アフォーダンス理論について

高橋ヒロヤス  

アフォーダンス理論というのをご存じだろうか。この理論は、認知科学の分野に革命的な変化をもたらすものであり、21世紀の科学全般にも大きな影響を与えつつある。


ウィキペディアには、次のような説明がある。


(以下引用)


アフォーダンス(affordance)とは、環境が動物に対して与える「意味」のことである。アメリカの知覚心理学者ジェームズ・J・ギブソンによる造語であり、生態光学、生態心理学の基底的概念である。「与える、提供する」という意味の英語 afford から造った。


アフォーダンスは、動物(有機体)に対する「刺激」という従来の知覚心理学の概念とは異なり、環境に実在する動物(有機体)がその生活する環境を探索することによって獲得することができる意味/価値であると定義される。


(引用おわり)


これだけでは何のことかよく分からないと思う。


私も十分に分かっているとは言えないが、この理論に直感した画期的な部分を述べてみたい。私が思うに、この理論はまさに「無我表現」についてのものだ。


300年前のデカルト以来、これまでの科学(生理学、心理学なども含む)では、人間や動物は、知覚器官を通して外部の環境から「刺激」を受けて、その刺激が、「頭脳(中枢)」を経て「情報」となり、その情報に基づいて自己という主体が判断を下し、その結果として個々の行為や行動が起こるのだ、とされてきた。


しかし、アフォーダンス理論では、そうは考えない。


「情報」は、はじめから環境に内在しており、私たちの「知覚」とは、それら環境に内在する情報を探知するためのものだという逆転の発想を取る。


これはつまり、「行為や行動は、頭脳を経由しなくても起こる」ということを意味する。言われてみれば当たり前のことかもしれない。しかしアフォーダンス理論の重要な部分は、「与えられた環境の中で最適な行為は、頭脳(中枢)を経由しないときに起こる」という点にある。ここでいう「頭脳」を「自我」と言い換えてもよい。


身近な例を挙げれば、時速150キロで向かってくる野球ボールをジャストミートする動きは、頭脳を経由して行われるものではない。そこでは途方もなく微妙な瞬時の判断と、とてつもなく複雑な肉体器官の制御が行われているが、それを行っているのは「自我」ではない。


グレゴリー・ベイトソンという人は、同じことを別のたとえ話で次のように語っている。


「きこりが、斧で木を切っている場面を考えよう。斧のそれぞれの一打ちは、前回の斧が木に刻んだ切り目によって制御されている。このプロセスの自己修正性(精神性)は、木-目-脳-筋肉-斧-打つ-木のシステム全体によってもたらされる。このトータルなシステムが内在的な精神の特性を持つのである。」


「ところが西洋の人間は一般に、木が倒されるシークエンスを、このようなものとは見ず、『自分が木を切った』と考える。そればかりか、“自己”という独立した行為者があって、それが独立した“対象”に独立した“目的”を持った行為をなすのだと信じさえする。」


「精神的特性を持つシステムで、部分が全体を一方的にコントロールすることはありえない。」「システムの精神的特性は、部分の特性ではなく、システムの全体に内在する」「調和的に働く一つの大きなアンサンブルにこそ、精神は宿るのだ」

(『精神の生態学』、佐藤良明訳、思索社、1990年)


ここでベイトソンが言っているのは、「主体としての<自己>が対象としての<木>を伐った」という従来の考え方が誤りであるということだ。きこりが木を伐る行為の中には一連のシステムのうねりというものがあって、そこでは自己と対象の間に分離はなく、「精神性」と「システム」も切り離して考えることなどできない。


私たちの「知覚」は、周囲に存在する環境と私たちの相対的な関係により獲得されるのである。だから、環境がなければ私は存在しない。つまり、環境は私である(「世界は私である」)。


このことは、前回のメルマガで述べた、ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」の考え方とつながってくる。


言語ゲームにおいては、「行為の原因として何らかの実体としての精神(自我)が存在する」という考え方は取らず、個々の行為それ自体が意味の実体化(意味そのもの)であるとされる。


行為の背後に「自我」という幽霊のようなものが存在するのではなく、行為それ自体が即世界であり即自己なのである。具体的な行為を離れたところに「意味」や「価値」があるような気がするのは言葉の誤用によって生み出された幻影に過ぎない。


アフォーダンス理論は、認知科学の分野に言語ゲームを持ち込んだものであるといえる。環境がアフォードする(与える)ものは、言語ゲーム的情報である。

人工知能やロボット制御の分野では、この理論が活用されて、大きな成果が上がり始めているという。


従来のロボットは、「刺激に反応する複雑な機械」という人間観に基づいて、できるだけ人間の頭脳に近付けるために刺激に対する処理能力を上げることが課題だった。しかし、アフォーダンス理論によって、人間や動物は刺激に反応する機械ではなく、アフォーダンスの知覚という今まで知られていなかったシステムによって行動することが明らかになった。


「アフォーダンスは刺激ではなく「情報」である。動物は情報に「反応」するのではなく、情報を環境に「探索」し、ピックアップしているのである。…アフォーダンスは、刺激のように「押し付けられる」のではなく、知覚者が「獲得し」、「発見する」ものなのである。」(佐々木正人『アフォーダンス 新しい認知の理論』p63)


歩いたり跳んだり物を持ち上げたりといった単純な動作のみならず(「単純な動作」とは言っても、骨、筋肉、神経系などの系統だった運動を可能にする肉体機構そのもののメカニズムはおそろしく複雑である)、もっと「高度な」行為、例えば、今日の昼飯はどこで何を食べるかといったことに始まって、私生活上や仕事上の大きな決断をするときなど、明らかに人為的な意思決定に基づいて行われる行為についてはどうか。


それもまた大きく言えば、アフォーダンスの中での行動なのである。すなわち、所与の環境の中で活用可能な情報を知覚することから行われる行為であることに変わりはない。

ここでも、「生物のあらゆる行為は“生物の自律的な判断”の結果ではなく、“環境と生物との共同作業“で自然に生まれたものだ」というアフォーダンス理論が適用される。


だから、最初に述べたことに戻れば、いかなる環境においても、自我(頭脳)の判断を経由しなくとも、意思決定は可能であるということである。むしろ、自我の判断を経由しないときにこそ、最適解が生まれるのだといえる。


情報を(自我が)解釈して「意味」になる、というのは旧来的な二元論的発想である。

情報が解釈されて「意味」になるのではない。意味は環境の中にすでに内在している。そして、意味とは具体的な行為を離れたところに存在するのではない。


アフォーダンスの考え方では、「学習」というのは知識を蓄積し、知識に基づいた判断力を磨くことではなく、環境に内在する情報を瞬時に引き出し活用する能力を発達させることを言う。そのためには、できるだけ多くの気づきを環境から得ることのできる研ぎ澄まされた感覚が必要になる。


さらに、アフォーダンスは「独我論」(経験は「私」だけのものであり他者と共有することは不可能であるという見方)を否定することにもつながる。これについての詳細な説明は後の機会に譲ることにする。


以上、ほんのさわりの部分を述べただけだが、アフォーダンス理論が「無我表現」について語ったものであることはなんとなく伝わっただろうか。


アフォーダンス理論の発想は、確実に「無我表現」のパラダイムとつながっている。

ウィトゲンシュタインと並行して、今後もう少し考察を深めていきたいと思っている。


参考文献

佐々木正人『アフォーダンス -新しい認知の理論』1994年 岩波書店

佐々木正人『アフォーダンス入門』1996年 講談社学術文庫

グレゴリー・ベイトソン『精神の生態学』、佐藤良明訳、思索社、1990年

川村 久美子 論文『アフォーダンス理論がもたらす革命』

 (http://www.yc.tcu.ac.jp/~cisj/02/2-3.pdf)

高橋久美子 論文『心霊科学上の諸問題に関する哲学的考察』

 (http://777.littlestar.jp/sp/wet.htm)