「恋愛VS憐憫」

《無我的観照》第2回

『白痴』(ドストエフスキー著)から読み解く現代のキリスト像

那智タケシ  

ドストエフスキーの四大長編のひとつ、『白痴』のことを思うとき、何とも物悲しいような、愛しいような気持ちになるのは自分だけではないだろう。この複雑なエモーションの正体はなんといっても、主人公の「白痴」こと、ムイシュキン公爵の存在それ自体によるものである。彼は作者が「無条件に美しい人間」を描かんとして主人公に据えられた人物だが、その美しさと破滅ぶりのコントラストが何とも言えず、物悲しい。


掛け値なしに素晴らしい小説なので未読な方にはお勧めするが、この稿では、「無我的」な観点から、このムイシュキン公爵なる人物を読み解いてみたい。お題は「恋愛VS憐憫」。運命のいたずらで二人の女性の二股をかけることになった公爵が、どちらの感情で女性を選択するかという側面から、「無我的観照」を試みてみよう。


簡単なあらすじはと言うと、スイスから「白痴」の治療を終えた?ムイシュキン公爵がロシアに帰国する。彼は実は白痴というよりもきわめて純真で、我意のない人物であり、こじき同然の状態でありながら、とある遠縁の将軍家に出入りして、そのお嬢様の一人、すばらしく愛らしくかわいらしい女性であるアグラーヤ・イワーノブナに恋をしてしまう。白痴とみなされて、ばかにされながらも不思議な魅力で周囲の人々に愛されていく公爵は、遺産が転がり込んだこともあって、いつしかアグラーヤの結婚相手として現実味を持って受け入れられていく。


ところが、そこに非常に奇妙な女が現れる。ナスターシャ・フィリポブナという大商人の妾で、恐ろしいほどの美貌の持ち主でありながら、心に大きな傷を持ち、自分の運命に反逆して発作的に狂乱を起こす不幸な女である。ちなみに両親を亡くし、若くして承認に囲われたものの、今は自由な身になっている。


ムイシュキン公爵は熱烈にアグラーヤに恋をしながらも、このナスターシャという不幸な女に惹かれていく。とは言っても、恋をしているというよりも、ただただ「かわいそう」だからである。彼は、不幸な人間をほうってはおけないのだ。この女を本当に救えるのは自分だけだと彼は感じている。もちろん、アグラーヤのことは大好きで、本人のみならず友人の前でもそれを公言しており、そちらはそちらでまっすぐに縁談まで話が進んでゆく


一方、ナスターシャは、公爵が「白痴」ではなく、誰よりもすばらしい人間であると真っ先に見抜き、自分を救ってくれる存在としてキリストのように崇めている。しかし、公爵の愛に自分は値しないと感じており、エゴイズムと執着心の極地の男、商人のロゴージンとあえて結婚することで、公爵にアグラーヤを選ぶように仕向ける。


ここで重要なことは、公爵が最後の最後まで、「どちらも好き」な状態のまま、迷うことなく二人の女と同時進行で付き合ってしまうことである。アグラーヤとはデートを繰り返し、実家に出入りして楽しそうに家族とトークを交わし、まんざらでもない様子。ナスターシャのことは「ロゴージンといては殺されてしまう」と言って、救い出そうと追い掛け回す。


彼にとっては、どちらも異なる愛の形であり、どちらも等しく彼の人生にとって重要なものであるに違いないのだが、世間知からすると「隠す」か、「選ぶ」かしなくてはならないだろう。しかし、彼にとっては、二人の女性は「どちらも重要」なのであり、二人同時に愛することに迷いはない。だからこそ彼は美しくもあり、白痴でもあるのだ。


さて、結局のところ、彼は二人の女から「どちらを選ぶか」究極の選択を迫られる。若くて美しく、熱例に恋をしているアグラーヤ(彼にとっては人生で初の恋愛である)と、かわいそうな破滅しかけている狂気の女、ナスターシャ。もちろん、前者を選ぶのが世間的には正しいだろう。しかも、彼は打算など何一つなく、ただただアグラーヤのことが大好きなのである。天使とあがめており、手を触れただけで顔を真っ赤にするほど純情な初恋の相手なのである。顔を見るだけで心が躍り、この世の春がやってくるのである。山の中で隠遁していた彼は、こんなにすばらしい感情を知らなかったのだ。


もちろん、彼はアグラーヤと結婚したいと思っていた。ところが、二人に面と向かって「どちらを選ぶか」と聞かれると、彼には決められないのだ。なぜなら、彼は白痴だからである。美しくも悲しいほど、愛に誠実な人だからである。


さて、単純に「無我的」観点からすると、ナスターシャを選ぶのが正しいのかもしれない。しかし、それではアグラーヤを傷つけてしまうし、自分の感情も裏切ることになる。かといって、ナアグラーヤを選べば、ナスターシャは徹底的に救われない。二人の女に鬼気迫る状態で迫られる修羅場の中、混乱した公爵は、ナスターシャを指差しながら、ついこんなことをアグラーヤに向かって口走ってしまう。


「ああ、こんなことがありうるでしょうか! だって、この女(ひと)は……実に不幸な女(ひと)じゃありませんか!」


憐憫が勝ったのである。僅かな差だが、この口走った一言で、アグラーヤは「ああ、どうしよう」と叫んで部屋を飛び出して行ってしまう。公爵は追いかけようとするが、ナターシャに両手で抱きすくめられ、あの娘をとるの?と詰問される。


結局、公爵は半ば失神したナスターシャを介抱してその場に残る。彼の決断は、無我的な観念ではなく、瞬間の発作的行為によって選ばれたものであり、だからこそ生身の人間の運命そのものになりえたのであった。その究極の瞬間、彼の本質があらわになったのである。


彼は、恋愛の人ではなく、憐憫の人、すなわち慈悲の人であった。地上的感情に憧れを抱き、その素晴らしさに恍惚としながらも、その本質は宗教的人間であった。すなわち個人的な恋愛感情よりも、キリスト的な人類愛、仏陀的な慈悲に満ちた愛の人であった。「地上の愛」と「神の愛」その二つを同時に生きつつも、結局、「神の愛」を選ばざるを得なかったのだ。もちろん、こうした選択は大抵の場合、俗世間では「失敗」とみなされる。


この小説は、悲劇的な結末を迎える。愛を得られないと悟ったロゴージンが、ナスターシャを殺してしまうのである。ムイシュキン公爵とロゴージンが、愛する女の死体の傍らで膝寄せ合って一晩を過ごすフィナーレの何と美しく、何と偉大なことだろう。


愛する女を殺した男と救おうとした男が、お互いに繊細な気を使いながら、いたわりあいながら、異常なレベルの精神的交感(これはドストエフスキー後期の小説、特有のものである)によって、二人はほとんど言葉を交わすことなく通じ合っている。この場面は、無名の慈悲がどこからか流れ込み、彼らを悲劇から救おうとしているかのようにさえ見える。


結局、異様なショックを受けた公爵は心身を喪失して本当の「白痴」に戻り、スイスに逆戻りしてしまう。真に美しい存在は、現代社会では存在できないという落ちらしいが、この小説が世界から評価され、受けいれられたという時点で、人はムイシュキン公爵の美的価値を認め、その愛の形も評価したのではないだろうか。


我々は、現代のキリストを文学的結晶という形で先取りさせてもらったのである。仏陀やキリストのエピゴーネンではなく、俗世間の荒波の中で、無我的なる愛が具体的にどのように現れ出るかというひとつの例を天才芸術家が提示してくれたのだ。


ここで重要なのは、今、こうした「無我的」な愛の形が、あまりにもこの世界から失われているのではないか、ということだ。


日本だけを見てみても、バブル期の80年台から「恋愛至上主義」とも言うべき、ドラマ、小説、音楽、映画が巷に氾濫し、今でもその流れは続いている。恋愛は恋愛であっていい。ムイシュキン公爵が恋をしたように、恋愛の感情は素晴らしいものだ。しかし、人間はそれだけでは真に美しい人間足りえない。「白痴」もナスターシャへの憐れみの愛なくしては、偉大な小説にはなり得なかっただろう。


人は、パンのみにいて生きるにあらず。人は、恋愛のみにて生きるにあらず。さらに言えば、親子愛、家族愛だけでもだめなのだ(今の日本ではここまでが限界かもしれない)。重要なのは、慈悲なのだ。個人から個人に向けての感情ではなく、全体のバランス、調和のために、暗闇や壊れかけたもの、傷ついたものに手を差し伸べ、全人類のために回復させようとする行為。自己を滅ぼしてでも、世界を救おうとする激情。


別段、本当に滅ぼせというわけではない。ただ、「無我的なる愛」が最も尊いものだという価値観がこの社会に定着しない限り、すべての問題はなくならないということが理解されなくてはならない。そのためには、美しく、格好良い、積極的価値観を持った新たな「無我的モデル」が必要とされる。人は、観念ではなく、具体的モデルに――すなわち現代のキリストに――新たな時代の指針を見出すのである。もしもキリストが現代に現れたら、既成の宗教的イメージとはまったく異なる、恐ろしく意外な形で自身を表現していることだろう。


最近では、『家政婦のミタ』が当たったりと、人は薄っぺらい恋愛ドラマに飽き飽きしているきらいもある。東日本大震災と福島原発の影響から、人間にとって最も重要なものは何か、ということが改めて問われている。今こそ、我々は新たな愛の形を模索し、形にしてゆくチャンスの時でもあるのだ。


ドストエフスキーとは言わなくとも、現代の「無我的な愛の形」がこの地上にいくつも現れ出て、人々の意識を変革することが急務だと感じられる。現代のキリスト、仏陀はあなたの隣にひっそりとたたずんでいるのかもしれない。


※参考文献

『白痴』ドストエフスキー著 木村 浩訳(新潮文庫)