~アナと雪の女王 vs 小池龍之介~

どちらの「ありのまま」に被害が少ないか

土橋数子  


みなさんの周囲でもレリゴー旋風は吹き荒れているだろうか。うちの保育園児はすっかり巻き込まれている。普通の状態で充分ありのままなのに、もっとありのままになる気だ。

「自分大好き☆スピリチュアル」、もしくは「アドヴァイタ系あるがまま」のいずれについても、日頃より快く思っていない無我研メンバー(ですよね?)の一人ではあるが、松たか子の直球「ありのまま」に対しては「はい、はい、はい。わかりました」てな感じで、聞き流しつつ、うっかり歌ってしまう、そんな仕事と子育てに追われる毎日。前回は休載で申し訳ない。

さて『アナと雪の女王』の大ヒットで、「ありのまま」を信条にしているスピ好きさんは、すっかり自分を肯定されたような気分に浸っているのではないだろうか。(←嫌味ですね)。一方で、繰り返しかかる曲がうるさいとか、園児でもないのに夢中になる大人続出とかで、ささやかな被害も出ている模様だ。

メルマガ読者が園児に付き添って映画館に行ったとも思えないので、念の為にストーリーを説明すると、これは「ありのままでよし」と全面肯定している映画ではない。


以下、ネタバレ注意。


雪の女王となるエルサが「ありの~♪ままの~♪」と歌いだすのは、話の展開のまだ途中だ。指先から冷風を出して触れたものを凍らせちゃう超能力を持つエルサは、その力をひた隠しにして生きてきた。しかし、女王に昇任する式典でいろいろイラついているところに、妹のアナに封印用の手袋を引っこ抜かれて、激怒。自分の国を振り切って、雪山に駆け出し、超能力全開で氷城を造り、そこで孤独に生きる道を選んだ。封印を解いて、自分を開放したわけだ(Let it go!)。そこで歌われる「ありのまま」なのである。

ところが、話はこれで終わらない。自分はありのままで、それでよかったのだが、自国はその超能力開放の影響で、猛吹雪。「少しも寒くない」のはあんただけで、みんな凍え始めた。エルサは自分の超能力をコントロールできず、良い方向に使う自信を持てないまま、状況は混迷を極める。しかし、最後はアナの「自分の命よりも他を優先する行為」によって、女王の心は氷解したのだ。国もポカポカ、良かったね。

つまり、この映画には、「“ありのまま”は、健全な成長過程だけど、あんま調子に乗ってると周りに迷惑かかるから注意してね」というメッセージが込められているのである。(かどうかはわからない。)

一方、「全米発ありのまま」が増殖し始める少し前に、ジャパニーズお坊さん(の格好をした)小池龍之介氏から、十何冊目の本が出版された。『“ありのまま”の自分に気づく』。さすが売れてる著者、タイトルがディズニーとシンクロしている。

私も以前、『煩悩リセットお稽古本』『考えない練習』『平常心のすすめ』など数冊を読んだことがある。けっこう読んでるな。お坊さん人生相談ブームとか、瞑想で怒りを鎮めるブーム(とかなかったっけ?)の、先駆けになった人だと記憶している。先日の無我研の編集会議でも小池氏の名前が挙がり、「害があるかないかといえば、あるでしょう。まあ、個人攻撃はやめましょう」というところに落ち着いた。(←嫌味ですね)

小池氏の本には、瞑想で今に集中するとか、自我をなくすとか、無になるとか、そんなことが書いてある。回りくどい文体で、一読して何を言っているのかわからないところも多い。それが売れている要因かもしれないとも思う。「なんか良さそうなこと書いてある。次の本にはそれがはっきり書いてあるかな?」てな感じでまた買っちゃうとか。

ほかには、「mixiのコメントがつかないからといって、気がかりになるのは、自分はえらい、自分は大切にされて当然とか思っているからですよ」というようなことが、延々と書いてある。こういうアドバイスで気が楽になる人にとってはいいのかもしれない。

まあ、この原稿書くために「ありのまま本」もわざわざ買ったが、以前読んだものの続きだった。むしろ、古い経典や老荘を引き合いにしてネタ切れ感満載。「自分というものをなくして」という前提の割には、「自己ガー、自我ガー、他者の目ガー」という自意識過剰感が延々と続く。いや自我について述べているので、そう繰り返し書いてあってもいいのだが……。小池氏を貫いているものは、何なのだろう。あ、仏教ですよね。すみません。

気になるのは、次から次へとたくさん出されているその本の中に、「少し前までの自分が否定されている」という部分がチラチラあることだ。「以前は仕事で人の期待に応えようとして、無理していたが、背伸びはやめた」とか、「お相手(恋人)と別れたがそれもこちらが未成熟だったせい」とか、「以前よりも自分をありのままに見つめることができて、解放された」的なことが、毎回書いてある。

ふむ、と思って、小池氏が自分のことを赤裸々に語ったとされる『坊主失格』も買ってみた。そして驚愕。ものすごい人だった。

DV離婚や恋人の自殺未遂、通りすがりの人に変なこと話しかける奇行の数々、こうした自分を、なんたら瞑想を年がら年中行うことで、変えることができたそうなのである。少し前の自分の否定度でいえば、この本が一番強かった。いわく、仏教で克服したとなっているが、読後、私の脳裏に浮かんだのは、仏教用語の「愛別離苦」ではなく、このごろ児童福祉関係の仕事で学んだ「愛着障害」の四文字だった。

「愛着障害」とは、人は赤ちゃんのときに、一定の保護者がきちんと要求に応えてくれる「サーブ&リターン」を繰り返しながら大きくなることが大切だが、その養育に欠けてしまった場合に出る、問題行動などの症状のこと。特に、生後1年まで、いやもっと、3ヶ月までに「この世界は、私の声に応えてくれる」という実感を赤ちゃんに与えてあげることが大切だという。それは一定の保護者が、普通に授乳して、おむつ替えて、抱っこして、呼びかけに応えるという普通の子育てのことではある。

小池氏は、立派なご両親に育てられた様子らしいのに、なぜだかわからないが、赤ちゃんのときに家に放置されることがままあったという。(お母さんが若かったからと書いてあった)その「渇愛」が、幼少期の行動を支配し、青年期まで続いたというようなことが読み取れた。そうなると、小池氏の“自分への執着をなくそうとする必死さ”も理解できる、次から次へと出している本は、否定して埋め合わせた自分をまたさらに否定して、「今は埋まっています」という生存確認なのかもしれない。

作家としての系列(もうお坊さんとして見ていない)は、中村うさぎと同じだと思う。自らが標本になり、現代の病(とその克服、による死)を体現するタイプ。ご自分で書いている「身の程を知って、ありのままに」で収まることはできない人だろう。求道者としては、ものすごい振れ幅を持っていることは必須条件なのでポテンシャルは高い。ナチュラルな写真とデザインの表紙でありのままを演出してるけど、もうひと波乱はあると見た。

タイトルの結論としては、アナ雪の方が、被害が少ないということになる。だって、子ども向けなのだから。特に奥行はない話だけど、シンプルで迷わなくて済む。小池さんの真剣に読んでたら、迷っちゃう。

「ありのまま」は否定しない。幼少期のうちに、たっぷり「ありのまま」しよう、させよう。後になって埋め合わせしようとすると、とても労力が必要だから。さあ、今日も園児と一緒に、歌うぞー。