無垢とはどういうことか ~能年玲奈とクリシュナムルティをめぐる雑感

高橋ヒロヤス  

先月に続き「あまちゃん」の話。


「あまちゃん」の放送を見たのは、「NHK朝ドラの主人公が可愛い」という評判を目にしてしばらく後のことだった。テレビの中の能年玲奈を見たとき、「しまった、もっと早く見ておくべきだった」と思った。しかしその時にはすでに日本中で何百万もの人たちが自分と同じことを感じていたのだった。


能年玲奈の魅力を関係者が次のように語っている。


「彼女には作為がない。お芝居もそんな感じで、びっくりしましたし、いまだにびっくりさせられます。すごい才能、すごいポテンシャルだと思う」

(「あまちゃん」制作統括 訓覇圭プロデューサー)


無垢(innocence)とは「何も知らないこと」(無知)ではない。


能年玲奈は、モデルとしてデビューした頃から現在までのブログをすべて公開しているので、中学生から今に至る彼女の内面・外面生活を辿ることができる。


それを読むと、彼女が、お笑い、アニメ、漫画、小説などにとても詳しいことが分かる。しかしそれは、「オタク」的な詳しさとは違う(本人もそう言っている)。


オタクの正確な定義がどういうものか知らないが、おそらくそれは特定の対象(ジャンル)への偏愛を意味すると考えておけばよいだろう。違った表現をすれば、それは「対象に乗っ取られている」状態のことだ。しかし能年玲奈はそうではない。能年玲奈は逆にそれらを乗っ取り、自らの演技の中に血肉化している。


能年玲奈は、共演者から「自分の頭の中にあることを言葉にするのに時間がかかるタイプ」と言われている。確かに彼女が出演したNHKの番宣など見ればそれは明らかだ。

質問の言葉を、いったん自分の中に深く潜らせて、海の底から浮かび上がってくるまでに時間がかかる。


「アキとは、一直線で、ひとつのことに集中すると周りが見えなくなるところが共感できます。私も趣味の絵を描いていると、周りの音とか何も聞こえなくなったりします」


「目ざすのは感性がストレートに流れ込んでくる女優。見る人の皮膚に刺さるような演技が見せられるようになりたいです」



無垢である(innocent)とはどういうことか。


クリシュナムルティは、貧しいインドの家庭に生まれ、幼い頃に両親と別れ、特殊な環境で育てられた。


20世紀初頭に世界最高(?)のスピリチュアル組織であった神智学協会のトップ、リードビーターがクリシュナムルティの中に「利己心のかけらもないオーラ」を見出し、その弟ニティヤと共に引取って育てることにしたとき、二人は家庭の中で、部屋の隅で床に這いつくばって食事させられていた。栄養不良で、衛生状態は家畜並みだった。


その後、クリシュナムルティは、成人するまで、大金持ちに取り囲まれ、英国貴族以上の教育を受けた。オックスフォード大学で学び、鉄道旅行するときは、彼のために専用の車両が用意された。


しかし彼は大人になってから死ぬまで、自分の周囲の環境のいかなる痕跡も精神に残さなかった。


彼は自らそう呼ぶ通り、「空っぽの少年」であり続けた。


無垢であることは、既知のものの手垢がついていないことだ。


能年玲奈が愛読していると公言する作家に、木地雅映子という人がいる。


木地雅映子の小説は、生きづらさや居場所のなさを抱える中高生が、それでも個性的に生きていこうとする風景を綴った作品が多いようだ。そんな『マイナークラブハウスへようこそ』という小説の登場人物の言葉。


「言葉を使うようになる以前の思考は、すべて言葉以外のもの……イメージや、音や、匂い、手触り……そういったものだけで構成されていた。それらの思考を、今、記憶として外へ出すには、まず脳の中で当時の感覚をそのまま再現して、それを言葉に翻訳し直して取り出す、という作業が必要になってくる。」


テレビ画面に映し出される能年玲奈の表情があんな風に無垢に見えるのは、彼女が言葉以前の空っぽのところからダイレクトに演技しているからではないか、とふと思った。


能年玲奈の「無垢」がいつまで続くのかなんて考えても仕方がない。今は彼女の「無垢表現」を毎朝見ることができればそれでいい。