世界中の人に自慢したいよ ~ 忌野清志郎のうた

  

前回はビートルズのことを書いたが、日本で「ロックミュージック」の形式を創造し浸透させたという点でビートルズに匹敵する存在といえば、RCサクセションであり忌野清志郎だと思う。


忌野清志郎がどんな人か、日本のロックを少しでも聞いてきた人にとってRCサクセションというバンドがどんな存在かを改めて説明する必要もないだろう。


彼の歌を初めて聞いたのは、テレビで坂本龍一との『いけないルージュ・マジック』のプロモーションビデオを見た時だと思う。お茶の間に飛び込んできたその異色の映像は、小学生だった僕には「得体の知れない気持ち悪さ」という印象しか与えなかった。


そのあとにヒットした『Summer Tour』や『ベイビー、逃げるんだ』などの曲も、テレビで断片的に聞いたが、まったくよいと思わなかった(この2曲は今でもそんなにいいと思わない)。なにせ僕の家庭では両親が当時『TOKIO』をうたっている沢田研二が「この人頭おかしい」「きっと麻薬やってる」といって忌み嫌っていたのだから、RCサクセションなどというぶっとびすぎた存在はまったく理解不能な異次元の存在であった。


それから何年かすぎ、ビートルズの洗礼を受けて洋楽を聞くようになってから、だんだんRCのかっこよさが分かってきた。それでも本当にはピンときていなかった。ちょっとおもしろいな、と思ったのは、1986年のライブ・エイドの時に日本でもその模様をテレビで中継しながらいろんな日本のミュージシャンが歌う番組をやっていたのだが、そこでキヨシローが『自由』というとんでもない曲をやっているのを見た時だ。キヨシローはこう歌っていた。


「俺は法律を破るぜ 義理も恩も屁とも思わねえ 責任逃れをするぜ 

 俺を縛ることなどできねえ

だって俺は自由 汚ねえこの世界で いちばんキレイなもの それは自由」


歌詞も面白いが、この歌詞が見事に浮かび上がるようなリズムとメロディーと歌唱法がとてもインパクトがあり、特異なパフォーマンスの映像とも相まって強烈な印象を残した。


高校生時代、世の中が面白くなくて仕方がなかったころ、RCの『カバーズ』が出た。反原発をテーマにした過激な歌詞は、発売中止騒ぎもあり大きなニュースにもなった。僕は激しくそのメッセージに共感するとともに、歌詞の内容もさることながら、洋楽のメロディーに訳詩を乗せるキロシローの日本語の選び方の見事さに感心した。


その頃、FM大阪で深夜に放送していた『忌野清志郎の夜をぶっとばせ』という番組を毎週楽しみに聞いていた。当時過激な曲ばかり演奏するゲリラ・ライブみたいなことをしていた「タイマーズ」という覆面バンドを一緒にやっていた三宅伸治と、ギターを抱えながらR&Bやブルースのレコードを好き勝手にかけているだけというゴキゲンな番組だった。

ある夜,清志郎がアコギで,いつものようなブルースではなしに,子どもの童謡の弾き語りを始めた。


カラスの赤ちゃん,なぜ泣くの

コーケコッコのオバさんに

赤いお帽子 ほしいよ

赤いお靴も ほしいよ と

カアカア 泣くのよ


やけにエモーショナルなキヨシローの歌声に,なぜあんなに情感が籠っていたのだろう? と当時,感動しながらも不思議に思ったものだ。


その後,記憶が定かでないのだが,彼がボソリと「うちの母親が歌った曲です」というようなことを話したような気がする。


もしかすると,清志郎の母上もまた歌の才能に恵まれていて,息子に受け継がれたのだろうか? なんてそれ以上詮索することもなく,ぼんやりと思っていたものだ。


彼の訃報に接して,そのへんがなんとなく気になり,ネットを漁っていると,彼が実母と3歳の時に死別し、実母の姉夫婦の養子として育てられたこと、清志郎は実母の再婚相手の子供で、最初の夫はレイテ島で戦死していたこと、最初の夫と実母は戦地と日本との間で熱烈な愛の手紙をやり取りしていて、それらの遺品が1988年、ちょうど『カバーズ』が出た年に、養父の死をきっかけに初めて彼の手に渡ったこと、などを知った。


彼の実母は機知に富む誰にでも愛される気立ての良い人で、派手な着物を着て思ったことを何でも素直に口にする、のちの清志郎を彷彿とさせる女性だったようだ。しかし若くして新婚生活を奪われる不幸な運命に見舞われた彼女が、亡夫に向けた歌に次のようなものがある。


”かえらざる人とは知れどわが心なお待ちわびぬ夢のまにまに”


”夢ならであえがたき君が面影の常に優しき瞳したもう”


”出征の君が心の面影を今日も祈りてそっと微笑む”


戦地に赴くことになった夫からの第一信。


“先日はお見送りありがとう。元気でやっていますからご安心ください。来月3日に面会が許されるようですから時間は午前8時から午後5時までみんなで力をあわせてしかっりおねがいします”“近所の人にはいちいちお礼状など差し上げられませんからよろしくお願いします”


第14信(昭和19年9月26日)。


”夜遅くまで演習があった日 1度に4通もの便りをもらって実にうれしかった。一同に羨ましがられて得意だった。妻帯者が圧倒的に多かったので独身者が口惜しがるのは気の毒なほどだった。日記を送ってくれた思い付きははなはだ結構である。今後も続けて欲しい。心配していた体の様子 何事もない様子大いに安心したが,普段胃腸が悪いらしいからよく注意してくれ。必ずしも体が悪いから働くものがいないからというような悲壮な考えや遠慮をしないでどしどし休んだ方がいいと思う。フィリピンから金が遅れるらしいから手続きをして送るようにしておく。もし遅れたら英和辞典コンサイスを1冊おくってくれ”


第22信。妻への手紙であることを検閲に覚られないよう、「お母さん」と言い換えている。


”お母さん,私は今西の方を向いております。黄昏は深いジャングルの方に迫ってきました。だいぶ暗くなってきました。私の向いてる方だけ深紅にもえております。一面の青さの中でそこだけ明るくそこだけにおっております。


その明るい方を向いておりますお母さんあなたの方を向いております。太陽もあなたのようです。気高く美しく愛情に満ちた夕焼けの太陽です。雲を染め海を染め森を染め山を染め私の心を染めて輝きわたる希望の色です。その色に磨かれて私はちかいたちます。あなたと一緒に毎日戦うのです。あなたの光に磨かれて強く戦い続けております。


先ほどまで敵機はたけくまっておりました。砲弾はジャングルを揺さぶり続けておりました。今はすっかりしずかになっております。今日の戦争の苦しさも明日の爆撃の激しさもこの先の前にはものの数ではありません。


この光をみつめております。あなたの方を見つめております。あなたの顔を見つめております。


 これは過日新聞に載っていた黄昏という詩ですが,大変気持ちが私と同じように思えたので抜き書きしてお送りしました。何回も何回もよんでください。東京空襲の報を聞きましたがどうでした 家のものには被害はありませんでしたか?こっちは雨もなくなりましたので実に暑さが厳しく感じられます。嘘みたいな話でしょう”

“とうぶん便りは出せないと思います。皆々様によろしく”


この手紙を妻が受け取ったとき、すでに夫は戦死していた。


これらの手紙に加えて、実の母親が新宿のレコード屋で吹き込んだという『カラスの赤ちゃん』を歌う声を初めて聴いた清志郎の心境はいかがなものだったろうか。彼は反戦歌や反体制ソングを歌い続ける自分のDNAの中に母親のそれがしっかり受け継がれているのを実感したという。


ついでに言えば、清志郎は子どものころから、自分が養子であることを知っていて、親がそれを自分に告げないでいることも知っていた。彼の言葉によれば、「孤独に耐える術を身に着けた」子供時代だったという。



大学に入り、一人暮らしを始めた僕の愛聴盤になったのがRCの70年代のアルバム『シングル・マン』だ。これはRCがまったく仕事がなく評価もされずどん底の時代に作った作品で、ジャケットや曲調からもなんともいえない侘しさとそこはかとなく病んだ感じが伝わってくる。しかし名曲がたくさん入っているアルバムだ。『スローバラード』、『ヒッピーに捧ぐ』、『甲州街道はもう秋なのさ』などはブレイク後もRCサクセションの代表曲になったが、個人的には『夜の散歩をしないかね』という曲がとても優しくて大好きだった。


窓に君の影が 動くのが見えたから

僕は口笛に いつもの歌を吹く


きれいな月だよ 出ておいでよ

今夜も二人で 歩かないか


窓を開けて君の ためらうような声が

僕の名前呼んで なにかささやいてる


きれいな月だよ

今夜も二人で 歩かないか


今夜も二人で 歩かないか



RCサクセションが解散してからは、そんなに熱心に聞いていなかった。もちろん日本でいちばん”尊敬する”ロック歌手であり続けたことは言うまでもないが。


キロシローが死んでから、リスペクト盤を含めてたくさんの作品が出た。いま改めて「晩年」の作品を聴いてみると、そのうたの豊かさに感心する。結婚し、2人の子供を育て、自分の音楽のルーツであるメンフィスやナッシュビルで憧れのR&Bミュージシャンたちとセッションしレコーディングできた90年代以降の彼の人生の充実感が伝わってくるようだ。もちろんRCの解散や、その後の『君が代』発売禁止騒動など、彼のキャリアに逆風は度々訪れてはいたのだが。



中でも大好きな曲は、『世界中の人に自慢したいよ』だ。R&Bの王道バラードのコード進行で謳いあげられるこのメロディーは、『スローバラード』の「切なさ」を「豊かさ」に転換した、キヨシローの到達点という気がする。この曲は、つい最近(2011年11月)出た、キヨシローが自分で選曲した『忌野清志郎 sings soul ballads』というベスト盤でも第1曲目に選ばれている。


君とふたり 暮らせるのなら 他に何もいらない

毎朝 君のすぐそばで 目を覚ますだけさ

あとは 何も何もいらない 何もかもうまく運ぶさ

ぼくとふたり 暮らしておくれよ

生活を始めよう

愛し合ってるなら 他に何もいらない

たとえ空が落ちて来ても

ふたりの力で 受けとめられるさ

まるで 雲の上を歩いてる

毎日 そんな気分さ


愛し合ってるなら 他に何もいらない

たとえ空が落ちて来ても

ふたりの力で 受けとめられるさ

毎日毎日 君のもとに ぼくは帰るよ

ぼくとふたり 暮らしておくれよ

きっと幸福になろう

ふたりでそれを手に入れて みんなに自慢したいよ

ぼくは ぼくは自慢したいよ

君のこと ぼくと君のことを

みんなに みんなに 町中の人に もっと自慢したいよ

何も なんにもいらないから 君を自慢したいよ

町中に 国中に 世界中の人に 君のことを自慢したいよ

Oh,Oh, 世界中の人に自慢したいよ・・・



キヨシローが出した本の中で一番真面目なのは、彼自身が出版を企画したという『ロックで独立する方法』だろう。ミュージシャンとして生計を立て、独立しようとする若者たちに向けて、彼自身の体験から学んだ業界の話や音楽制作の話など、とても誠実に語っている。

ミュージシャンだけでなく、あらゆる分野で「独立」を考える人にとって有意義な内容を含んでいると思う。



2009年5月2日に忌野清志郎が亡くなったとき、彼の告別式に4万人以上ものファンが訪れたことが大きなニュースになり、僕は自分のブログにこんな風に書いた。


「清志郎が亡くなってから,言葉にならない悲しみとは別に,清志郎がこれほどまでに愛されていたというのを知ったことにむしろ驚いている。


キヨシローは,桑田圭祐などとは違って,決して音楽シーンのトップにいるような存在ではなかった。


彼の音楽は常に,マイノリティの目線からの多数派の欺瞞への告発であり,弱者から同類への愛情の籠った労りの表現だった。


それは,キヨシローがあれほどまでに愛したR&B(リズム・アンド・ブルース)の真実の形だった。だから彼の歌には何の嘘もなかった。


何の嘘もない表現は,危険過ぎて,体制の中で勝利を収めることはない。しかし,彼は比類のない天才的な言語感覚とユーモアで,危険な綱渡りを見事に演じきって見せた。


その結果,今日,こんなにも多くの人が心の底から清志郎への愛と感謝を表現している。


どんなにひねくれ者でシャイな奴でも,ふだんは「よそ者」扱いされて居心地悪い生活を送っている連中でも,なんのてらいもなく,心から「好きだ」と言える人,それが清志郎という存在だった。


こんなに世知辛い世の中で,人々の心から,こんなにも多くの愛を引き出すなんて,あんたにしかできない芸当だよ。


だから僕も,今日くらいは正直に言うよ。


「キヨシロー,愛してるよ。


ありがとう。」


彼の訃報に接した日、僕は司法修習中で東京地方裁判所の裁判官室にいた。窓からとてもきれいな虹が見えたのを覚えている。



参考文献

『ロックで独立する方法』(忌野清志郎、太田出版)

『忌野旅日記』(忌野清志郎、新潮文庫)

『瀕死の双六問屋』(忌野清志郎、小学館文庫)

『Rockin’ on Japan特別号 忌野清志郎1951-2009』

『忌野清志郎が聴こえる 愛しあってるかい』(神山典士、アスコム)

『文藝別冊 忌野清志郎デビュー40周年記念号』(河出書房新社)