信ずることと考えること~~小林秀雄と無我表現 その2

高橋ヒロヤス  

「人は、神秘などないのにそれを作り上げるか、あるいは、とてつもなく繊細に、躊躇しつつ、そしてためらいがちに近づかなければならない神秘があるかのどちらかです。しかし意識的精神(頭脳)はそうすることができません。それは現にあるのですが、あなたの方からそれに至ること、招き寄せることはできないのです。それはこちら側から向かっていくことによって達成されるものではないのです。確かに何かがあるのですが、しかし頭脳はそれを理解できないのです。」(J.クリシュナムルティ)




以前書評で取り上げた『A』、『オカルト』の著者森達也氏は、「いわゆる超常現象(念視、予知能力、テレパシーなど)を科学的に証明することになぜ成功できないのか?」という問いを再三にわたり投げかけている。


100年以上も前から、超能力や超常現象の類いは定期的にブームとなってきた。その存在が世に知られ、騒ぎを起こすようになってから1世紀以上経過した今も、我々はそうしたものを「科学的に証明」することに成功していない。そして一般に、「証明できないということは、すなわち存在しないということである」という議論が主流であり続けて来た。


この点について、小林秀雄が興味深いことを述べている。『信ずることと考えること』という講演(後にCD化)の中で小林は、当時話題になっていたユリ・ゲラーの超能力について述べた後で、彼が若い頃に読んだ哲学者ベルグソンの講演を紹介している。


(ちなみに、小林秀雄は、親友の今日出海が日本クリシュナムルティの会の初代会長だったことなどもあり、超能力などについての知識が豊富だった。ユリ・ゲラーの念力実験を自宅でやってみたら知り合いの子どもがスプーンを曲げたこともあったらしい。)


さて、ベルグソンの話である。


ベルグソンは、あるパーティで、同じテーブルになったお互い顔見知りの医学者とある婦人が話しているのを聞いたという。


それは夢の話で、いわゆる正夢の話だった。


その婦人は、第二次世界大戦で夫を喪ったのだが、その夫が戦地で戦死するとき、ほぼ同じ時間に、夫が死んで、死ぬ直前に彼が見たのとまったく同じ状況―数人の兵士が夫を取り囲み介抱しているところ―をはっきり夢に見たという話をその医学者にしていた。


ベルグソンは近くでその話を盗み聞きしていた。


するとその著名な医学者はこう答えた。


「奥さん、あなたのことは昔からよく知っているし、わたしもその話は信じたい。あなたが嘘を言っていないのをわたしは信じる。」


「しかしながら、わたしはこう考える。つまり人間にはたしかにそういう夢の正しいものを視ることがある。けれど、その正しい夢の数よりはるかに多い数のまちがった夢を視るでしょう? その間違った夢はいったいどうするんです?」


すると、同じテーブルにいた若い女性がこう言ったという。


「わたしは先生の言っていることは間違っていると思います…。先生は、論理的には正しいことをおっしゃっておられます。だけどわたしは間違っていると思います」


ベルグソンは、その娘が正しいと思った、と講演で述べたという。


小林秀雄、そしてベルグソンがこの話で言いたかったことは、いわゆる超常現象と科学がなぜ必ずスレ違ってしまうのかを端的に示すものだと思う。


婦人は、「自分が見た1回きりの正夢」について語っているのに、科学者は、「正夢(テレパシー的能力)というものが真実に存在するのか否か」について語っているから、両者の話はまったくかみ合っていない。


科学は常に普遍性というものを重要視する。それを「再現性」と言いかえることもできる。仮に超常現象というものがあるとしたら、それは実験室の中で、所与の環境において、一定の条件の下で、必ず再現できるはずだという仮説である。


だから、婦人が自分の身に起こった、夫の戦死という唯一無二の出来事を巡って体験した1回きりの正夢の話を語っているのに対して、科学者は「けれど、その正しい夢の数よりはるかに多い数のまちがった夢を視るでしょう? その間違った夢はいったいどうするんです?」などとピント外れの回答しかできない。


志賀直哉の名作短編『焚火』にも同様のエピソードが出てくる。


友人のKさんの話。


* * *


それは、雪の季節だった。

東京にいる姉さんの具合が悪いというので、赤城をくだって見舞いにいった。東京に3日いたが、思ったほど悪くなかったので、また赤城へもどってくる。


帰ったその日は赤城のふもとに宿泊して、翌日山をのぼるつもりだったが、月がきれいでからだも元気だった。小さなころから雪にはなれていた。Kさんは、その日登ることに決める。


日暮れには、二の鳥居まで来た。しかし、登るにつれて雪は深くなる。人通りがないところなので、雪が柔らかく、一歩あるくと、腰くらいまではいってしまう。子どものころから山で育ったKさんもさすがにまいってきた。


月明りに鳥居峠はすぐ上に見えている。夏はここはこんもりとした森だが、冬で葉がないから上がすぐ近くに見えている。そのうえ、雪も距離を近く見せた。今更引き返す気もしないので、蟻の這うように登っていくが、手の届きそうな距離が実に容易でなかった。もし引き返すとしても、幸い通った跡を間違わず行ければまだいいとして、それを外れたら困難は同じことだ。上を見ると、何しろそこだ。


Kさんは、もう一息、もう一息と登った。別に恐怖も不安も感じなかった。しかし何だか気持ちが少しぼんやりしてきたことは感じた。


「あとで考えると、本当は危なかったんですよ。雪で死ぬ人はたいがいそうなってそのまま眠ってしまうんです。眠ったまま、死んでしまうんです」


それから2時間。Kさんはとうとう峠まで登った。すると、向こうから提灯が2つ見える。今時分、とKさんは不思議に思った。


それは、Kさんを迎えにきた義理の兄さんと、Kさんの家の者たち、3人だった。


「今、お母さんに起されて迎いに来たんですよ」


Kさんは、ぞっとする。母には帰る日を知らせていなかった。


母が「Kが呼んでいる」と、みんなを起したのは、ちょうどKさんが一番ぼんやりした時間と同じだった。


3人が巻き脚絆を巻いているあいだも、Kさんのお母さんは少しも疑うことなく、おむすびをつくったり、火を焚きつけていたという。


「Kさんは呼んだの?」と妻(志賀直哉夫人のこと。以下同じ)が訊いた。


「いいえ。峠の向こうじゃあ、幾ら呼んだって聴こえませんもの」


「そうね」と妻は言った。妻は涙ぐんでいた。


* * *


友人のKさんが語ったこの話に、周囲の友人たちはしみじみと耳を傾けている。


そこにはただ「聞くこと」(拝聴するという行為)があって、批判や仮説や、「普遍性」や「再現性」をめぐる諸々の主張は存在しない。


おそらく、そのような空間でのみ「神秘」は生じるのだ。


冒頭に掲げたクリシュナムルティの言葉は、神秘(超常現象という言葉よりも自分はこの言葉を好む)は二元性を超越したところにあるが、「観察する者と観察されるもの」という二元性が存在する場所―そして科学的実証はこの二元性という前提抜きには成り立たない―からはそこに近付くことはできないことを明らかにしているように思われる。


もちろん、超常現象にもさまざまなレベルがあり、現在の科学の延長によって解決されるものもあるだろう。それでも神秘は最後まで残り続けるだろう。ベルグソンの聞いた会話の二人の当事者(婦人と科学者)の間にある溝が決して埋まることがないのと同じように。