物語なき世界における愛の可能性

「桐島、部活やめるってよ」

無我的観照第9回

那智タケシ  

映画『桐島、部活やめるってよ』吉田大八監督 2012年 


レンタルビデオ屋で何気なく借りたDVDだったが、久々に映画的カタルシスを味わうことができた。正直、現代の商業主義に毒された映画業界で、これほどの作品に出会えるとは思ってもみなかった。ありがちな青春映画だろう、などと油断していたので、ふいを突かれて驚愕したほどである。近年のメジャーな邦画でこれほどのクオリティのものはまず見当たらないのではないか、とさえ思えた。感動だった。(以下、ネタバレ的要素満載です)


一度見て、その作品構成のすばらしさや、絶妙な間と自然な言葉遣いを重視したべとつかない演出、映画部のイケてない部長役の神木隆之介の演技の上手さに笑ってしまうほどに感動したが、二回目に見た時は、泣いてしまった。お涙ちょうだいのエモーショナルな演出や雰囲気に泣いたのではなく(その点、この映画はひどくストイックであり、青春物語を期待すると裏切られる)、その作品構成の見事さ、最終的にたどり着いた場所の高さに素直に感動してしまったのだ。朝井リョウの原作は後から読んだが、テーマ、内容共にまったく別物の作品として考えるべきだと思った。正直、この映画は原作をはるかに凌駕した高みに到達してしまっている。言わば、ヒューマンな青春物語を超え、構造主義も超え、ポストモダンも超え、新たな時代の神話を予感させることに成功した奇跡の作品が、この映画「桐島、部活やめるってよ」なのだ(褒めすぎかな?)。


小説では、桐島というバレー部のキャプテン(イケメンで何でもできる万能型)が部活を辞めたことによって生まれた波紋の下、バレー部の仲間や、彼女、友人、全然関係ない映画部のイケてない級友等、「クラスカースト」と表現された様々な階層の高校生たちの心の揺れ動く様を、様々な角度から繊細に描写した作品である。文学的な評価はともかく、エンターテイメント作品としては、執筆当時、19歳だったという作者の等身大の言葉使いや、リズム、描写、テーマ等が評価された作品で、十分に楽しめる青春群像劇になっている。


しかし、この映画版「桐島、部活やめるってよ」においては、「青春」や、「クラスカースト」や、劣等感等の「コンプレックス」は直接的なテーマにはなっていない。むしろ、トラウマ的な背景は意識的にショートカットされ、あるいはまったく画面から排除され、微妙で、表面的な少年たちのやり取りのみが映し出される。そう、この監督は極めて意識的に、自分の撮るべきものだけを選んで撮っている。


桐島という、言わばクラスカーストの頂点にいる人物が、突然、部活をやめて、学校にも来なくなる。そこから混乱が生まれるというストーリーは同じだが、それら全体を一貫して流れる「物語」というものが、この映画では徹底的に欠如しているのだ。学校全体、社会全体を一つの大きな物語として成り立たせていたはずの「桐島」が突然、消えることによって、「クラスカースト」も、彼らが信じていてた青春物語も消えうせてしまう。残ったのは、輪切りにされ、分断され、一つの形をなさない投げ出された大根のようなものである。


大根の輪切りには、もはや上も下もなく、それぞれの階層の間には交流も、共感もない。コスメと恋愛に意味を見出す派手なイケてるグループ、熱血の運動部、独自な一体感のある吹奏楽部、根暗でイケてないゾンビ映画を撮る映画部――おそらく、桐島という運動も恋愛もできる頂点がいた世界では、カースト制度のようにこれらの序列がくっつき、加算の合い、一つの大根として成り立っていたことだろう。しかし、桐島がいなくなったとたん、劣等感と優越感もほとんどが消えうせ、あるのは他の階層に対する無関心と相手の存在の徹底した排除でしかない。


ここに上の階層へのコンプレックスや、エゴの揺れ動き、青春物語への憧れを丹念に描き出した小説との決定的な違いがある。映画においては、この監督は意識的にカースト制度それ自体を解体してしまったのである。言わば、いくつかの輪切りにされた大根が転がっていて、彼らは、その世界においてどのように生きたらわからなくなっている。そこには人間存在の不安と混沌があり、虚無から逃れる衝動があり、実存主義的曖昧さがあり、僅かながら解体された後に生まれるであろう、真の愛への可能性がある。


桐島は、言わばひとつの安定した世界を成り立たせる「モダン」の象徴であり、物語のちょうつがいであり、意味ある世界の神である。とりわけ、カースト制度の上位にいる生徒たちにとって、彼はいなくてはならない存在である。それゆえに、桐島が何の前触れもなく部活をやめ、学校にも来なくなり、一切の連絡を拒否して消えてしまった瞬間から、彼らの不安が始まる。彼らは、桐島の存在を追い求めるが、捕まえることができない。敏感な観客は、早い段階であることに気づくだろう。ネタバレになるが、そう、桐島はこの映画に現れないのである。最初から最後まで(桐島のような存在が遠景から僅かに目撃されるだけである)。


この世界の意味を成り立たせるキーマンがいなくなった時、すべての階層は等価的な存在として画面に現れ出る。キモくて、軟弱な文科系の生徒たちもまた、一つのミクロコスモスとして意味ある存在として描かれる。彼らは、決して運動部や、モテる男女たちの下にいるのではない。運動部や、桐島の彼女といったカーストの上位たちが熱血に桐島を探し回っているさなか、教室の隅で映画部は「昨日、スクリーム3見たんだけど、2の方がいいね」などと話している。彼らにとっては、桐島の失踪は関係がない。彼らはただ、ゾンビ映画を撮ることに夢中なのだ。そして、この映画では、その等価性と交流の欠如を極めて意識的に観客に提示する。


学園内でゾンビ映画を撮る彼らを、運動部や吹奏楽部の生徒たちは、「何あれ?」と嘲笑う。映画部は、同じクラスメイトでありながら、名前で呼ばれることさえない。「あれ」である。しかし、恋愛グループと運動部の間でも、桐島の代役となったリベロを「ちび」と呼ぶような無関心がある。しかし、二つの層にまたがる存在も僅かながらいる。「ちび」を好ましいと思っている恋愛グループと運動部両方に属する女子は、この発言に違和感を持ち、反発する。そう、この違和感こそがこの階層をつなぐ手がかりとなる。


他の階層を人とも思わないような態度に違和感を覚え、仲間から疎外されるリスクを犯しながらも反発する勇気ある生徒たち――それは別の階層の中に、気になる異性がいる場合のみに限られているが、それもまた一つの愛の発露であるには違いない。しかし、その関心もまた、全体を包み込むものにはなりえず、僅かなきらめきとして留まるのみである(このきらめきこそが青春映画の肝であり、その点、この映画も十分にきらめいている。神木隆之介や橋本愛のデリケートな演技のなんとすばらしいことだろう!)。


この映画には、小説にはない素敵なクライマックスがある。屋上で特殊メイクをした映画部がゾンビ映画を撮っているところに、「桐島を見かけた」という情報を元に、バレー部の生徒や、桐島の彼女、友人たちが一度に押しかけてくる。一同、全員集合である。現場は荒らされ、撮影は中断される。運動部の男は「桐島、いねえじゃねえかよ!」と怒鳴り、張りぼての隕石を蹴飛ばす。女子たちはゾンビに扮した映画部を見て「何、こいつら、キモい」というリアクションで笑っている。その瞬間、映画部の部長の前田(神木)の心境を慮っているのは、中学時代の同級生で、僅かに映画を通した交流があるかすみ(橋本愛)だけであった。


現場を荒らすだけ荒らし、桐島がいないとわかると、さっさと帰ろうとした彼らに、普段、内向的な前田が叫ぶ。


「謝れ! 俺たちに謝れ!」


バレー部の男は、意外に思って立ち止まる。彼にとっては、桐島の不在という事実だけがそこにあった。彼の青春物語には、映画部など存在しなかったのだ。彼にとって、物語の外にいる映画部は、おかしなことをやってる変なやつら、というだけのことだったろう。言わば、書割のような背景にすぎない。撮影を邪魔されたことを謝るように詰め寄られると、彼は、「こっちはこっでぎりぎりなんだよ」と切れるが、前田は「俺たちの隕石を蹴っとばしてもいいのか」と詰め寄る。ゾンビの格好をした根暗な映画部員も「謝れ!」の大合唱になる。


「何だよ、桐島いねえし、おかしいのにからまれるし」これが彼の本音である。


「おまえらの方がおかしいじゃないか!」前田は切れる。


ここから運動部、帰宅部、映画部がもみ合いの乱闘になる。前田はここで8ミリカメラを片手に、「こいつら全部、食い殺せ、ドキュメントタッチでいくんだよ!」とゾンビに襲いかかるように指示する。そう、この混乱をそのまま映画にしてしまおうとしたのだ。


彼の脳内妄想では、バレー部の男たちが、イケてる男女が、ゾンビに食い殺されている。密かに思い続けてきた橋本愛もゾンビに食いちぎられ、血を吹いて倒れる。ここにおいて、混乱は映画的フォルムの中に昇華される。何一つ信じるべきものがない、設計図もない、混沌とした世界で、彼は映画表現への可能性にすべてを託したのだ。混沌を混沌のままに映し出し、一切を破壊して新たな物語を生み出すであろうフィルムの力に賭けたのだ。もちろん、それは現実となりえず、残されたのはぼろぼろに痛めつけられた映画部員と、壊れた機材があるだけであった。


うなだれる映画部だけが取り残された荒涼とした屋上で、彼らは台詞のチェックをする。ここで、この映画を見た者なら、誰もが感動するであろう、象徴的な台詞が繰り返される。


「戦おう、ここが俺たちの世界だ。俺たちはこの世界で生きていかなければならないのだから」


前田は、役者にこの台詞を言い聞かせながら、「覚えておいてよ」と念を押す。


この神なき世界、愛の消えうせた世界において、虐げられ、バカにされ、無視されながらも、「それでも、俺たちはこの世界で生きていかなければならない」という決意表明、そして表現への信仰というものが、ここではっきりと提示される。この世界に答えも救いなんてないのかもしれない。それでも、俺たちはここで生きていかなければならない。何と言うストイックな響きを持つ台詞だろうか。しかも、これは彼らが撮っているB級ゾンビ映画のちょっとした台詞なのである。


実は、サブストーリーとして、失恋した吹奏楽部の少女が、演奏の中で自らの喪失感を昇華していく様が平行して描かれているのだが(屋上のシーンにこの音楽が鳴り響いているのが上手い)、ここに芸術というものへの作り手の信頼、祈りが見て取れるのである。


この大団円だけでも、十分に映画的カタルシスを得ることができたのだが、驚くべきことに、この映画はここで終わらない。もう一つ、表現への信仰を超えた現実世界における愛の可能性が提示される。それがこの映画を「奇跡」とでも言いたくなるような高みへと押し上げているのだ。


菊池宏樹(東出昌大)という生徒がいる。彼は野球部に所属していながら、ほとんど試合にも練習にも出ておらず、帰宅部と遊んでいる。かわいい彼女もいる。背が高く、イケメンで、バスケでもサッカーでも、どんなスポーツも万能である。野球部の先輩である部長からも「試合だけ出てくれないか」と低姿勢で頼まれている。つまり、クラスカーストの最上位にいる、何でもできる存在。彼は、桐島のシャドウのような存在である。しかし桐島がいなくなった時、何でもできる自分は、何にも本気になれない、無意味な存在に墜落してしまう。実体のない、影になってしまう。


彼は、それまで眼中になかった野球部の部長が夜中に一人、素振りをしているところを目撃すると、こそこそと隠れるようになる。楽しい高校生活を気ままに謳歌していたはずの彼が、いつの間にか虚無を感じている。そして、屋上での混乱の場から、仲間と立ち去ろうとする時、ふと8ミリカメラの部品を拾い上げた彼は、仲間に背を向けると、一人、前田の下へ向かう。彼には、これまで眼中になかった映画部の生徒たちが輝いて見える。本気で何かに向き合い、負けるとわかっていても戦った彼らに興味を持って、彼は初めて歩み寄る。そして、前田の肩を叩く。


「落ちてた」


カーストの最上位者にやさしく話しかけられた前田は、どぎまぎした様子で礼を言う。そして8ミリカメラに興味を持った菊池に、その良さを喜んで話す。前田もまた、これまで話したことさえない雲の上の存在に話しかけられたことが嬉しかったのだ。8ミリカメラを手にした菊池は、相手にファインダーを向け、「将来は映画監督ですか?」「女優と結婚ですか?」とふざけた調子で聞く。「アカデミー賞ですか?」前田は少し考えたあげく、


「うーん、でも、それはないかな」と寂しげな口調でつぶやく。


「えっ?」と菊池は戸惑う。


「映画監督は、無理」


「じゃあ、なんでこんな汚いカメラで映画を?」


「うーん、でも時々ね、俺たちが好きな映画と、今、自分たちが撮っている映画がつながっているんだなと思う時があって、ほんとにたまになんだよ、たまになんだけど、へへへ」


その言葉の真摯さにショックを受けた菊池が呆然と突っ立っていると、前田は8ミリを取り返し、相手にファインダーを向き返す。カメラを覗きながら、前田はつぶやく。


「やっぱ格好いいね」


「えっ?」


「格好いい」


ここで、一つの奇跡が起こる。菊池は、「いいよ」とつぶやく。「俺はいいって」と言って、顔をゆがませ、ファインダーの中で泣き出しそうになるのだ。


これまでの物語世界の頂点にいた男が、最下層にいたとされる男の前で、突然、顔をゆがませて泣き出しかける。前田は「大丈夫?」と心配する。ここにこれまでの競争社会がもたらした資本主義を超え、人間世界を安定していたものにしていた構造を超え、意味を喪失し、相対主義に陥ったポストモダンをも超え、階層をつなげ、円環させる愛の可能性が顕現する。高き者が低き者になり、それを認めることによって、彼らはほんの僅かながら新たな関係性を持ちえたのである。頂点にいた彼が、最下層にいるとされていた者に頭を垂れることで。


今、新たな神話が生まれようとしている。


屋上を去った菊池は、桐島に電話をかける。ここで映画は終わる。おそらく、菊池は桐島に新たな世界を見たことを伝えたかったのだ。自分たちが安住していた物語世界は崩壊し、消えうせようとしている。しかし、その幻想に留まっていてはいけない。一切が崩れゆく世界においてさえ、再び人はつながり合い、関係し合うことができるということを。理解し合い、愛し合うこともできるのだということを。彼は、自らを低くすることでこの世界に再びつながる可能性を手に入れたのだ。それはまだ、ほんの僅かな可能性にすぎないが。


現実は、そんなに簡単に変わらないのかもしれない。今日の気づきは、明日の希望にはならないのかもしれない。戦争も、飢餓も、汚職も、虐待も、人間の一切の悲劇と愚かしさは、いつまで経ってもなくならないかもしれない。おそらく、世界は、簡単に救われることはないだろう。それでも、


「俺たちはこの世界で生きていかなければならない」


愛なき世界における新たな愛の曙光。何という映画的カタルシスだろうか。