『世界の中にありながら世界に属さない』吉福伸逸著
~オザケンの言う「灰色」に戻すセラピー、戻さないセラピー~

土橋数子  

一冊の本をご紹介したい。

『世界の中にありながら、世界に属さない』(吉福伸逸著・サンガ刊)

著者は著述家・思想家・翻訳家でありセラピスト。日本にトランパーソナル心理学を持ち込んだ方ということだが、日本のトランスパーソナル関係の団体とはあまり関係していない様子。ケン・ウィルバーなど海外の思想家の翻訳なども手がけている。大学を中退して、バークリー音楽院に留学、東洋思想とサンスクリット語を学び、ハワイに住んだ。2013年にお亡くなりになっているので、本書は遺稿ということ。日本のセラピストや医療従事者を対象に行われた講習会の原稿起こしで、著者がご存命でない中でこうした本をまとめる作業の苦労が忍ばれる。その甲斐ある一冊、後世の私たちが読んで損はない本に仕上がっている。

 

全体はセラピーについて述べてある。

吉福伸逸は、心の構造を「Power of Brain(思考の力)」、「Power of Emotion(感情の力)」、「Power of Being(存在の力)」、「Power of Becoming(関係性)」の4つのレベルで考え、セラピーを行っていた。この前提について、ここでは詳細を省くが、存在の力という考えが面白かった。読んで字のごとく、存在の力がある人は、どっしりとした存在感を持つ人で、それがある人は、「感情の力や思考の力についても妥当性が増えていく」ということである。ただし、それはすべて良い面とは限らない。「世の中には悪いことをする人の中に存在感だけはあるという人が非常に多い」という面もあるとのことである。

 

セラピーといえば、「現代のスピリチュアルは、苦しみや悩みを抱えている人にとってのセラピーにもなっている」という言われ方をすることもあると思う。「だからそれはそれでしょうがない」という消極的肯定は、無我研の座談会でも発言した覚えがある。とりあえずは今のところセラピーを必要としない強者(あえて)の論理で「セラピーに頼っても解決しない」というのは違うだろう。それで救われる人も多いと思うし。

 

一般的なセラピーは、「無理をしないで」と、疲れた心に癒しを与えることが目的で、話の方向性としては「あなたはあなたのままでいいんですよ」だろうか。ちょっとスピが入っていると「恐れを手放して」とか? 精神医学のカウンセリングの正しい手法を知らないのでうかつなことは言えないが、落ち込んでいる相手に対してさらに落ち込ませる言葉は厳禁だろう。うつで悩む方に、「がんばって」がご法度なのは、広く知られるところで、余計なことを言うことより、しっかりと話を聞いてあげることに重きを置いている様子だ。

 

セラピーの是非については、ミュージシャンの小沢健二が「うさぎ!」という連載記事の番外編、『企業的な社会、セラピー的な社会』という本の中で多くを割いて言及している。この中では、グローバル資本主義的な、企業的な社会をつかさどっているものを『灰色』と名付けており、セラピーは、その灰色が企業社会を維持していくため、人々に革命を起こさせないためにある。

 

「例えば、『豊かな』国々では、テレ・ヴィジョンから大量に『気分が落ち込む人はセラピーを受けてください』という宣伝が流される。気分が落ち込む人、つまり『灰色のシステムの中でつらさや痛みを感じて、システムから外れそうになっている人』は、セラピーに行かされて、システムの中にはめ込みなおされる。」とある。

 

こうしたオザケンの考えに影響を与えていると推察されるのが、『心の専門家はいらない』(洋泉社刊)の著者であり臨床心理学者であり、オザケンの母親でもある小沢牧子である。小沢牧子は、日本のカウンセラー資格制度ができるときに、その方法に反対を唱えて学会を離脱した。カウンセラーは「話をよく聞いて、それをおうむ返しにする」というやり方に終始し、その人の抱える問題を周りから切り離して、「本人の心の問題」に持っていく。そして上から目線でカウンセリングしてやっているという態度だ、というようなことが書かれている。「相談という商品」を「一緒に考え合う日常の営み」に戻していくことが大切だと主張する。

これはこれで、かなりはっきりした口調で強い主張が展開される本なので(オザケンのお母さま、意外に豪傑…)、賛否両論があると思うが、心をいじくり回すようなカウンセリングに対して漠然と抱いていた不信感を説明してくれた気がする。

 

とはいえ、人と人とのつながりが希薄になってしまったとされる現代では、一緒に考え合うという人間関係に恵まれない人もいると思う。そうしたときに、カウンセリングとかセラピーが拠り所にもなるだろう。

 

こうした視点で吉福氏が行っていたというセラピーをみると、苦しさを抱えたクライアントがセラピーを受けるまでは同じだが、そのやり方が、一般のカウンセリングが「治して、社会復帰させる」、つまり社会(会社とか)になじませることを目的としている様子に対して、「ぼくのセラピーでは常に破綻することを求めてきました」と記されている。

 

「多くの人の人生は、自分の現状を保つことに腐心するだけと理解したのです」

「あんたがそうなってるのはぜんぶあんたがそうなりたくてじぶんでやってることだから。そのメロドラマはあんたの妄想だから」というような自我が自分を守ろうとするものであるという話の後に、以下長文だが引用する。

 

「自我は現状維持に常に腐心しているんです。極めて保守的なんですね。その自我を最もおびやかすのは現状の破綻なんです。その現状を破綻させることによって、「あなたの立場は私のすべてを支配している立場ではない。一歩下がりなさい」と自我に自分のいる位置を教えるんです。

それを実体験させるために、ぼくは「アイデンティティを破綻させましょう」と勧めるわけです。ところがそれは自我の状態次第では人格障害であるとか、さまざまな病理につながる可能性が大きいわけです。だから、ぼくは「自覚的にアイデンティティを破綻させること」とはっきり言っています。あえて、進んで自分からアイデンティティを破綻させるんですね。そうすると確実に自分に対する不都合が起こってくるんですよ。特に自我にとってはあらゆる不都合が起こってきます。そこで起こってくるあらゆる不都合をしっかりと受け止めること、自我そのものに自らの愚かさを有無をいわせずわからせることを実体験してもらうんです。そうすると、いかに自分の本質が愚かであるかということをしっかりと受け止める状態ができてきます。自分が愚かであるということを本当に知っている人は存在感がだいたい強いですね。」

 

「多くの人たちは人生の中で大変な思いをしながら破綻することを避けようとしています。(中略)「大丈夫、破綻しなさいよ。破綻しまえば、必ず何かが浮上してきますから、恐れずに破綻にどんどん進みなさい」と言うんです。」

 

このように、吉福氏のセラピーでは、「アイデンティティを壊すことを目的」とし、「自我は人生の段階に応じて、背景になるまで消滅させる」ということなのである。破綻というのも観念的なところではなく、実際に離婚をしたり、自己破産をしたり、という具体的行動として表出するもののようだ。本書には書いてないが、もちろんこれは自分を見つめて自覚的に自我を破綻させることであって、衝動的になったりやけくそになったりして、反社会的行動をとることではない。念のため。

 

吉福氏は、人を救うためにセラピーをしているのではなく、自分の欠損を補うためであると明言している。さらに、自らのセラピーは、社会に適応させるためのものではないので異端視され阻害されるものであるとも理解している。

 

「社会にいてしっかりと適応できるような人の集団を作るのが社会の妄想ですからね」

 

その「社会」が、オザケンが言うところの『灰色』と重なって見えてはこないだろうか。

 

最後に、以下の文を引用する。

「社会の中で一般の人たちの中にいながらしっかり適応している人が、それを超えたいという妄想を持っていることがすごく多いんですね。そういった人に関して、ぼくは嫌悪感を感じて嫌になるんですよ」

 

スピ業界で散見される「覚醒したい」、みたいな欲望のことを指しているのだろうか。自我が守ろうとしている自分をあるがままだととらえて、「あなたはあなたのままでいい」とするのではなく、愚かさを直視して破綻させることからしか土台(存在の力)はできないということなのだろう。

 

本書の中で「無我」という言葉による表現はないが、心理カウンセリングという切り口での「自我」のとらえ方が、納得できる厳しさをもって表されていると思う。だいたいにおいて、本のタイトルは「厳し目にあおっている」にもかかわらず、中身はなあなあ、という本が多い中で、共感できる方もいるかもしれないと思いご紹介させていただいた。