。いつの間に僕の中のモーツァルトは殺されてしまったのだろうか。

そんな事を想いながら、自宅に帰った。一息ついた所で、部屋の窓を開け、夜風を感じた。

夜風は僕の心に沁み渡り、僕の中のモーツァルトが蘇ったのを確かに感じたのだった。夜風が何をもたらしたのかは分からないが、夜風が僕の精神と世界とを再び繋げてくれたのだった。

僕が探し求めていたものは、確かにこの世界にあった。幻ではなかった。

それは、夜風の中にあり、子供の姿の中にあり、赤ちゃんのどこまでも透き通った眼差しの中にあった。

“世界”は常に開示されていたのだ。

最後に、この言葉で「人間の土地」は締めくくられる。

「精神の風が、粘土の上を吹いてこそ、はじめて人間は創られる。」