政治と芸術―ショスタコーヴィチの場合

高橋ヒロヤス  

他のあらゆる生活領域と同じく、芸術もまた同時代の社会状況と無縁でいることはできない。芸術家は時代に制約され、多かれ少なかれ政治に拘束される。そして、政治と芸術(音楽)との関わりを最も極端な形で示したのが、20世紀を代表する巨匠ドミトリー・ショスタコーヴィチ(1906-1975)の場合であろう。


少年時代からモーツアルトの再来かと言われるほどの神童で、誰もが認める音楽の天才であり、輝かしい未来が約束されていたショスタコーヴィチが、その創作活動のピークを迎えたのは、スターリンの恐怖政治下にあったソビエト連邦という社会であった。そこでは、国家権力(=スターリン)の意思に少しでも抵触するいかなる文化活動も禁じられていた。戯曲や小説は言うに及ばず、絵画や音楽といった抽象芸術においても、「社会主義リアリズム」を体現した作品を創ることが命じられていた。


ロシア革命後のアヴァンギャルドで革新的な芸術潮流に沿った自由な作曲活動を行っていた若きショスタコーヴィチは、ある日、党機関紙『プラウダ』の社説において「音楽の代わりの荒唐無稽」と題した記事による批判を受ける。当時のソ連で、党機関紙に名指しで攻撃されることは、死刑宣告に等しいものであり、その瞬間からショスタコーヴィッチが「人民の敵」となったことを意味していた。


その時彼の置かれた状況を、まがりなりにも「自由世界」に暮らす人々が正しく想像することは困難だろう。しかし、ここ現代日本社会において、日々さまざまな「権力」や「圧力」による制約を実感しながら生きている人であれば、多少努力すれば、あの背筋の凍るような感覚がいくらかでも理解できるかもしれない。


ショスタコーヴィチの直面した状況は、それまでのいかなる芸術家が経験したものよりも深刻なものであった。彼の親しい人々は、毎日のように彼の前から姿を消し、二度と戻ってこなかった。彼の妹の夫は、反政府活動のかどで投獄され、獄中で死んだ。彼を庇護していた戦争の英雄トハチェフスキー将軍は、反スターリン活動の企てを疑われ、銃殺された。ショスタコーヴィチには妻があり、もうすぐ生まれてくる子どもがいた。


ある日、ショスタコーヴィチは当局から呼び出され、KGBと呼ばれる“ある役所”に出頭するよう命じられた。役人は彼に、トハチェフスキーを知っているか、と尋ねた。彼は正直に知っていると答えた。それから、彼のある知人について尋ねた。彼が聞かれたことについて知らないと答えると、その役人は言った。「彼は反体制活動に関わっている疑いがある。今日は帰ってよろしい。後日、また出頭するときまでに思い出しておくように。」


彼の背中に冷たいものが走った。役人の言葉は、彼の友人がまもなく逮捕されること、そして、無実の罪のために友人を告発しない限り、彼もまた共に逮捕されるであろうことを示していた。


数日後、彼は指定された日に再び出頭した。ショスタコーヴィチは、家人に別れを告げて、役所に向かった。この家に戻ることは二度とあるまいと感じながら。


役所に着くと、ショスタコーヴィチは、前に彼を尋問した役人の名前を告げた。

受付の男は、リストをしばらくめくっていたが、「今、彼は不在だ。今日は会うことはできない」と言った。


家に帰ると、ショスタコーヴィチは、例の役人自身が、その前日に逮捕されていたことを知った。彼の逮捕が早まったことが、ショスタコーヴィチの命を救ったのであった。


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独ソ戦争中、ショスタコーヴィチは有名な『レニングラード交響曲(第7番)』を作曲する。ナチス侵略に抗し、史上最も過酷な市街戦と呼ばれた殲滅戦を闘っていたレニングラードの兵士・市民に捧げられたものであり、その初演は生放送でソ連全土のラジオから鳴り響いた。演奏したのは、このために戦場から一時帰還した若い音楽家たちであり、コンサートが終わると、彼らは再び戦場に向かい、その多くは二度と還らなかった。


一時期は「人民の敵」のレッテルを貼られながらも、『革命』と題されたドラマチックな第5交響曲により復権を果たし、何とか抹殺を免れたショスタコーヴィチであるが、彼はあの勇猛果敢・怒涛の最終楽章を、後に「強制された歓喜」であると語ったという。確かにその前の緩叙楽章(ラルゴ)の持つ恐ろしい深遠さから急転直下、異様なハイテンションかつ、ある種バカ騒ぎのようなフィナーレになるのは、いささか不自然な感じを受けなくもない。大真面目な顔で恐ろしく人を食ったオチ(?)を用意するショスタコーヴィチの諧謔精神は、彼の特殊なキャリアを通じて、さまざまな作品で登場する。


しかしそれ以上にふざけている(!)のは、このレニングラード第7番の第1楽章である。途中で、ラヴェルの『ボレロ』のパロディのように、同じ旋律が延々と繰り返されるのだが、これがなんとも間の抜けたフレーズなのだ(数年前、CMで「ち~ち~ん、ぷい、ぷい」と歌われ話題になったそうだ)。ボレロよろしくそのフレーズがだんだん盛り上がっていく様子も、なんだかとってつけたようなお囃子がいきなり入ったり、この曲の置かれた時代状況やさまざまな背景を抜きにして聞くと、思わず笑ってしまうような展開を見せる。


ショスタコーヴィチが確信犯である証拠として、なんとこのフレーズそのものが、ナチスの庇護を受けていた作曲家のオペラからの借用だということが明らかになっている。しかもその歌詞たるや、「居酒屋の女は祖国を忘れさせてくれる」と・・・。


(ちなみに、この曲をラジオで耳にしたバルトークは、「ショスタコーヴィチは不真面目だ!」と怒り、後に、このフレーズをさらにパロディ化して自作に引用している。)


当時この曲をラジオで聞いて感涙にむせんだ何百万ものロシア国民のどれほどがこのカラクリに気付いたというのだろう。おそらく誰もいまい。万一、共産党幹部に気付かれでもしたら、シベリア送り必至である。これはショスタコーヴィチが「歴史」に対して放った、一世一代の、命がけのギャグといってよいだろう(『革命』のフィナーレと並んで)。


しかし、ここで強調したいのは、言うまでもないことだが、ショスタコーヴィチは決して戦争の犠牲者である一般国民や、祖国のために戦い死んでいった若い兵士たちを愚弄したのではないということである。彼が憎み、密かに(かつ公に)愚弄したのは、戦争の前には粛清により無数の前途有望な人々の生を残忍に破壊し、戦争では無能さにより無数の貴重な人命を不必要に奪ったスターリンであり、彼が体現する無慈悲な国家権力そのものだったのである。


ショスタコーヴィチは後にこう語っている。


「当然、ファシズムはわたしに嫌悪を催させるが、ドイツ・ファシズムのみならず、いかなる形態のファシズムも不愉快である。…ヒトラーが犯罪者であることははっきりしているが、しかし、スターリンだって犯罪者なのだ。

 ヒトラーによって殺された人々に対して、わたしは果てしない心の痛みを覚えるが、それでも、スターリンの命令で非業の死をとげた人々に対しては、それにもまして心の痛みを覚えずにはいられない。拷問にかけられたり、銃殺されたり、餓死したすべての人々を思うと、わたしは胸がかきむしられる。ヒトラーとの戦争が始まる前に、わが国にはすでにそのような人が何百万といたのである。

 

 わたしの交響曲の大多数は墓碑である。わが国では、あまりにも多くの人々がいずことも知れぬ場所で死に、誰一人、その縁者ですら、彼らがどこに埋められたかを知らない。わたしの多くの友人の場合もそうである。…彼らの墓碑を立てられるのは音楽だけである。犠牲者の一人一人のために作品を書きたいと思うのだが、それは不可能なので、それゆえ、わたしは自分の音楽を彼ら全員に捧げるのである。」


(ちなみに、上記の引用は『ショスタコーヴィチの証言』からであるが、同書は偽書であり、作曲者自身の言葉を伝えていないという説もあることは承知している。しかし、この箇所はまぎれもなく作曲者自身の魂が感じられるし、普遍的な真実の響きがするので敢えて彼の言葉として引用する)


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戦争が終わり、ドイツは敗北した。ソ連は勝利し、勝利の功績はすべてスターリンに捧げられた。党は、あらゆる芸術家に、ソ連の偉大さ、共産主義の偉大さ、そして何よりもスターリンの偉大さを思う存分表現することを求めた。


ショスタコーヴィチの次作となる、第9番目の交響曲は、「指導者にして教師」スターリン元帥の偉大さを称える壮大なものとなるべきであった。過去の大作曲家はいずれも、第9番目の交響曲をそのキャリアの中で最も大規模で壮麗なものとしており、「赤いベートーヴェン」の創る「第九」もまたそれにふさわしい作品となるはずであった。


しかし、ここでまたもやショスタコーヴィチは万人の意表をつくことをやってのける。


彼の発表した「第九」は、軽妙であっさりとした、わずか30分にも満たない小品だったのである。スターリンを筆頭とする党幹部は、あまりの拍子抜けぶりに、あっけに取られた。


戦時中、第8交響曲があまりにも暗すぎるとして、すでに批判を浴びつつあったショスタコーヴィチは、第9交響曲発表の翌年、「ジダーノフ批判」により再び攻撃の的とされる。以後、スターリンが死ぬまで、彼が交響曲を発表することはなかった。


ショスタコーヴィチが音楽によって戦争を総括したのは、スターリンを称えることが期待された第9交響曲ではなく、戦争により犠牲となったあらゆるもの、戦争中に起こったあらゆる悲劇へのレクイエムとしての『ヴァイオリン協奏曲第1番』であった。この曲こそ、20世紀の生んだ不滅の作品であり、西洋音楽(クラシック)の生んだ最後の大傑作であろう。ショスタコーヴィチがそのすべての才能をかけて犠牲者を悼んだ、この曲の第3楽章(パッサカリア)以上に崇高で悲劇的な音楽は、おそらくこの時代背景なくしては人類に創造できなかったものであり、願わくは、これからも決して生み出してほしくないものである。


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唐突にショスタコーヴィチのことを書いたのは、ここにきてなぜかショスタコーヴィチの人生が他人事に思えないというのが大きな理由だ。


彼はスターリン体制と革命、世界大戦という特殊な時代状況を生きた。彼のような環境で活動を強いられた天才音楽家は、過去の巨匠の中に類を見ない。


その環境がきわめて特殊だったとはいえ、「きつい制約の中でいかに創造するか」という課題はすべての芸術家(のみならずあらゆる職業人)にとって普遍的な課題である。


確かに今の芸術家は政治的全体主義や、共産主義イデオロギーの束縛からは自由である。しかし、グローバリズムという名の、経済的全体主義によって厳しく拘束されている。人間から真の創造性を奪うという意味では、いずれも劣らぬ敵といってよい。


生命を削り取られるような環境の中、決して妥協せず、時には作品の中に隠れた意味を含ませながら、己の芸術を貫き通したショスタコーヴィチの音楽は、ソ連が消滅した後も、変わらぬ輝きを放っている。


私は芸術家ではないが、どんな苛酷な社会状況にあっても真の芸術(創造的仕事)は存在しうることを身をもって示してくれたショスタコーヴィッチに感謝しつつ、彼の音楽に耳を傾けたい。


最後に、お勧めのショスタコ作品をいくつか紹介。

普段クラシックを聴かない人でも好きになれるようなものを。


○24の前奏曲とフーガ

 ショスタコーヴィチのピアノ作品として最上のもの。バッハの有名な『平均律クラヴィーア』に倣って作られた。バッハのものに決して引けを取らない古典的な風格に加えて、現代人の感性に合う魅力的な作品が並んでいる。

キース・ジャレットのなかなかお洒落な(?)演奏を収めたCDが出ているが、アシュケーナージが弾いたものが聴きやすいだろう。


○ジャズ組曲

ショスタコというと難解で重いイメージがあるが、これはそんなイメージを粉砕するほど親しみやすくキャッチーな曲揃い。ジャズというよりは社交ダンスといったノリだが、彼が西側に生まれていれば商業音楽家として大成功したことは間違いなかろう。「ワルツ第2番」は、スタンリー・キューブリック監督の映画「アイズ・ワイド・シャット」で使用された。


○ピアノ五重奏曲ト短調

古典的でありながら現代的。これは本当に「かっこいい」音楽である。第Ⅰ楽章は何度聞いても高揚する。古今東西のピアノ五重奏曲の中でも出色のものではなかろうか。室内楽が好きな方には文句なくお勧め。


○交響曲第5番「革命」

第4楽章は『部長刑事』のテーマに使われていたそうだ。当時の観客は「わたしたちの聴きたかった音楽はこれだ!」と大感激し、初演は30分スタンディング・オベーションの拍手が鳴り止まなかったという。交響曲を最初に聞くならやはりこれで、その後に8番や10番のディープな世界に嵌っていくのがいいと思う。演奏はバーンスタイン指揮のものが評価が高い。


○弦楽四重奏曲第15番

ショスタコが死の直前に書いた、最後の弦楽四重奏曲。ひたすらに枯れた清澄な調べ。一種悟りの境地を示している。交響曲や弦楽四重奏を主な表現手段としたことなど、彼とベートーヴェンとの間に共通点は多い。

この曲は、ベートーヴェンの最後の弦楽四重奏に負けず劣らずの高みに達していると思う。