「あまちゃん」に観る無我と自我
高橋ヒロヤス
NHK朝の連ドラ『あまちゃん』を見ている。
宮藤官九郎脚本ということで話題を呼び、4月に放送開始してからは、これまでのNHK朝ドラの常識を破るようなストーリー・演出や、ヒロイン・アキを演じる能年玲奈の爽やかな存在感をはじめユニークなキャストによる演技が評判で、今や「あまちゃんブーム」といってよいほどの現象になっている。
「物語は大きく2部構成で、前半の「故郷編」では、東北地方・三陸海岸にある架空の町・岩手県北三陸市を舞台に、引きこもりがちな東京の女子高生が夏休みに母の故郷である北三陸に行き、祖母の後を追って海女となるが、思いがけないことから人気を得て地元のアイドルとなる姿を描く。後半の「東京編」では、アキが東京に戻り、全国の地元アイドルたちを集めたアイドルグループ「GMT47」(ジーエムティー フォーティセブン)のメンバーとして成長する姿を描く。最終盤では、2011年(平成23年)3月11日発生の東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)を扱う予定にしているという。」(wikipediaより引用)
宮藤官九郎は自分と同い年で、彼が随所に挟んで来る小ネタは自分の世代にはツボにはまることが多く、逆に他の世代は置いてけぼりになっているんじゃないかという危惧感もありつつ、今のところ巧いバランス感覚を保っているようだ。
この物語には、アキとユイという対照的な二人の少女が登場する。
主人公であるアキ(能年玲奈)は、東京で生まれ育ち、複雑な家庭環境もあって暗い高校生だったのが、岩手の海や自然や田舎の人々に触れて、海女である祖母・夏ばっば(宮本信子)の下で感情を解放され、屈託のない心を取り戻す。
一方のユイ(橋本愛)は、地元の名家に生まれ、容姿にも恵まれ、将来の人生も約束されているが、田舎の暮らしには満足できず、東京でアイドルになるという夢を持っている。東京や芸能界の事情についても自分なりに知識を仕入れている。
地元でアキとユイはアイドル・ユニットを組んで成功し、東京のプロダクションにも目をつけられ、アキはユイに引きずられるようにして東京でアイドルを目指すことになるが、家庭の事情で結局アキだけが上京することになる。
「あまちゃん」前半部(岩手編)においては、アキとユイの姿は悉く対照的に描かれており、前者を無我表現、後者を自我表現の象徴とみると興味深い(もちろんこれは便宜的な表現にすぎない)。
すなわち、アキは自ら夢を持って主体的に動くというよりは、周囲の環境に身を委ね、そこに心を開いて行くことで、「私」のはからいではなく「無」のはたらき(無為)に従って動いているように見える。もちろん、東京に戻らず海女になるとか、上京してアイドルを目指すという方向性は彼女自身の意思によって選択されるのだが、それは事象の必然的な流れの中に身を投じるという無我的行為の不可欠な一環なのである。
一方のユイは、絶えず流れに逆らって、「私」の夢を実現することに躍起になっている。それは必然的に周囲との軋轢を生みだし、結果的に夢の実現が阻まれるような出来事の現実化という帰結をもたらす。
この物語が優れているのは、単純にアキ=善・正義・明るさ、ユイ=悪・不正・暗さのような二項対立ではなく、お互いが補完し合う関係として描かれていることだ。アキはユイの美しさに憧れ、ユイは自分にはないアキの魅力に惹かれている。アキが「無」のはたらきの表現であるとすれば、ユイは「有」のはたらきを担っているといえる。
前半部のクライマックスは、二人が「潮騒のメモリーズ」というアイドル・ユニットを結成し、町おこしのイベントで熱唱するシーンだが、ここにはアキ(無)とユイ(有)の融合による「玄」の世界が見事に表現されている(別稿「伊福部隆彦著『老子眼蔵』復刊を望む」の「無と有と玄」の項参照)と見るのは無理がありすぎるだろうか。
現時点(7月5日)では、後半部(東京編)がスタートしたばかりで、東京で夢を追いかけ始めたアキの姿と、上京を断念せざるを得なくなったユイが自暴自棄になってヤンキー化する姿が極端に対比して描かれている。今後、この二人の運命がどんな形で交錯していくのか、どきどきしながら見守っていきたい。