偶像崇拝の時代の終わり
高橋ヒロヤス
There are no such words as me or mine. Words of this nature were introduced into society as a control mechanism which systematically first divided the subjects individually and then as a collective.
「私」とか「私のもの」とかいう言葉は存在しません。この性質の言葉は、まず主体を個人として分割し、しかる後に集合体としてシステマチックに扱うために、コントロール・メカニズムとして社会に導入されたものなのです。
―― プリンス "Art Official Age" (2014)より
今年に入ってデビッド・ボウイやプリンスなど大物ポップ・スターが次々に亡くなっている(あとに残るのは・・・)。
ボウイについては無我研のブログ(アメブロ)にも書いたし、プリンスについての個人的な思い入れは個人ブログに吐き出したので、ここではもう少しMUGA的な見地から書きたい。
ニーチェ以降の神なき時代の西洋商工業都市文明(ダンテス・ダイジによる造語)において、いわば神の代行者としての役割を果たしてきたのが偶像(アイドル)としてのポップ・スターであった。
ジェームス・ディーン、マリリン・モンロー、ビートルズ(ジョン・レノン)、マイケル・ジャクソン等々、20世紀はさまざまなポップ・イコンを創造してきた。
いま、上の四人を並列に「ポップ・イコン」として並べたが、ジェームス・ディーンやマリリン・モンローのような映画スターと、ジョン・レノンやマイケル・ジャクソンのような音楽界(ミュージック・ビジネス界)のスターとは少し性質が異なっている。
前者は、映画といういわば「虚構」そのものの世界の中で生きた。その虚構性が「スター性」を支えていた。自分が20世紀のポップ・イコンとしてジェームス・ディーンとマリリン・モンローという二人を特に挙げたのは、彼らの人生や(若くして亡くなった)「生き様」という「現実」(これもまたカッコつきの現実、すなわちイメージであって、ありのままの現実でないことは言うまでもない)を含めて偶像化されているという意味を込めている。
後者は、映画スターとは違って、「自らの創造する作品」(音楽、歌詞、ダンス、ミュージックビデオ、ライブステージ)がアーチストとしての偶像化につながった。ジョン・レノンは、それまでのポップ・スター達とは違って、自分のやり方で作曲し、自分の内面を言葉にして世界の何億人もの聴衆に提示した。マイケル・ジャクソンは、卓越したパフォーマーであっただけではなく、あらゆる媒体で自らの表現を完全にコントロールしていた(時にはその完璧主義が滑稽に見えるときもあった)。
いずれにせよ、ポップ・スターとは、断片化された個々の大衆が、巨大な存在に同一化することで自我イメージの拡大(肥大化)を図るための一種の装置であると言える。同時に、人間を超えた創造性を発揮する(ように見える)スターたちのパフォーマンスを通して、そこにある種の神性をも見ていたのかもしれない。
確かにプリンスやマイケル、全盛期のデビッド・ボウイのステージにおけるパフォーマンスを見ると、常人には想像もつかない輝きが宿っている。それはそのように見えるよう綿密にメディア戦略及びステージ構成が練り上げられているからなのだが、彼ら自身が常人を遥かに超えるポテンシャルを持ちながらそれを維持するための努力を怠らなかった結果でもある。彼らは神のような存在であることを大衆の欲望によって強制されていたともいえる(マイケルもプリンスも激しいステージ・パフォーマンスの結果として絶え間ない肉体的苦痛に悩まされており、鎮痛剤の過剰摂取が死に直結したという説もある)。
21世紀に入り、少なくとも20世紀のようなスケールでは新たなボップ・イコンは生まれない中、次々と伝説のレジェンド達が物故していく度に、ある種の感慨が深まっていく。
マイケルやプリンスのような化け物じみたスターというのは、これからはもう出てこない気がする。セールス的に、もうレコードが世界規模で何億枚も売れる時代ではないし、どんなに才能のあるアーチストでも、音楽のジャンルが細分化され、各々の完成度が(テクノロジーの進歩によって)高まりすぎている現状では、あらゆるジャンルを網羅するような圧倒的な作品をつくることは不可能になっている。
大袈裟に言えば、大衆が巨大なポップ・スターに自我(エゴ)を仮託して、スターという幻想(イメージ)を共有しつつ非現実性の中で生きる時代は終わり、それぞれの人間が自らの現実の中で新たな創造者(超人)となるべき時代が到来したのかもしれない。
プリンスの言ったとおり、「私」とか「私のもの」とかいう言葉は、「まず主体を個人として分割し、しかる後に集合体としてシステマチックに扱うために、コントロール・メカニズムとして社会に導入されたもの」にすぎないのであり、このことに気づく人々が増えていけば、確実に世界は変わっていくだろう。