能年玲奈が辿り、表現した十牛図のプロセス
那智タケシ
遅ればせながら、この夏は「あまちゃん」をDVDでレンタルして全巻見た。高橋氏の原稿と、ちら見した「朝まであまテレビ」というダイジェスト版から、能年玲奈の求心力のようなものに惹かれていたが、DVD13巻は1本3時間。こりゃたいへんだぞと思いきや、終わるのが惜しくなるほどあっと言う間の「あまちゃん体験」であった。脚本も、橋本愛も、他の芸達者な役者たちもすばらしかったが、やはりこのドラマは能年玲奈で始まり、能年玲奈で終わる。現代のドラマの中に、「何か特別なもの」を見たという確かな感覚があった。
自分がこのドラマの中で一番気に入っているのは、能年演じる天野アキが潜水士の資格の合格を知るシーンである。教室で担任がふざけた調子で合格発表をしている時、アキはヘッドホンをして音楽を聞いている。父からのクリスマスプレゼント(サンタからもらったと思い込んでいる?)のMDプレーヤを手に入れたばかりなので、夢中なのである。それで教師のただならぬ様子に気づき、ヘッドホンを外し、先生に自分が合格かどうかを確かめると、「やったー」という感じで歓声をあげながら教室を外に飛び出し、憧れの先輩に知らせにいくのである。その後ろ姿を見送りながら、先生が「そんなに自由か?」と突っ込む。このシーンには、あまちゃんの天野アキという存在のあり方のすべてがある。
彼女には、社会性がないわけではない。常に周囲の人々のことを考え、家族や友人を心配し、気を使うこともできる。ただ社会的枠組みを超えた「本然」のエネルギーのようなものが、時に常識や社会的ルールを乗り越える形で炸裂するのである。その自由奔放な姿に、人々は惹きつけられ、吸い寄せられ、影響を受けて、ついには北三陸市そのものが変わっていくのだ。確かに、この脚本は素晴らしい。しかし、それ以上に天野アキの中にこの「本然」のエネルギーを炸裂させた能年玲奈の存在が、圧倒的なのである。
「本然」という言葉を思わず使ってしまったが、別に語源がどうこうあるわけではなく、能年演じる天野アキを見ていると、まさに本然としかいいようがない生命の力と輝きがあふれ出ているように見える。そのエネルギーは、何よりもまずその目に、表情に、瞬間的身振りに、台詞回しに現れる。それは真実を手に入れた者だけが持つ、社会的枠組みを超えた、その場における瞬間的エネルギーの発露とでもいうべきものであり、世界の起点でもあり、正しき力そのもののことでもある。
もう一つ、お気に入りのシーンがある。アイドルの卵として東京の芸能プロダクションに入ったアキは、母からの大事な手紙を鞄から落としてしまう。その手紙を上司にあたる社員の一人が拾い、好奇心で読もうとする。瞬間、その会社で一番下っ端であるペーペーのアキが「普通読むか? このアホンダラが!」と上司を怒鳴りつけ、手紙をひったくってにらみつけるのだ。するとその上司は「すみません、まだ読んでいません」とびっくりして謝る。ああ、この「アホンダラ!」と叫ぶ能年のなんと自由闊達で輝いていることか! この時の彼女には誰も逆らえない。どんな経験豊富な大人も、社会的地位にある人間も屈服させてしまうようなエネルギーと純真無垢なる輝きがあるのだ。大人たちは、何か神々しいものを見るように彼女の姿を見上げる他ないのである。
元々、世田谷で生まれ育った天野アキは、「地味で暗くて協調性も花も個性もない」目立たない暗い女の子だった。いじめられる個性もないほどにクラスの中で埋もれ、友達もおらず、存在を無視された根暗な少女――そんな彼女がどうやってこのような超俗的な力を手に入れ、自在に行使することができるようになったのか――自分には、この物語における彼女の変容のプロセスは、悟りを追い求め、感得し、ついにはこの世界に影響を与える形で実現する十牛図のプロセスのようにも見えてくるのだ。
「尋牛(じんぎゅう)」――無明の日々を送る中、アキは、東京というイメージと競争社会の中で破れ、埋もれて、存在を否定されていた。
「見跡(けんせき)」――母親に連れられて北三陸にやって来たアキ。港で海に潜る海女の姿を見て、憧れを抱く。
「見牛(けんぎゅう)」――海女の祖母に北三陸市の海に突き落とされたその時から、彼女は競争社会からもセルフイメージからも、常識からも自由になり、自分自身を取り戻す。アキは北陸の海の中で自分自身を見出し、迷いを消すことができたのである。
「得牛(とくぎゅう)」――エゴを超えた力を手に入れた彼女は自らを救い、そのエネルギーを我が物とせんと格闘する。「海女をやりたい」「潜水士の資格を取りたい」「海女カフェをやりたい」「アイドルになりたい」その場その場でやりたいことをやると言い、すべて実現させていく。そこには、理屈を超えた本然のエネルギーがあり、親も、打算に満ちた大人たちも、誰も逆らうことはできない。誰もが天野アキに惹かれ、いつの間にか彼女を中心として生活してゆくようになる。
「牧牛(ぼくぎゅう」――自分自身を救ったアキは、その自由奔放な力を自在に使いこなし、人々のために使い、地元を活性化させる中心人物になる。
「騎牛帰家(きぎゅうきか)」――一度はアイドルを目指して上京したものの、大震災によってすべてが失われ、落ち込み、何かをあきらめている大人たちの中に戻って来て、救世主的役割を再び担う。この時、もはや彼女にとって自分自身の問題を解決したという意識はない。ただ人々のために何かをしようとする。そこに、牛はいないのだ。
津波で破壊された「海女カフェを復活させる!」と宣言するアキ。家を流され、仮設住宅に暮らす人々もいる中、それは常識的に考えると不可能な計画であった。しかし彼女のエネルギーに触発された人々は立ち上がり、復興がなされていく。この時、彼女はもはや自分自身を解放することに成功した女子高生ではなく、民衆の先頭に立って鼓舞するジャンヌ・ダルクのような存在になっている。言わば、彼女はもはや個人的存在ではない。「地元の宝」という扱いだが、確かに個的属性を超えた力が、彼女には宿っているように見える。それは天野アキという役柄を通して、能年玲奈が身にまとうことに成功した没我的エネルギーのなせる業であり、説得力なのだ。
しかし、復興のキーマンとして活躍し終わった天野アキは、次第に地元の中心人物ではなくなっていく。影響を受けた人々は、もうそれぞれの人生を充実して生きており、そこにあるのは並列化されたそれぞれの物語があるばかりである。そう、この波乱万丈の数奇なドラマは、エンディングが近づくにつれて、主人公が世界の中心人物ではなくなっていくのだ(これは高橋氏の指摘と同じ感想である)。
「忘牛存人(ぼうぎゅうぞんにん)」――彼女は相対化された世界の一員であり、地元民の一人である。太陽のように光り輝くのではなく、みなと同じように笑い、手を叩き、盛り上げ役の一人となっている。
「人牛く忘(にんぎゅうくぼう)」――時に、他の主人公の背景としてしか彼女は存在していない。
「返本環源(へんぽんげんげん)」――世界は、天野アキによって等しく光を浴びることで、愛され、調和され、極めて自然で明晰な姿を取り戻した。
「入テン垂手(にってんすいしゅ)」――十牛図の最後。彼女はもはや、世界の中心にいるのではない。それでいながら、自然に人々のために生き、彼らを正しき道に導く力を宿している。
自分を救い、人々を救い、太陽のように光り輝き、自然に溶け込み、それでいて人々に必要な空気のような、普遍的存在へとアキは進化してゆく。こんな女子高生の精神的変化の遍歴をデリケートかつ大胆に表現しきった天才女優――それがこの「あまちゃん」を見終わった後の能年玲奈に対する感慨である。しかし、役者としての能年は、あまりに規格外の存在で、一概に評価できない。果たしてどこまで意識的だったのだろうか?
あまりに天然で無意識である場合、「あまちゃん」の成功はたまたまはまった偶発的なものと捉えられかねない。しかし、ぼくは彼女は一般の人が考えるよりもはるかに意識的で、自覚的な役者であると思う。彼女は、自分の魅力を知っているし、表情も一つひとつ計算している。言わば、天然型ではなく、客観的に自分を見ているしたたかさがある(でなければ、真の表現足りえない)。黙々と、誰知らぬところで表現に対する努力を積み重ねてきたのであろう。その濃度が、人よりもはるかに濃いのに違いない。言わば、自分自身と向き合い、意識化する作業を徹底して行ってきた人だということはわかる。しかし、そうした自意識の計算外のところに、彼女の魅力と不安定さが存在するのも確かなのだ。それはこの「あまちゃん」という完成された物語の中で、天野アキの成長過程とその表情の変化を見ていくとはっきりする。
例えば、最初、北三陸市にやってきた彼女は、海女になった後もまだ周囲に馴染みきっていない、作った笑い方をしている。海女の仲間と歌を歌いながら海辺に坂道を降りて歩いていく時も、どこかお客さんのような顔をしていて、地元民になり切っていない。これは半分東京人、半分田舎人という按配である。この演技は、自分の役柄を理解し、意識化して表現している反面、どこか手探りな能年玲奈の主観も見え隠れする。するうち、人々から愛され、肯定され、自分自身を完全に取り戻したアキは、地元の中心的人物となり、ついには太陽のように光り輝く。彼女自身、生きる喜びを炸裂させ、海女をし、恋をし、失恋をし、勉強をし、喧嘩をし、ご当地アイドルとなって、やりたい放題。生きる喜びに輝いている。これは能年自身が天野アキという役柄を理解し、手に入れて表現することの喜びそのものでもあるのではないか。
ぼくは、この素晴らしい物語が終わりかけた頃の、能年玲奈の笑顔を忘れることができない。彼女は、確かに自然の中に溶け込んでいるように見える。しかし、そこには確かに一抹の寂しさのようなものがあるのだ。自分自身が役割を終えたことに対する寂しさ、悲しさのようなものが見え隠れするのだ。それは単に、アイドルとして愛され、中心人物としてもてはやされた時代が終わったことに対する寂しさというものではない。むしろ、自我の核から解放され、天然で自由に振舞っていたあの全能感が失われたことに対する寂しさなのだ。それは天野アキという役柄と一体化していた能年自身が感じていた寂しさだったと思う。
牛をつかまえ、乗りこなしていた時に感じた圧倒的な自由と力――しかしもはや、牛はいない。ただ世界があるだけなのだ。その自然の成り行きを受け入れつつも、いなくなった牛を懐かしむ若さというものが天野アキというよりも能年玲奈の中にあり、それがあのぎこちない作り笑いのようなものにつながっているのである。しかしそのぎこちなさは、物語の始まりの周囲に溶け込むことができないあのぎこちなさとは違う。自分自身を取り戻し、自分自身を捨てるプロセスの果てに演者の一人になったことによる寂しさを取り繕うためのものなのである。能年が「あまちゃん」の続編を強く望んだのも頷ける。彼女は、もう一度光り輝きたかったのである。太陽のように、世界の中心人物になり、人々に生きる力を与えたかったのである。そして自分自身もまた――。
もしも、もしもだが、このプロセスの変化すべてを能年玲奈という新人女優が自覚的に演じ切っていたとしたら、彼女は日本の俳優史上でも極めて特異な天才と言えるだろう。実際に、部屋に引きこもり、相部屋のアイドルに一日中一言も話しかけなかったというようなエピソードを多々持っている内省的な女性である。自分自身と向き合い、十代にして明晰な自己認識と自意識を持ち合わせていた可能性もなきにしもあらず、だ。素晴らしい演技の先生につき、内面の繊細な変化を表現化するレッスンを徹底的に繰り返したことも非常に大きいだろう。しかしそれだけ自覚的であっても、やはり物語の終盤におけるあの楽しそうでいてあまり楽しそうでない作り笑いは、無意識のなせる業だったのだと思う。彼女は、あまりに天野アキになりすぎていたので、それを隠すことができなかったのだ。
それはもしかすると、アキという一人の女性の物語が終わることに対する、能年の寂しさそのものだったのかもしれない。それを思えば、彼女はもはや新人女優などという範疇で片付けられないような、規格外な存在であることを認めざるを得ない。彼女は、物語の中の生を現実のそれよりもはるかにリアルに感じ、濃厚な密度で生き、表現してしまうことができるのだから。
共演した役者魂の固まりのようなベテランの木野花が、「数十年やってきて、こんな新人は今まで見たことがない」「天野アキが画面に映った姿を見た瞬間、このドラマは成功すると思った」と表立って口にするほどの圧倒的な天才が、この童顔の女優の中には眠っている。能年玲奈を発掘した「あまちゃん」というドラマは日本のテレビ史上において記念碑的なものになるだろう。しかし、俳優という仕事は自分ひとりでその「本然」を輝かすことはできない。芸能界のくだらぬプレッシャーや大人の欲得に汚されず、彼女の才能の本質を見極め、生かすことのできるクリエーターたちと素晴らしい作品を作っていって欲しいと切に願うばかりである。彼女の「本然」が光り輝く場所は、現世において、今のところ役者という枠組みの中にしかないのだから。
ps:ちなみに、ぼくは橋本愛のことも大好きだが、彼女の非凡さは誰もが理解できるだろうから、ここでは多くを語らない。