『リルケ 芸術と人生』(富士川英郎訳)に見る愛の受肉化

那智タケシ  

リルケのことを思う時、この詩人がいかに「私心なく」事物の中に傾倒し、その秘密を探し当て、繊細で誠実な言葉を使いこなしたかという事実に憧憬と限りのない親愛を覚えずにはいられない。彼の天啓と自然の秘密に満ちた世界を創出するあの独自な「声」を持つ詩は、『マルテの手記』のようなモノローグ体の小説や、『ロダン論』のような美術評論、『若き詩人への手紙』といったプライベートな手紙にまで染み渡り、何を書いても、何を語ってもリルケの世界そのものがそこにある。リルケの世界とはもちろん、彼の内部で完結したイメージの世界ではなく、この無限の世界に没我的に入り込み、エッセンスを醸成した後に生まれる愛の形そのものである。

しかし、その繊細さ、異常なまでの豊かさは、ともすると「少女趣味」と受け取られかねないような儚さ、弱さを持っているように見えるだろう。「薔薇の棘が指に刺さって死んだ詩人」のイメージから、我々は抜け切れないようである。彼は、俗世に生きるにはあまりにも繊細すぎたのだ、と。

だが、実を言えば「 彼は詩人であって、曖昧なものが嫌いであった」と語ったリルケは、恋愛感情に耽溺したり、自然の美を見て感傷に耽るようなロマンティストではなく、科学者のように「無我」的な態度でこの世界に没入し、「事物」そのものの秘密を神秘の言葉で語った数少ない芸術家の一人であった。彼は、来るべき人類の先駆けとして、明晰で論理的な精神を持って、意識的に詩人たりえた求道者に他ならなかったのである。

 

彼の厳格かつ誠実な芸術観は、直接的な芸術作品そのものよりも、私信ともいえる美術評論の中に明晰に現れている。以下は、リルケがセザンヌの絵を友人の女性画家と一緒に見学に行った時のレポートの引用である。


それから彼女は(未完成の絵から見てとれる)セザンヌの仕事のやりかたについて、たいへん良いことを言っていました。「これを」と彼女は絵のある箇所を指しながら言ったのです。「これをセザンヌは知っていました。だからこれを彼は語ったのです。(それはりんごのある一箇所でした。)そのすぐわきのところはまだ空白になっていますが、それは彼がまだそこを知っていなかったからなのです。彼は自分の知っているものだけを画いたので、そのほかのものは何も画いていません。」「彼はなんという良心の持ち主だったのでしょう」と私は言いました。「そうです、彼はどこか内部の奥深いところで、幸福だったのですね…。」


こうした「知っているものだけを語り、知らないものは沈黙する」というヴィトゲンシュタイン的な厳しい内的法律は、優れた芸術家特有のものであると言える。しかし、この内的法律は、例えば「無我」や「愛」、「神」等を語るような宗教的、及び精神世界に関わるような人間にこそ最も必要とされるものなのではないだろうか。リルケの自然観、芸術観に触れる時、自戒の意味も含めて常に身を正されるような気持ちになるのである。

「愛」という言葉は「愛」ではないし、「神」という言葉は「神」ではない。にもかかわらず、「愛」と「神」を我が物のように語り、「表現」の厳しさを持たない人々に、自分が何の感動、共感も覚えないのはそのせいだ。彼らの語る「愛」は観念、メッセージであって、表現として体に宿っていないからである。受肉化されていないからである。そして受肉化されたものだけが表現に値するのだ。体に宿ったものは必ず独自のリズム、形式を持って、「愛」という言葉を使うことなしに「愛」を語りかけてくる。彼らは「愛」に対して沈黙することで、愛を語ることができるまでに熟成していたからである。そうした肉体から生まれた真の表現だけが、この世界を本当に変革するのだということを自分は疑わない。世界を変えるのは聖なるメッセージでもなければ、イデオロギー、観念、信仰ではなく、真に変革した「存在」そのものである、ということを。存在が質的変容を起こさなくては、人間を真に変える影響を与えることは決してできないことだろう。

少々長いが、この「芸術と人生」に収められたリルケの書簡から、ぼくが最も感銘を受けた一節を紹介したい。


私はきょうもまたセザンヌの絵を見にいきました。彼の絵がみごとな雰囲気をかもしだしていることは不思議なくらいです。その絵を一つ一つ見ないで、二つの部屋のちょうど中間に立っていると、そこに現存するいろいろな絵がより集まって、一つの巨大な現実になっていることが感じられるのです。それはまるで絵の色彩がわれわれから永久にためらいを取り去ってしまうかのようです。これらの赤や青の清らかな良心、その素朴な真実性は、われわれを教育してくれます。われわれができるだけ心構えをして、これらの絵の下に立つと、それらの絵はわれわれのために何かをしてくれるようです。そしてわれわれはそのたびごとに、愛をさえ越えていくことがどんなに必要であったかを、より良く知ることができるのです。

もちろん、これらの事物(もの)の一つ一つを画くとき、画家がそれを愛していることは言うまでもありません。けれどもその愛情を表に現すとき、その絵はつまらないものになるのです。その事物(もの)を言う代わりに、判断することになるのですから。画家は公平ではなくなってしまうのです。そして最上のものである愛は作品の外に残って、その中へははいっていかないのです。作品の中に置き換えられずに、そのかたわらに残ってしまうのです。情緒的な絵画(これは素材的な絵画よりすぐれたものではありません)がこのようにして生まれたのでした。

そこで画家は「私はこの事物(もの)を愛している」という風にかいて、「ここにこれがある」というふうにはかいていないのです。後者の場合、もちろん画家はだれでも、自分がこの事物(もの)を愛したかどうかということを、自分でよく省みなければなりません。しかし、その愛はぜんぜん表には現さないのです。そして多くの人々は言うでしょう。そこには愛情などは少しもないのだと。そのくらい愛はあますところなく、創作の行為の中で消費されているのです。この名もない仕事のうちに愛を消費するということ、これからあのように純粋な事物(もの)が生まれてくるのですが、このことがあの老セザンヌの場合ほど成功した例はおそらくほかにはないでしょう。

彼の疑い深く、不きげんな、内的性質が、このことにおいて彼を支えていたのでした。彼はおそらくいかなる人に対しても、どんなに愛情をいだいていたにしても、もはやそれを示したことはないでしょう。けれどもその孤独な変わり者であることによって完成されたあの性向をもって、彼はいまや自然にさえも向かい、そのりんごへの愛をかみ殺しながら、それを画かれたりんごのなかにこめることができたのでした。これがいったいどんなことであるか、そしてわれわれがこのことを彼によって、どんなに体験するか、あなたはそれを想像することができるでしょうか。

(クララ・リルケ宛 1907年10月13日)


 「無我的」な観点からリルケや、セザンヌを観照する時、「愛の受肉化」について思わざるを得ない。我々人類はまだ、「愛」について語るほどに成熟もしていなければ、「私」を超えたものについての領域について、十全に表現するに至っていない。あるいは、知恵の木の実を食べた我々は、とある歴史の転換点で間違った道を歩み、堕落してしまったのではないだろうか、と。愛を声高に叫ぶことなく、愛を受肉化し、沈黙のまなざしの中に愛を宿せるような人類が現れたら、世界は真に変わるのかもしれない。仏陀の微笑は、一億年の未来の人類のそれであるのかもしれない。しかし、私たちはあまりにもがさつすぎ、あまりにも自己愛にすぎ、あまりにも真実から遠ざかってしまったのだ。ましてや、真実の中で生き、呼吸し、自らの身体を真実の表現として発展させることができる、などと誰が夢想できるだろうか。

しかし、恐るべき自我中心社会の中に生きる私たちは、今、様々な悲劇によって学ばされている。私たちの愛は、愛ではなかったのである。信仰は、神に至らなかったのである。悟りは、世界に満ち渡らなかったのである。

徹底した自我の否定、剥奪によってのみ、私たちは愛の中に生き、ともすれば愛の表現者として自らを高めることができる。この社会を否定した人間は、真摯であればあるほど必ず自我否定に行き着くことだろう。そして自我を否定し、破壊、脱落させた後に、愛の可能性についてほんの僅かに語る資格を持つのである。なぜなら、真の表現とは、内的感受のさらにその先にある受肉化に他ならないからである。

リルケは「無我」の詩人であった。彼は社会の中において孤独であったかもしれないが、誰よりもまっすぐに、迷うことなしに、人生においての行為がただそれだけしかないように、ストイックに愛の中に入り込もうとした。しかしそれは決して先天的、かつ運命的な性向ではなく、後天的、かつ意志的なものであった。彼は自ら詩人になろうとして、詩人そのものになったのである。だからこそ我々はその植物的とも言える地道で、純粋な、飽くなき創造の発展の中に、大きな可能性を持つことができるのだ。誰でも日々、自らを見つめ、味わい、余分なものを燃焼、浄化する中で無限の領域に入り込み、何かを汲み出し、自らの肉体の中に愛の形として宿す可能性を持つことができるのではないだろうか、と。

最後に、ぼくが最も好きな――そしておそらく最も有名な――彼の詩を紹介して、この稿を終えようと思う。


秋 

  木の葉が落ちる 落ちる 遠くからのように

  大空の遠い園生が枯れたように

  木の葉は否定の身ぶりで落ちる


  そして夜々には 重たい地球が

  あらゆる星の群から 寂寥のなかへ落ちる


  われわれはみんな落ちる この手も落ちる

  ほかをごらん 落下はすべてにあるのだ


  けれども ただひとり この落下を

  限りなくやさしく その両手に支えている者がある


  (リルケ 形象詩集-富士川英郎訳)