身をひしぐような虚空への饒舌
無我的観照第5回
「秋のソナタ」 イングマール・ベルイマン(1978年)
那智タケシ
大晦日、久々に劇場で映画を観賞した。渋谷のユーロスペースで午後3時から上映されていたベルイマンの「秋のソナタ」。元々このスウェーデンの巨匠のファンだったが、未見だったこともあり、楽しみにしていた。
映画が始まって驚いた。絶望と虚無と沈黙の巨匠であるベルイマンの映画にふさわしくない華やかな大女優イングリット・バーグマンが、画面いっぱいのどアップで世俗的などうでもよいことをしゃべりまくるのだ。芸術家としては自分を律することのできるピアニストでありながら、人間的には自己中心的で、家族を省みなかった母親という役どころ。幼少の頃から愛の不在に苦しみ、母親を憎みながら求め続ける娘との対立が延々と続くのだが、とにかく対話が安っぽいホームドラマのように世俗的なのだ。「第七の封印」の神秘的な沈黙や、文字通り愛なき沈黙を描いた「沈黙」のような映画を期待していた私には戸惑う始まりであった。しかし、ほどなくこのからくりは解けていく。彼女たちは、虚無に耐えられないがゆえに無意味なことをしゃべりまくっているのではないか。そこで、少しほっとしてベイルマンらしさを楽しもうとすると、もう一つの罠が待っていた。
娘役のリヴ・ウルマンはベルイマンの子飼いの女優の一人であり、カメラのスヴェン・ニイクヴィストの静謐で奥行きのある空間に自然にフィットしたその佇まいは、その台詞とは裏腹に、相変わらず素晴らしいものだった。彼女は上っ面な母親との会話を破壊して、自分がいかに傷ついてきたが、どれだけ母親を愛し、求め、それが得られぬため憎んできたかを鬼気迫る演技で追求する。相手の醜く偽善に満ちた自我を容赦なく、徹底的に暴き出し、これでもかこれでもかといたぶる様は、必死に自己弁護を図り続けた狡猾なバーグマンが「助けて」と叫び、「その憎しみに耐えられない」と震撼するほどである。観客も、母娘の愛憎劇に魅了され、ここまであからさまにエゴを追求する娘の心の闇に恐怖と何らかの共感を覚えるに違いない。しかし、傷つけられた娘と、狼狽する母親というありがちな親子トラウマの構図もまた、この映画の主題ではないことが明らかになってくる。ベルイマンは、それほど浅薄ではない。
バーグマン演ずる母親には、二人の娘がいる。次女のヘレーナは全身麻痺のような難病を患い(この病気も精神的な理由によるものだと暗示されている)、施設に引き取られていたが(母親が放り込んだ)、結婚した長女が母親に内緒で家に引き取っている。休暇に母親を招いた長女は、恨みを込めて、次女と母親を対面させる。母は「最悪」な状況に逃げ出したくなるが、対面すると次女の顔を両手で包み、作り笑いを浮かべ、時計を上げる。次女は母親に対してゆがんだ顔で必死に微笑み、愛を求めて何か叫ぶが、母にとっては奇怪な雑音でしかない。そして、長女にやり込められ、新しく生き直すことを誓いながらも、帰りの電車ではこの次女に対して「死ねばいいのに」とつぶやく。そう、彼女は何も変わっていなかったのだ、何も。親子の間には、どれだけの言葉が重ねられようと、どれだけの涙と祈りと、憎しみが交差しようと、感傷的なやり取りがなされようと、本質的な意味においては一切の意志の疎通はおろか、感情の接触も存在しなかったのである。ここにベルイマンの恐ろしさがあり、表現の真実があるのである。
「芸術家は、自分が何を表現するのかを明晰に知っていなければならない」とタルコフスキーは言った。自分が何を表現しようとするのか明晰に理解することなしに、抽象的で美しいものを撮ろうとすると、そこで芸術は終わりなのだ、と。
ベルイマンは、自分が何を表現するか、明晰に知っている稀有なる映画監督の一人であった。曖昧なものは何一つなかった。すべては、たった一つのことを目指していた。彼が表現したのは愛の不在の空間であり、神の沈黙であった。何一つ救いのない空間であった。「処女の泉」しかり、「沈黙」しかり。しかし、その沈黙は、この映画では饒舌によって置き換えられている。神への祈りは母への愛の希求に、絶望は恨みに置き換えられている。しかし、愛を求め、得られなかったものの憎悪の叫びと祈りもまた、目の前の虚空を埋めようとせんがための、痙攣的発作にすぎないのである。彼女たちの身をひしぐような饒舌もまた、虚空の中に吸い取られ、霧散して消えてしまうのであった。
ベルイマンの映画に救いはないように見える。しかし、この完璧なまでの愛なき空間は、むしろ透明で不純物なき実験空間のように思えてはこないだろうか。そう、彼にとっては、愛のない世界を透徹したまなざしで見つめ、あるがままに描き出すことそれ自体が愛であった。なぜなら、人間の暗闇と虚無性、貧弱さをこれ以上ないくらい赤裸々に描きだすことで、私たちは、その背後に隠れているはずの偉大なものを予見するからである。
我々は、今やご都合主義の大調和や、お涙ちょうだいの愛の物語など求めていない。なぜなら、それは端的に言って、真実ではないからだ。愛の理想は、安易に実現してしまえばユートピアになり、偽りの安逸になり、宗教的妄想にまで堕しかねない。真実は、愛の不在を認識した者にだけ訪れる。否定の認識を通してのみ、肯定的なものが現れ出る可能性が待っている。その認識の厳しさが、私たちを真に感動させ、浄化させ、新たなものが宿るべきスペースをこの世界に誕生させるのだ。ベルイマンは我々にこの仮借なき真実を認識させることで、映画館を一歩出たその瞬間から、新たな生を歩ませんとしているように感じるのである。
なお、同郷のベルイマン映画に客人的な形で招かれ、監督と激論を交わしてこの作品に挑んだ(主人公が自己中心的すぎるということだった)イングリット・バーグマンは、作品の出来にも自分の演技にも満足し、「これを最後の映画にしたい」と宣言し、引退する。撮影中から癌を患っていたという彼女は、それから四年後に他界。この作品が最後にして最高の遺作になった。