再び能年玲奈について

高橋ヒロヤス  


昨年大きな話題となったNHKの朝ドラマ『あまちゃん』の主人公役で大ブレイクした能年玲奈の、彼女の初の映画主演作となる『ホットロード』が8月に公開された。

原作が80年代のベストセラー漫画で、暴走族や不良といった題材が時代遅れに思われることなどから、映画としての失敗を危惧する声もあったが、意外と若い世代の受けがよく、現在のところ(2014年8月末現在)、興業的にも好調なようだ。

能年玲奈と言えば、『あまちゃん』で見せたような、今どきの女優らしからぬとも言える純粋無垢な表情が印象的だ。テレビ出演の際には、しばしば返答に窮して沈黙してしまうことがあり、「頭の○い子」とか「天然」のレッテルを貼られる傾向がある。

ところが、この『ホットロード』公開に先んじて彼女が受けたインタビューで、少し注目すべき発言があったので、取り上げてみたいと思った。

それは、某インタビュアーが能年に「まるで和希(映画のヒロイン)が憑依しているようだ」と語ったのに対して、彼女が珍しく「私は考えに考えたうえで演技を組み立てているので、憑依と言われるのは心外だ」という旨の反論をしたという話である。

ここには、「演技というもの」を巡るかなり興味深い問題が隠されている。

一般に、役者の演技を見る場合には、「役になりきって」演じることが高く評価される。その一つの表現として、「まるで登場人物の人格が憑依している」という言い方をされることがある。

そこには、役者が自己の人格を放棄して、あたかも霊媒のように与えられた役柄の人格を自己の肉体に「降ろす」ことが含意されている。そしてこのような表現が、しばしば「無我表現」と勘違いされたりするのである。

しかし無我表現は、霊媒的な憑依や、エクスタシーによる忘我によっては生まれない。

小林秀雄は、役者の演技の本質について、こんな風に語っている。

「彼は舞台で、私とのやりとりで、感情がたかぶってくると目に涙をためることがあった。それがすぐこちらに反射して、おやおやと思うほど妙に調子が合うことがある。夢中でやってはいるのだが、頭のどこかが覚めていて、しめたうまく行っていると感じている。むろんこんなことは、玄人から見れば、ほんの役者のいろはには違いないが、私にはやってみて初めて感じられてひどく面白いことに思えた。舞台で役になりきるなどということは嘘で、何かが覚めているものだ。玄人が新二郎をやれば、目に涙なぞ溜めなくても、もっとうまくやるに決まっている。だが、私の言うのは、役者のいろはである。感情がたかぶらなければ、井上君は目に涙を溜めやしないが、たかぶるのは日常現実の感情ではあるまい。芝居の秩序に従って整頓された感情であろう。泣いてはいるが、心を乱してはいまい。新二郎に成り切りながら、見物の眼をはっきりと感じ取っている。そういう時に、私はなるほど役者とはこれだなという言いようのない快感を覚えた。見物を瞞着する快感と前に言ったのはそういう意味だ。おそらく、この初歩的経験はどんな名優にも通じているものだと推察する。」

(小林秀雄「役者」より、『考えるヒント』所収)

能年玲奈は、本人の言うとおり、決して「憑依型」の女優ではない。 彼女は、演技の中でほぼ完全に自分をコントロールしている。それは台詞回しや動作、手足の動きに留まらない。日本の女優として彼女が今までにないタイプである点の一つは、顔の表情筋を高度に意識的に使いこなしていることにある。インターネット上には、中学生の頃からの彼女の画像や映像が出回っている。昔の写真と今の顔が与える印象がまったく違うことから、整形ではないかとの噂もあるが、たぶんそうではない。驚くべきことに、彼女の表情は、中学生の頃から年を経るにつれて幼い印象を与えるものに変わってきている。これは顔の表情筋のコントロールによる意図的なものであることが、能年玲奈の演技指導の先生(滝沢充子氏)によって明らかにされている

(http://inkankh.com/studio.htmlより)。

能年玲奈の演技には、演者である彼女自身の感情は反映されていない。感情的になるのは、彼女の演じる人物が感情的になっているからにすぎない。たとえば、『あまちゃん』の中で、海女カフェでユイに「ダセぇくらい我慢しろ」と言い放つ名シーン。

あそこにいるのは能年玲奈では無い。完璧に、天野アキが存在しているのだ。だからこそ憑依型と呼ばれてしまうのだが、根本が違う。能年はアキを彼女の中に「降ろして」いない。彼女は全身全霊で役を「演じ」ている。感情を役に乗っ取らせるように、天野アキに身体を明け渡しはしない。非常に醒めていて、演技をしている自分を頭上から見つめるもう一人の能年玲奈が、彼女の肉体と感情と知性をコントロールしている。

ここで、「コントロール」という表現を使うと、あたかも能年玲奈という自我が自分の肉体をコントロールしているようにも思われる。しかし、ここがポイントなのだが、コントロールしているのは、能年玲奈という自我ではない。

かつて志賀直哉の文学を論じた際に、志賀直哉の作品は自我表現のように見えて、実は無我表現であると述べたのと同じで、能年玲奈の演技は、彼女自身の本性と、その卓越した演技力(コントロール力)ゆえに、真の無我表現たり得ているのである。

『あまちゃん』の能年があれほど輝いていたのは、そこに隠された理由があったと思っている。そして、自分の見た限り、『ホットロード』においても能年玲奈は健在だった。


※本稿執筆にあたり、以下の秀逸なネット記事を参考にさせていただきました。

日記的な何か(仮)能年玲奈は阿修羅である (菩薩とかキリストとかのアレ系的なやつ)

http://sangatukitijitu.hatenadiary.jp/entry/20131113/1384333496