~神よ正しき道を教え給え~ 宝塚歌劇『ベルサイユのばら』

宙組トップのオスカルは無我表現か!?

土橋数子  


いやあ、びっくり仰天だった。何かと言えば、人生初の宝塚体験が。「どうしても行けなくなった人がいる」ということで、100周年を迎えた宝塚歌劇団の宙組公演『ベルサイユのばら』を観劇してきた。1974年の初演時は、社会現象となるまでにヒットした舞台である。本公演はプラチナチケットだそうで、友人のヅカファンによると「観に行けるなんて運がいい!」ということです。ありがたや、ありがたや。(ちゃんとチケット代はお支払いしましたので……。念のため)

若い頃は、演劇もときたま観に行ったが、それはほれ、アングラ専門だったので、このような国民的というか本格的というか、厚化粧の型芝居には興味がなかったけれど、100年続いたその価値に触れてみることも悪くないかもと、絢爛豪華な男装やドレス姿で踊りまくられることは覚悟して、一生に一度の宝塚観劇だと軽い気持ち(?)で出かけてみたら、そのステージは思いのほか奥の深い世界だった。無我メルマガに宝塚もどうかとは思うが、書かせていただきたい。

まず、この「宝塚ベルばら」には、二つの小宇宙が交錯していることをご説明しておく。一つは宝塚歌劇団の十八番(おはこ)演目という小宇宙、もう一つは原作であるフランス革命漫画「ベルサイユのばら」の小宇宙である。

なので、この演目には、通常のヅカファンだけではなく、ベルばらファンのおばさま方も押しかけてくる。しかもこの方々、会期中に何回も同じ演目を観に来られる有閑人なので、そりゃチケットはなかなか取れないわな。

幕が上がるまでに、ヅカファンの友人から受けたレクチャーによると、「ベルばら」のような、キンキラ少女趣味の舞台は、意外にも宝塚歌劇のほんの一部であり、和装の時代物など、渋めの演目もたくさんあるそうである。また、本場の宝塚と東京劇場以外にも、小さな劇場も含めて、日々どこかで何組かが公演をしているが、この興行システムはAKB48と近いものがあり、秋元康は参考にしたのかもしれない。宝塚のトップスターは、さしずめセンター。タカラジェンヌは未婚女性、AKBは恋愛禁止。AKBの握手会のような、お目当てのジェンヌを囲むお茶会もある。ファン層は、ほとんど女性VSほとんど男性だが、その真逆ぶりも面白い。ヅカファンのお母さんにAKBファンの息子とか、実在しそうだな。

そんなこんなの外堀を埋める話をしているうちに、いよいよ幕が上がった。ここで人生初めて、宝塚のトップスターを目の当たりにすることに。友人のヅカファンは、ここのところトップを追いかけていなかったらしいが、久々に、この宙組トップのファンになったそうである。宝塚100周年公演を背負って立つ、凰稀かなめオスカル様の登場だ。

「ああ、我が名はオスカル~♪」「神よ正しき、道を教え給え~♪」と、剣を振り、舞い踊りながら歌うオスカル。な、なんという、透き通るような美しさだろう。 それは、厚化粧&型芝居という重い鎧ですら、ナノ粒子になってキラキラと輝くほどまで粉砕されてしまいそうな透明感。トップスターでございという、押し付けがましさなどみじんもない、気高い魂にのみ従って生きる、オスカル様がそこにいた。

原作のベルばらは、フランス革命をモチーフにした壮大な物語であるが、宝塚のベルばらは、その物語の中から、ポイントを絞った脚本で、繰り返し上演されている。オスカルとアンドレの恋愛中心の作品もあれば、マリーアントワネットとオスカルのストーリーが中心のものもある。今回の「オスカル編」は、マリーアントワネットは登場せず、オスカルとアンドレが中心となった脚本で、「恋愛もの」という場面は多々あったが、私は真正面から「革命もの」と受け止めた。

いまから225年前、1789年7月14日のバスティーユ襲撃。軍人として王に仕える身分であったオスカルは、王族や貴族などの支配階級と友人たち市民とのあいだで板挟みになりつつも、「自由、平等、友愛」を旗印に、民衆の思いを背負って戦い、革命の中で散る。 このフランスの市民革命があってこそ、今日の日本の民主主義国家もあるのである。オスカル様のおかげなのである。ありがたや、ありがたや。

ま、オスカルは、日本人の漫画家・池田理代子が創ったキャラクターなのだが。この「女でありながら男の格好をして男社会で戦う」オスカルは、70年代の、まだまだ圧倒的な男性社会であった日本で、職業婦人として戦ってこられた池田理代子さんが、自身の境遇や理想を投影して描いたキャラクターだ。時代が、彼女に描かせた漫画なのだろう。

そして今回の宝塚ベルばらも、時代が創らせた舞台であったと思う。凰稀かなめオスカルは、フランス革命をモチーフに、日本人が純化させて理想を投影した革命戦士だ。男と女を超越した、虚構と現実を超越した、時と空間を超越した、気高き魂。

なぜいま、この革命の舞台に心が震えたのか。それはやはり、私(そして人々)が心のどこかで革命を求めているからなのだと思う。

君たちはいま、市民革命によってもたらされた民主主義が、危機を迎えていると感じないか。(←ヅカ風に大仰に読んでください)キナ臭い法律解釈、グローバル企業の席巻によって、さらに強化されるよるお金の「物神化」。1%の富者と99%の搾取される者。フランス革命前夜どころか、中世の一神教のような、「金がすべて」という世界にいるような気がしてならない。そこからもたらされる閉塞感は、何かの末期症状なのだと思いたい。それは、資本主義という、「どこが主義やねん」と突っ込みたくなる社会システムが、末期を迎えているであろうということだ。

それを認めず、アベノミクスなどと称してカンフル剤を打ちながら、成長という幻影に留まり、いつの間にかオスカル様が命をかけて勝ち取ってくれた(←漫画ですけど)民主主義の方を手放そうとしているのではないだろうか――。

『資本主義の終焉と歴史の危機』の著者である水野和夫によると、グローバル資本主義と、民主主義と、国家主義の3つは、共存できないそうである。どれかひとつを諦めなくてはならないという。日本はいま、3つの中の民主主義を諦めようとしている。

1970年代、私は社会の教科書を読みながら「なんていい時代に、いい国に生まれたんだろう。社会主義だったら、一日中、コルホーズ。畑でじゃがいも詰めの作業だ。資本主義でよかった。」と思っていた。その頃はおそらく、資本主義と民主主義を一緒くたに考えていた。実際、まだまだ資本主義も開拓の余地があったから、民主主義とも共存できたのだ。

ところが、水野氏によると、資本主義による開拓が、地球の地上をひと回りし、国際金融市場という「空間」も開拓し尽くしてしまった。あとは、労働者から搾取をするしか方法がなくなるらしい。水野氏は、「マルクスは、“労働者よ、団結せよ!”と言ったけど、いま団結しているのは、世界の資本家たちだ」と憂いている。

話がそれたが、ここでオスカルの思想信条について考察してみる。

漫画のオスカルは、啓蒙思想家であるルソーを愛読していた(舞台ではそのシーンはない)。ルソーの『社会契約論』『人間不平等起原論』は、市民革命を支えた根本思想である。そのルソーが提唱した概念に「一般意志」というものがある。

一般意思とは、個人の意思である「特殊意志」の集合体であるとこの「全体意志」とは異なる、社会契約の下にある共同体全体の意志のことを指す。(なんのこっちゃい)

個人の利益を追求するのが「特殊意志」。(無我研で言えばエゴ?)それを単純に足し算したのが「全体意志」。(多数決もここに入るのかな?)「一般意志」は、社会契約のもとに集まった共同体の意志のことであり、これはつまり、ひとりひとりが自己の利益を優先せず、共同体全体の利益を考えるようなものを拠り所にした社会であるということができる。

この一般意志について、現代の思想家である東浩紀は、「ネット環境が整った今こそ実現されうる」としている。つまり、一般意志が、ビッグデータとか、集合的無意識とか、そのあたりまで拡大解釈が可能というところまできているということだ。

そこにさらに考察を深めると(あるいは妄想を加えると)、一般意志が、無我的領域と通じるものがあるかもしれない、と考えている。(まあ、さらなる三段論法を必要とするが) いかにも感覚的な話で申し訳ない。これ以上、難しいことを考えると墓穴を掘るので、話を宝塚に戻そう。

オスカルは、フランス革命という歴史の舞台で、心の自由を求めて戦っていた。その心の自由は、エゴに派生する放埒なものではない。個人の利益を手放し、一般意志にゆだね、共同体全体の利益に譲り渡すことで、人が持つ最高の可能性を発揮して、真の心の自由を得ることができることを、ルソーから読み取ったにちがいない。

舞台のクライマックスであるバスティーユ襲撃に向かう前のシーンで、最愛の人であるアンドレが橋の上で銃撃に倒れる。悲痛な叫び声を上げるオスカル。客席はおばちゃんたちのすすり泣きだ。しかし、ここでオスカルは涙を振り払い、決意を込めて言う。

「シトワイヤン(市民諸君)、彼の犠牲を無にしてはならない。我らは最後まで戦うのだ。自由と平等と友愛のために。シトワイヤン、まず手はじめにバスティーユを攻撃しよう。(中略)シトワイヤン、行こ~う!」

このシーンは、ベルばら最大級の見せ場。ここでオスカルが私憤に駆られているように見えてはいけない。演じるトップの力量にかかわる部分だと思うのだが、凰稀かなめオスカルは、見事であった。私の中で「ぬるま湯にいてはいけない。私の心の中に、革命を起こさなくてはいけない」という熱い思いが、確かに湧いたのだった。

舞台のその夜、ネットで「宝塚リポート」のような番組をチラチラみてみた。そこに主演の凰稀かなめのインタビューがあった。

「好きなセリフは?」というリポーターの質問に対して、彼女はきっぱり答えていた。

「『シトワイヤン、行こう!』です。このとき、私はもう私ではなくなっています。民衆が言わせてくれています」と。「民衆」は、舞台役柄上の市民や民衆たちだけでなかろう。歴史上の民衆の思いも背負っているはずだ。

さらに、

「主役として舞台に立たせていただいていますが、私ではなく、周囲がこのオスカルを形作ってくれていると感じます」とも答えている。

やはり、あの透明感は、美貌だけのおかげではなかったのだ。己を譲り渡して、一般意志に身をゆだねたオスカルであったからこそ、気高き魂を表現できたのだと思う。

バスティーユ襲撃の戦火の舞台は、遠い昔の話のお芝居に思えなかった。もしかしたらまた起こるかもしれない戦争を彷彿とさせた。そして、まだ成し得ていない真の民主主義の実現へと、力を合わせなくてはならないとも。革命といっても、日本人には世界も羨む「無血革命」の実績があるじゃないか。気高き魂のオスカルを創り上げた日本人なら、現実の社会でもそれをなさねば……。

と、おばちゃんにそんな感想を抱かせてしまう、やっぱりスケールのでかい、宝塚歌劇であった。

参考資料
『東京宝塚劇場 宙組公演 ベルサイユのばら オスカル編』パンフレット
『ベルばら手帳 漫画の金字塔をオトナ読み!』湯山玲子
『資本主義の終焉と歴史の危機』水野和夫