村上春樹の何が問題なのか

高橋ヒロヤス  

◎村上春樹を読むという冒険

前回のメルマガの対談の中に、僕の村上春樹に対するいささか批判めいた発言が収録されている。しかし、実は僕はそれまで村上春樹の小説をまったく読んだことがなかった。読まずに批判するのはいくらなんでもひどいので、責任を感じた。それで一番簡単に読めそうなものをブックオフで買って読むことにした。

僕は以前から、村上春樹がなぜこんなにも(「異常なほど」と言ってよいくらいに)多数の読者を獲得しているのかに興味があった。

出版不況と言われて久しい中で、村上春樹は新作を出すたびに驚異的な売れ行きを示す。彼の長編小説は、軒並み数百万部という信じられないセールスを記録し、先日出版された新作『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』に至っては、アップルの新製品や新作ゲーム発売前の秋葉原のように、書店の前に徹夜組が列をなしたと報道された。

出版不況にあえぐ出版業界が敢えて話題性を煽っている部分もあるとは思うが、それだけではどうも説明がつかない。本気で村上春樹を愛読している人々が、仮に実売数の十分の一だったとしても、数万人から数十万人の愛読者が国内に存在することになる。これは思い切り少なめに見積もった場合だから、実際には全国に数百万人いる可能性もある。

さらに、彼の本は海外でも多数の愛読者を持つという事情もある。村上春樹は自身で海外小説の翻訳も手がけるが、彼の作品も多数翻訳され、世界中で読まれている。大江健三郎に続く日本人のノーベル文学賞に最も近いのは村上春樹だとみなされている。

僕は、何度も言うように、彼の本を一冊も読んだことがなかった。その理由は、流行ものに抵抗感を抱きがちであるという自分の気質のせいというよりは、ただ単に個人的な興味が持てなかったという方が近い。

心のどこかに、「自分の人生に村上春樹の小説は必要ない」という思い込みがあった。もっとも、その思い込みがどこから来たのかきちんと考えたことはなかった。

ブックオフの文庫本の棚で「村上春樹」を探すと、『東京奇譚集』という短編集が目に付いた。『ノルウェーの森』とか『IQ1984』とか世界の終わりとハードボイルドなんとかいう長編は途中で挫折しそうだから、手始めにこれを105円で買って読むことにした。

僕は郊外にあるアウトレット・ショッピングモールへ車を走らせ、書店の一角に設けられたカフェで快適なチェアのクッションに身を沈めながら、アイスコーヒーを片手に村上春樹の小説を読み始めた(若干フィクションが混じっています)。

この短編集は、著者である村上春樹が体験した、偶然の一致やシンクロニシティのような「不思議な出来事」の話を呼び水にして始まる。若干ネタバレになるが、冒頭に収められた「偶然の旅人」という一編を読んだとき、これを読んだ日が、偶々アンジェリーナ・ジョリーが両乳房を切除する手術を受けたことを公表したというニュースが世界を駆け巡った直後だったことを、彼の言う「不思議な出来事」のように感じた。これが読後の最初の感想だった。

5,6編の短編小説から成る一冊の文庫本を一気に読了した。最も印象深かったのは、彼の文章の「読みやすさ」である。

村上春樹の文章には、彼自身の表現を借りれば、「我々の心を別の場所に送り届けてくれるような」独特のリズムがある。ストーリーテラーとしての才能と、読者の心にすんなりと入ってくる文章能力の高さには素晴らしいものがある。おそらくこれが彼の才能の本質であり、彼の作品の生命線であり、これほど多くの読者を獲得することを可能にした魅力の源泉であるのだろうと思った。

短編集を読んで、内容はともかく(これについては後述)、文章が意外に抵抗なく読めることが分かったので、今度は、話題沸騰の長編最新作『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』も買ってみた。これも読みやすく、ほとんど一気に読めた。

続けて、神戸の震災を間接的なテーマにした比較的最近の作品『神の子どもたちはみな踊る』という短編集も買い、これも一気に読んだ。

この段階で、僕は村上文学の虜になって来たといってよいかもしれない。とにかく読みやすい。さらさらと一気に読めてしまう(もっとも、村上作品の特徴でもある、いささか都合のよすぎる展開やお洒落すぎる会話に対する抵抗感を無視することに決めればという条件はつくけれども)。

このあたりで、ひとつとても奇妙な感覚を覚えた。彼の作品はどれも非常に読みやすく、次々に読めてしまうのだが(そして読んでいる間は大変心地よいのだが)、その内容がまったく心に残らないのである。読んでいる間はよくても、後で思い出そうという気にもならないほど、自分の内面に何のインパクトも残さないのだ。

村上作品を読んだ後で、どうもこの読後感はかつて経験した何かに似ていると感じた。しばらく考えて思い当たったのが、ショート・ショートの大家、星新一の作品を読んだときの感覚だった。

しかし村上作品には、星新一の作品には出てこないものがいくつか出てくる。それを除けば、実は両者の作品に本質的な違いはないのではないかとさえ思えた。
その「星新一にはないが村上春樹にはあるもの」とは、村上春樹の読者なら既にお気づきのとおり、「セックス」と「トラウマ」である。

村上作品には、しばしば唐突に「セックス」という単語が出てきて、初めての読者を少しはっとさせる。主人公はちょっとお洒落な場所で「偶然に」巡り会った女たちといきなりセックスしたりする(だから、ちょっと子どもには読ませられない)。だが彼の作品にいくつも親しむようになれば、これが彼の小説の一種の「お約束」であり、読者の心にインパクトを与えるための「仕掛け」以上のものではないことが分かってくる。


だが、もう一つの村上作品の特徴である、「トラウマ」については、事情はもう少し複雑である。

◎トラウマ込みのエンターテイメント

これまで村上春樹を読む気がしなかった理由を、自分なりに考えてみた。行き当たったのは、前回のメルマガの対談で、やや辛辣すぎるきらいはあるが一言で表現したとおり、彼の小説が「トラウマでエゴを正当化している」のではないかという先入観にあった。

彼の小説を実際に読んでみたところ、いわゆる村上春樹的小説世界が、「心の傷(トラウマ)を抱えて生きていく主人公が現実世界といかに折り合いをつけるかの物語」であるという従前からの印象が裏切られることはなかった。

ほぼすべての村上作品で、ほぼすべての登場人物が、過去に何らかのトラウマを抱えている。そして、ほぼすべての作品は、最後には、主人公がトラウマと向き合い、それを受容し、それを折り合うための術を暗示して終わる。

彼の作品から受ける印象を単語化すれば、次のようなものだ。「現実世界からほんの少し浮遊した非現実感」、「セラピー的」、「精神分析的」、「記号的」・・・
このような単語を散りばめた村上春樹論はおそらくいろんなところで書かれているのだろう(具体的に読んだことはないが)。

僕が村上作品の持つ一種の「安心感」のようなものはどこに由来するのかについて思いめぐらしていたとき、不意に次のような考えが浮かんだ。
――彼の小説は、「答えが決まっている」という点で、文学ではなくエンターテイメントだといえるのではないだろうか?

(MUGA第22号「無我表現研究会編集会議」より引用始め)
那 それで、元々文学好きの人だったんだけど、エンタメと文学の差ってひとことで言って何かなって、思った時に、何となく感覚的には線引きはあるとしても、自分の中で、「ああ、これだな」と最近思ったのが、エンタメには答えがある。文学には答えがなくて、生それ自体が答えというか、表現形式それ自体に意味がある。
土 ええ。
那 エンタメ系だったらトリックがあったり、落ちがあったり、犯人がいたり、人生ってこんなもんだよって答えがある。わかりやすかったり、安心したりする。それはそれでいいんだけど、じゃあ、スピリチュアル業界にそれを当てはめると、99%エンタメの世界。
土 そうですよね。
那 答えがあって安心? この迷い多き世界で、やっとここに答えがあったと。真実を教えてくれたと。でも、それエンタメで、これは癒しですよ、娯楽ですよって教えているんならいいんだけど、これが人生の答えだと教えちゃうから、全部が浅くなっちゃうっていうの? 方向性としては正しくても、それはあくまで元気付けたり、こっちの道が正しいって方向性だけで、それは答えではないんですよね。それが答えになった時に、人生は逆に浅くなる。だから、こういう業界ってエンタメなんだなって。エンタメだから人が集まるのかもしれないけど。
(引用おわり)

今スピリチュアル業界では、「あるがまま」とか「今ここがすべて」、「そのままでいい」「求めなくてもすべては与えられている」云々といった「答え」が大流行している。そのような紋切り型の結論が最初から用意されていて、本や講義(セミナー)などは読者をそこに誘うための仕掛けであるという点で、それはエンタメの世界だ。

村上春樹の小説では、「答え」は明示されないが、ある意味で着地点は最初から見えている。


◎「エゴにとっての心地よさ」の提供

村上春樹は主人公の絶望を描く。非常に巧みな暗喩を用いて詳細に描写されているため、それは途方もない深さを持つような錯覚を受けるが、実のところそれらは文学的修辞に彩られたつくりものの匂いしかしない。

たとえば、最新作の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』においては、主人公の口から、作品それ自体のテーマのようなものが語られる。

(引用はじめ)
「そのとき彼はようやくすべてを受け入れることができた。魂のいちばん底の部分で多崎つくるは理解した。人の心と人の心は調和だけで結びついているのではない。それはむしろ、傷と傷によって結びついているのだ。痛みと痛みによって、脆さと脆さによって繋がっているのだ。悲痛な叫びを含まない静けさはなく、血を地面に流さない赦しはなく、痛切な喪失を通りぬけない受容はない。それが真の調和の根底にあるものなのだ。」
(引用おわり)

これらの言葉は、適度に感傷的ではある。が、魂の内奥から発せられる叫びではない。要するに「エゴにとっての心地よさ」を提供してくれるものでしかない。
彼の作品がこれほど共感される理由は、この「エゴにとっての心地よさ」だろう。

最終的に「心地よさ」に着地するという点(そしてそれがあらかじめ約束されているという点)で、村上春樹の文学はやはりエンターテイメントなのだろうと思う。

村上春樹の小説を読み続けるのは延々と心理セラピーを受け続けるようなものだ。それは一時的な慰めを提供するが、決して解決はもたらさない。否、読者はそもそも解決など求めていないのかもしれない。

村上春樹はドストエフスキーに影響を受けていると公言しているが、彼の小説はドストエフスキーとは違い、求道的な文学ではない。村上春樹の作品が、そういう観点で文学を捉えている読者(「小説家とは求道家であるべきだ」と考えている人たち)に嫌悪感をもたらす類いの作品だということはよく理解できる。「解決」を求めるのが求道的な人たちだとすれば、本当に解決を求めているわけではないのが村上春樹の愛読者ではなかろうか。

案の定、村上春樹を辛辣に批判する内容になってしまった。しかし、僕は決して村上春樹という人が嫌いではない。彼が世界に向けて発信した政治的な意味を持つスピーチのいくつかには、勇気ある発言として感銘を受けたこともある。

彼のような小説家はいてもいい。村上春樹がノーベル賞を受賞するとしたら、それは大変素晴らしいことだと思う(きっと素晴らしい受賞スピーチをしてくれることだろう)。言語の壁を超えて人間の心の琴線に触れる普遍的な彼の文体、そして彼の物語小説家(ストーリーテラー)としての才能は、それに値すると思う。

ただし、彼の小説は、少なくとも無我表現ではない(その事実が彼の小説の価値を貶めるものではないにせよ)。

・・・と、ここまで書いて、僕は、なんだかありきたりな感想だなあ、と思った。
この冒険はまだ終わっていないと感じた。


◎村上春樹自身が語る「自我表現」

そんな風に感じた数日後、偶然立ち寄った本屋で、村上春樹が日本作家の短編小説を解説するという、面白そうな本をみつけたので、『若い読者のための短編小説案内』というのを買った。

この本の冒頭部分の、「僕にとっての短編小説」という文章を読んで、なんとなくモヤモヤしていた部分について少し霧が晴れたような気がした。
そして、村上春樹の作品ではなく、村上春樹という作家自身に興味を覚えた。
この本の中で村上春樹は、自分の創作態度についてかなり率直に語っていて、それは大変興味深いのだが、もっとも注目すべきは、彼の口から「自我表現」という言葉が飛び出していたことだ。
「まずはじめに」という序文の中で村上は、自分は若い頃日本の近代小説にはまったく興味が持てなかったが、外国で日本語の小説を書くという仕事をしているうちに、日本の小説を意識せざるを得なくなったことや、アメリカのプリンストン大学に講師として招かれた時に、日本の小説について講義をするためそれに取り組むことになった経緯などを語りながら、次のように述べている。

「僕はこれらの作家(引用者註:日本の近代小説家)が小説を作り上げる上で、自分の自我(エゴ)と自己(セルフ)の関係をどのように位置付けてやってきたか、ということを中心的な論題に据えて、それを縦糸に作品を読んでいくことにしました。それはある意味では僕自身の創作上の大きな命題でもあったからですし、またその『自我表現』の問題こそが、僕を日本文学から長い間遠ざけていたいちばんの要因ではあるまいかと、薄々ではあるけれど以前から感じていたからです。」

この文章を読む限り、彼は「自我(エゴ)」と「自己(セルフ)」を明確に区別している。そして、大半の日本文学が「自我表現」でしかないことを暗に主張しているようだ。
村上春樹のこの問題意識が、日本の現代小説を巡ってどのように展開されていくのか、これは是非見届けなくてはならない。僕は夢中になって頁をめくった。

すると、僕の目の前に、ある衝撃的なものが出現した。
それは村上の文章ではなく、彼が手書きで描いたきわめてシンプルな図であった。

簡単な図ではあるが、言葉で説明するのはまどろっこしいので、暇と興味のある方は、この本の文庫版62ページを見ていただきたい。それは「自我」という小さな固まりが中心にあり、「外界」という広い世界が外側にある、その自我と外界に挟まれた中間地帯が「自己(セルフ)」であるという図だ。要するに、二重丸が書いてあって、一番外が「外界」、中心が「自我(エゴ)」、小さな円と大きな円の間が「自己(セルフ)」というものだ。

彼はこう述べる。
「図にしてみると比較的わかりやすいのですが、僕らの人間的存在は簡単に説明すると図(1)<62頁>のようになると思うのです。自己(セルフ)は外界と自我(エゴ)に挟みこまれて、その両方からの力を等圧的に受けている。それが等圧であることによって、僕らはある意味では正気を保っている。しかしそれは決して心地よい状況ではない。なにしろ僕らは弁当箱の中の、サンドイッチの中身みたいにぎゅっと押しつぶされた格好で生きているわけですから。」
「でもとにかくこれが基本的なかたちです。作家が小説を書こうとするとき、僕らはこの構図をどのように小説的に解決していくか、相対化していくかという決定を多かれ少なかれ迫られるわけです」

彼はこのような観点から、さまざまな作家―吉行淳之介、小島信夫、安岡章太郎などのいわゆる戦後文学の「第三の新人」と呼ばれる人々―の短編小説を図式的に解説する。それはそれで面白く興味深い分析になっている。

別の場所で村上はこう述べる。
「僕らは―つまり小説家はということですが―自我というものに嫌でも向かい合わなくてはならない。それもできる限り誠実に向かい合わなくてはならない。それが文学の、あるいはブンガクの職務です。」

これはきわめてまっとうな主張である。ただ、なぜ彼はここで「文学の、あるいはブンガクの職務」という言い方をするのだろうか。彼は自分の作品が「文学」ではなく「ブンガク」だという自覚があるのだろうか(そうだとすれば、彼はそれを肯定的な意味で捉えているのかもしれない)。

では(ここが一番重要なのだが)、村上春樹自身は、自我というものに誠実に向かい合っているのだろうか。
僕にはどうもそうは思えないのである(彼が不誠実な作家だと言いたいわけではない)。
彼が他の作家を評した表現を模して言うなら、村上春樹は、むきだしの自我に誠実に向き合うふりをしながら、その実は、自我に暖かい毛布をかけてそれを包みこんで、その本性を見ないようにしているように僕には思われる。

そもそも、彼の中には、「自我というものは本来存在しない」という発想はまったく存在しない。もちろん彼がそのような発想を持たないことを批判するつもりはない(そんな発想を持つ作家の方が珍しいだろう)。言いたいのは、彼が「自我と対立する世界、その中間地点にあって伸びたり縮んだり変形したりするものとしての自己」という閉ざされた図式を<強固に自覚しながら>小説を創作しているということだ。この<強固に自覚しながら>という部分がポイントで、おそらく、この点が村上文学の最大の特徴ではないかという気がしている。

したがって彼の小説の「答え」は、常に主人公が「傷を持ったエゴを抱えながらなんとか世界と折り合いをつける」という地点に収束し、自我破壊によって現れ出る「私=世界」という認識には決して到達しない。

芸術作品というものには、意識するにせよしないにせよ、また成功するかどうかはともかくとして、自我を超越しようとする志向性(それは自我破壊への志向性でもある)が必ず内在されていると僕は思っている。ところが、村上春樹の小説にはそれがない。というか、著者がそれを明確に拒絶しているから、構造的にそのような志向を持ちようがない作品になっている。だから、彼の作品は、どことなく自閉的で自己完結的な印象を与える。


◎村上春樹が語る村上春樹の作家としての致命的な弱点

その後、村上春樹が書いた『意味がなければスイングはない』という音楽評論を読んでみた。これも大変面白く読んだ。彼の評論は実に読みやすく面白いのに加えて、実に鋭い。そして、時にはその鋭さが自分自身に跳ね返ってくる危なさがある。

村上が、現代ジャズの第一人者ウィントン・マルサリスについて評した、「ウィントン・マルサリスの音楽は、なぜ(どのように)退屈なのか?」という一編がある。
この中の次の一節は、まさに村上春樹本人に当てはまるような気がしたので、引用する。

「こういう言い方は酷かもしれないけれど、ウィントンの演奏からは、『この音楽を通して、自分はどうしてもこういうことが言いたいのだ』という切迫した魂の欲求みたいなものがこちらにあまり伝わってこないのだ。だから本人はいかにも気持ちよさそうに朗々とトランペットを吹いているのだが、本当の意味での歌心のようなものが見えてこない。」
「マイルズ・デイヴィスにはマルサリスほどの、融通無碍なテクニックはない。人間的には鼻持ちならないエゴイストだった。しかしマイルズにはどうしても語りたい自分の『物語』があったし、その物語を相手に生き生きと届けられるだけの、自分自身の言葉があった。マイルズ自身の目が捉えた固有の風景があったし、その風景を相手に『ほら、これだよ』とそのまま見せられるだけの画法(語法)があった。だからこそマイルズと彼のオーディエンスは、その物語や風景を心に分かち合うことができたのだ。マルサリスには(まだ)それができない。」


◎村上春樹を超えて

新刊『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』に対するアマゾンのレビューを読むと、これまでにないほど村上作品を強烈に批判する感想が多数目に付く。

中には、単なる罵詈雑言に近いような内容もあるが(そういうものの方が分かりやすくてレビューとしての評価が高かったりもする)、そこでの種々の批判が示唆しているのは、良質なエンタメでしかないものが高度な文学作品であるかのようにみなされていることへの(意識下の)反発のような気がする。

これは、多くの読者が無意識のうちに村上作品という「自我表現」の持つ一種の閉塞性に飽き足らず、文学における「無我表現」的なものを求めていることの一つの表れと解釈することはできないだろうか。


参考文献:
『東京奇譚集』(2005年)
『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(2013年)
『神の子どもたちはみな踊る』(2000年)
『若い読者のための短編小説案内』(1997年)
『意味がなければスイングはない』(2005年)