MUGA的生き方(お笑い編)

  

「MUGA的生き方」というものが世の中に現象しつつある象徴として、今ブレイク中の若手お笑い芸人の代表格、有吉弘行とオードリーについて取り上げてみたい。


この両者に共通する点は、ブレイクする前に長い「地獄」を見ているということだ。

有吉は一度「猿岩石」で大ブームを起こし、それが去った後、10年近くの間、仕事も収入もほとんど無い時代を過ごす。

オードリーは、2000年のデビューから、ブレイクするまでの約10年間、悲惨なほど人気に恵まれなかった。


有吉は、まったく仕事のなかった7,8年の間、毎日夕方4時に事務所に電話して、次の日に仕事が入っているかどうかを確認させられた。もちろん仕事は入っていない。そんな生活が続くと、毎日4時前になると自然と全身が震えるようになり、遂にノイローゼ状態に陥った。


伝え聞くところでは、有吉は、そんな不遇時代の中で「本当の自分なんてないんだ」という信念を持つに至ったという。だから無駄なプライドは躊躇なく捨てた。


(以下、有吉の著書『嫌われない毒舌のすすめ』より引用はじめ)


普通は、「自分にプライドを持て!」とか言いますもんね。

「プライドをなくした人間は最低だ!」とか言うし。

だから僕、最低の人間なんです。

でも、それでいいと思っている。

プライドは持っていないけど、「僕は最低の人間ですよ!」っていう、人間としての根っこの部分だけは、キチンと持ってますから。それさえしっかり押さえておけば、何をやっても平気だと思うんです。


(引用おわり)


これは、ブレイク後の有吉の毒舌芸や開き直った態度の根底にあるものをよく示す発言だ。


一方、オードリーはデビュー後、まったく人気が出ず、ライブでも受けず、会場を借りるお金がないので春日の6畳風呂なし自宅アパートで10人に満たない観客を前に「小声ライブ」を開いていた。そんな中で、オードリー若林は、どうやったら売れるのかをとことん突き詰めて考えて来た。彼の語る持論によれば、


「一番の問題は「『自分』から出発しないで、『理想』から出発してしまうことだ」という。


だから「理想」と「自分」との大きなズレにおしつぶされてしまう。結果、「自分」を大きく見せるために武装し余分なものを積み重ねようとしてしまう。だが、「積み減らす」ほうが「正解」なのではないか、と若林は分析する。


「減らして減らしていった最後、逃げようのない本来の自分というものがドスンと出てきた時に、その人らしいものが現れます。それこそが、面白い」(『芸人交換日記』解説)。


若林は、どんなに練習しても一向に「下手で、面白いことが言えない」春日をどうやったらちゃんとした芸人にできるかを考え、試行錯誤してきた。そして最終的に到達した結論が、現在の春日である。実は、それはもっとも本来の春日と「ズレ」がなかったのだ。あるがままの春日が一番面白いということに気づくまでが、オードリーのブレイクまでの歴史だったのである。


しばしば芸人は「辞めなかったらいつか売れる」などと言われることがある。しかしちょっと違う、と若林は言う。「辞めないことによっていつもの自分がネタに出るときが来て、それが見つかったら必ず売れる」(『オードリーのANN(2012.9.8)』)のだ、と。


二人の若手芸人が述べたことは、前号のメルマガで那智タケシ氏が語ったことと奇妙に符合すると考えるのは自分だけではないと思う。


(以下、MUGA20号所収の対談「『石ころ』になって見えてくるもの」より引用)


那 だって、事実っていうさ、石ころがここに一つあるとして、石ころはこうだ、こうだって積み重ねちゃうじゃん? ほわーんとしたもの。こっち(石ころから離れた上の方)になっちゃうじゃん。ネットとかでもね、いろいろと言ってくる人もいるけど、相手の本質がそのほわーんじゃなくて、そのちっぽけな方だよ、って。それが見えちゃう。こちらがそこを指摘すると、切れちゃう。いや、そのいびつでちっぽけなのがおまえだよって。それを認めない人とは同じ土俵にも立てない。俺は認めてるよって。こんなんだけど、何か?って。ここ(足元)だもん。でも、ここってわかってる人は強いのよ。この石は石だもん。石以上にもなれないし、以下でもないってこと。


 ところがね、それがわかっていると、この石を変化させることができる可能性が出てくる。触れているから。無駄なものを削ることもできるし、石は歩かないけど、歩いていくこともできるわけ。地に足が着いていれば。こうやって、人と握手したり、触れ合うこともできる。社会と関係することができる。でも、石の頭上に観念とか、神秘体験だとか、知識だとか、ほわんとしたものがまとわりついちゃってると、それが自分だと思っちゃって、どんどん他者と関係ないところにいく。そういうのは現実からどんどん遊離する。学問として、わかってやっているならいいんだけどね。


 劣等感に満ちた、何もないからどんどん積み重ねてる、ちっぽけなのが自分。でも、絶対にそれを人は見ない。これを見ればいいだけなのに。どうしようもない方じゃなくて、愛だとか悟りだとか美しいものを追って、体験したがる。だからどんどん遠回りして、それを一度ぶっ壊して、戻ったらはじめて対等。くるっと回って一周して地に足着いたら禅だけど、あるがままでいいんだよってそこではじめて言える。でも、地に足が着くと、そんな時代じゃないってのもわかる。石になったら、どう歩いて、どういう風に変化していくか、表現して行くか、全体にどう影響を与えていくかという義務が生まれる。そこからがスタートになる。そこからが新たな関係、新たな表現の道になっていく。だから、無我研で提示したいのは、そういう人たちが作り出す、その先の世界観のビジョン。まぁ、おぼつかない足取りでも、ビジョンだけ示したいな、と。


(引用おわり)


スピリチュアル業界では、「ほわーんとした」ままでもそれなりの評価が得られてしまうことが多いが、お笑い業界のようなシビアな世界では「ほわーんとした」ままでは決して通用しない。短期的には成功しても、そのうちゴマカシがきかなくなる。


現に成功している若手芸人の口から共通して「石ころ」であることの強みが語られることは、MUGA的にもなかなか興味深い現象だと思う。



※ このコラムを書くにあたっては、水道橋博士のメルマガ「メルマ旬報」vol.010掲載「てれびのスキマの『芸人ミステリーズ』」を参考にさせていただきました。