ムガタモリ

高橋ヒロヤス  

1 はじめに


かつては「密室芸」を得意とするアングラ芸人、今は「日本で一番テレビに出ている人」、森田一義(67)という男。「四半世紀、お昼の生放送の司会を務めて気が狂わないでいる」この人物は、一般には「タモリ」という名前で知られ、この国で知らぬ人とていない存在である。彼にとってはもはや「テレビこそが日常」であり、「普段の生活の方が演技」であるというのは本人の談だ。


森田がまったくの素人から日本有数の芸能人になるまでの軌跡は、もはや現代における神話のひとつである。九州で才能を持て余していた30代の森田が東京の文化人たちに劇的に見出され、「タモリ」へと変容していく経緯は、山下洋輔、筒井康隆、赤塚不二夫らの手によって伝説的な装いで語られている(ここでは詳述しないので、興味のある人はウィキペディアとかで調べて下さい)。


もしかしたら比較的若い人は、初期タモリが持っていた過激さやラジカルさを知らないかもしれない。「笑っていいとも」や「ミュージックステーション」で淡々とした司会ぶりを見せる最近のタモリしか知らない人にとっては、彼の生い立ちは意外に思われるかもしれない。知らない人は、今は入手困難なようだが、彼が出した二つのCD(「タモリ」、「タモリ2」)と、発売中止になった音源(「戦後日本歌謡史」現在某動画サイトで視聴可能)を是非聴いてみてほしい。


ここでは「芸人タモリ」について論じるのではなく、筆者がタモリに感じる「無我表現的なもの」について書いてみたいと思う(もっとも執筆の最大の動機は、「ムガタモリ」という言葉の響きがなんとなく面白かったというのが正直な所ではある)。


2 「偉そうに言うと『無』とかかな」~タモリの原体験


タモリは、その活動初期(1980年)に、松岡正剛との対談本『愛の傾向と対策』を出している。その内容が興味深い。


(少し話が逸れるが、この本を出版した工作舎は、松岡正剛が作った会社で、当時いろんな「ぶっ飛んだ」本を出版していた。その本の中の一つにP.D.ウスペンスキーの『超宇宙論』という翻訳本があり、後に自分が原文を翻訳する際、そのアクロバチックな翻訳の余りのトンデモぶりに驚愕したことがある。)


『愛の傾向と対策』では、タモリが珍しく正面から自己の原体験を語っており、少し長くなるが引用する。


(引用はじめ)


セイゴオ―今日、どうしても知りたいのは、なぜ、コトバに挑戦したかという一点に尽きるんだな。


タモリ―かんたんに言えば、理由はコトバに苦しめられたということでしょう。それと、コトバがあるから、よくものが見えないということがある。文化というのはコトバでしょ。文字というよりコトバです。ものを知るには、コトバでしかないということを何とか打破せんといかんと使命感に燃えましてね。


セイゴオ―苦しめられた経験とは?


タモリ―ものを知ろうとして、コトバを使うと、一向に知りえなくて、ますます遠くなったりする。それでおかしな方向へ行っちゃう。おかしいと思いながらも行くと、そこにシュールレアリスムなんかがあって、落ち込んだりする。何かものを見て、コトバにしたときは,もう知りたいものから離れている。


セイゴオ―そうね、最初にシンボル化が起こっていて、言語にするときは行きすぎか、わきに寄りすぎてしまってピシャッといかない。ぐるぐる廻る感じです。ヴィトゲンシュタインがそれを「コトバにはぼけたふちがある」と言った。


タモリ―純粋な意識というのがあるかどうかは知らないけど、まったく余計なものをはらって、じっと坐っているような状態があるとして、フッと窓の外を見ると木の葉が揺れる。風が吹くから揺れるんだけど、それがえらく不思議でもあり、こわくもあり、ありがたいってなことも言えるような瞬間がありますね。それを「不思議」と言ったときには、もう離れてしまっている感じがするんですよ。ほんとうは、まったく余計なもののない、コトバのない意識になりたいというのがボクにある。ところがどうしても意識のあるコトバがどんどん入ってきてしまう。それに腹が立った時期があるんスね、そのあと、コトバをどうするかというと崩すしかない。笑いものにして遊ぶということでこうなってきた。


セイゴオ―なるほどねェ。遊ばせていくしかない。・・・(略)


タモリ―さっきのボクの体験は浪人のときだった。はなれの部屋を使っていて、庭と石垣が両側にある。そこでジーッとしていて、この世に人間が出てきたとき、周りのものをどう見るのかと、一種の座禅のようなことをしていた。ある一瞬に、フッとそういうことになった。偉そうに言うと「無」とかかな。すると自分の手がすごく不思議だし、窓の方を見ると、ネズミモチの木がチラッと揺れた。それは感動的ですね。


セイゴオ― 一生に何回かありますね。


タモリ―もう、鮮烈に憶えています。


(引用おわり)


タモリの有名な似非外国語やハナモゲラ語などの芸を見ても分かるように、彼は「言葉以前のもの」に対する感性が異常に鋭い。言葉の意味以前の「響き」、「剥き出しの音」の中に、それを用いて世界に意味を付加する人間の営みの不思議さ、可笑しさ、仮構性を見る。それは彼が言葉による意味付けを剥ぎ取られた世界のリアルさを体験している(知っている)ことから来る。


3 「若者よ、実存のゼロ地点に立て!」~若者へのメッセージ


タモリは、ある番組の中で、若者に向けた講演を行うことになり、こんなことを語っている。


(以下の記述は、電子文芸誌「MATOGROSSO」所収の「タモリにとって『偽善』とは何か(てれびのスキマ)」の文章を元にさせていただきました)


まずタモリは、「自分とは何か」について、このように説く。


たとえば「会社の社長」「芸能人」「妻がいて子供が二人いる」といった自分自身の「状況」を横軸とし、「親は医者」「家系」「叔父が右翼の大物」「彼女が読者モデル」など、自分の周囲が持つ「事実」を縦軸とすると、この横軸と縦軸が交差したものが「自分」である。


「そうすると、自分というのはいったいなにか、絶対的な自分とはなにか、っていうと、わかんなくなってくるわけですね。それだけこういう、あやふやなものの中で自分が成り立っている」


そんな「自分」を成り立たせている横軸も縦軸も「余分なもの」であり、それを切り離した状態を、タモリは「実存のゼロ地点」と名付ける。


そしてタモリは「人間とは精神である。精神とは自由である。自由とは不安である」というキルケゴールの言葉を引用し、それを解説していく。


「自分でなにかを規定し、決定し、意義づけ、存在していかねばならないのが人間」であり、それが「自由」であるとすれば、そこには「不安」が伴うと。


この不安をなくすためには「自由」を誰かに預けた方がいい、と人間は考える。

「人間は、私に言わせれば『不自由になりたがっている』んですね」とタモリは言う。


だから人は、「家族を大切にする父親」であったり「どこどこの総務課長」であったりといった「役割」を与えられると、安心するのだ。


その「役割」の糸こそがシガラミである。それでも大人になれば、そのシガラミを無視することは不可能だ。


そこで、18歳から22歳位までの、もっともシガラミが少ない時期に、「実存のゼロ地点」を通過しなければならない、とタモリは若者に訴える。


「若者よ、シガラミを排除し、実存のゼロ地点に立て!」と。


それを経験しているのとしていないのとでは、大人になった後、腹の括り方や覚悟の仕方が違ってくるという。


タモリ自身は、大人になってからもシガラミを極端に嫌い、結婚披露宴や同窓会、クリスマスにバレンタインデー、年賀状といった、シガラミを象徴するような各種行事を徹底的に排除している。


そういえば数年前、シガラミによって出席したフジテレビのディレクターと女子アナの結婚披露宴で、予定調和な進行に耐えきれず新郎新婦の友人に突進して大暴れするタモリの姿がテレビで紹介されていた(「27時間テレビ」における「大日本アカン警察SP」)。


4 「私もあなたの数多くの作品の1つです」~赤塚不二夫とタモリのMUGA的人生観


最後に、タモリにとって恩人であり、芸人として師匠というものを持たなかった彼にとっての「師」ともいえる赤塚不二夫の葬儀で、彼が読みあげた弔辞を、全文引用する。正確にいえば、彼はこれを「読み上げた」のではなく、真っ白な巻物を前に即興で語ったのである。


これは、タモリが赤塚不二夫に仮託して語ったMUGA的人生哲学の見事な表現になっている。


(引用始め)


弔辞


 8月2日にあなたの訃報に接しました。6年間の長きにわたる闘病生活の中で、ほんのわずかではありますが回復に向かっていたのに、本当に残念です。


 われわれの世代は赤塚先生の作品に影響された第1世代といっていいでしょう。あなたの今までになかった作品や、その特異なキャラクター、私たち世代に強烈に受け入れられました。10代の終わりからわれわれの青春は赤塚不二夫一色でした。


 何年か過ぎ、私がお笑いの世界を目指して九州から上京して、歌舞伎町の裏の小さなバーでライブみたいなことをやっていた時に、あなたは突然私の眼前に現れました。その時のことは今でもはっきり覚えています。赤塚不二夫が来た。あれが赤塚不二夫だ。私を見ている。この突然の出来事で、重大なことに、私はあがることすらできませんでした。終わって私のところにやってきたあなたは、「君は面白い。お笑いの世界に入れ。8月の終わりに僕の番組があるからそれに出ろ。それまでは住むところがないから、私のマンションにいろ」と、こう言いました。自分の人生にも他人の人生にも影響を及ぼすような大きな決断を、この人はこの場でしたのです。それにも度肝を抜かれました。


 それから長い付き合いが始まりました。しばらくは毎日新宿の「ひとみ寿司」というところで夕方に集まっては深夜までどんちゃん騒ぎをし、いろんなネタを作りながら、あなたに教えを受けました。いろんなことを語ってくれました。お笑いのこと、映画のこと、絵画のこと。他のこともいろいろとあなたに学びました。あなたが私に言ってくれたことは、いまだに私にとって金言として心の中に残っています。そして仕事に生かしております。


 赤塚先生は本当に優しい方です。シャイな方です。麻雀をする時も、相手の振り込みであがると相手が機嫌を悪くするのを恐れて、ツモでしかあがりませんでした。あなたが麻雀で勝ったところを見たことがありません。その裏には強烈な反骨精神もありました。あなたはすべての人を快く受け入れました。そのためにだまされたことも数々あります。金銭的にも大きな打撃を受けたこともあります。しかし、あなたから後悔の言葉や相手を恨む言葉を聞いたことはありません。


 あなたは私の父のようであり、兄のようであり、そして時折見せるあの底抜けに無邪気な笑顔は、はるか年下の弟のようでもありました。あなたは生活すべてがギャグでした。たこちゃん(たこ八郎さん)の葬儀の時に、大きく笑いながらも目からはぼろぼろと涙がこぼれ落ち、出棺の時、たこちゃんの額をぴしゃりと叩いては、「この野郎、逝きやがった」と、また高笑いしながら大きな涙を流していました。あなたはギャグによって物事を動かしていったのです。


 あなたの考えはすべての出来事、存在をあるがままに前向きに肯定し、受け入れることです。それによって人間は、重苦しい陰の世界から解放され、軽やかになり、また、時間は前後関係を断ち放たれて、その時、その場が異様に明るく感じられます。この考えをあなたは見事に一言で言い表しています。すなわち、「これでいいのだ」と。


 今、2人で過ごしたいろんな出来事が、場面が、思い浮かんでいます。軽井沢で過ごした何度かの正月、伊豆での正月、そして海外への、あの珍道中。どれもが本当にこんな楽しいことがあっていいのかと思うばかりのすばらしい時間でした。最後になったのが京都五山の送り火です。あの時のあなたの柔和な笑顔は、お互いの労をねぎらっているようで、一生忘れることができません。


 あなたは今この会場のどこか片隅で、ちょっと高い所から、あぐらをかいて、ひじを付き、ニコニコと眺めていることでしょう。そして私に「おまえもお笑いやってるなら弔辞で笑わしてみろ」と言っているに違いありません。あなたにとって死も1つのギャグなのかもしれません。


 私は人生で初めて読む弔辞が、あなたへのものとは夢想だにしませんでした。私はあなたに生前お世話になりながら、一言もお礼を言ったことがありません。それは肉親以上の関係であるあなたとの間に、お礼を言う時に漂う他人行儀な雰囲気がたまらなかったのです。あなたも同じ考えだということを、他人を通じて知りました。しかし、今、お礼を言わせていただきます。赤塚先生、本当にお世話になりました。ありがとうございました。私もあなたの数多くの作品の1つです。合掌。


 平成20年8月7日、森田一義


(引用おわり)


5 タモリの「無」とたけしの「虚無」


最近、ビートたけし(北野武)の映画(初監督作品『その男、凶暴につき』)を初めてビデオで見た。それはひとつの映像表現として突出していたことは確かだが、画面から漂ってきたのは、「虚無」という感覚だった。


虚無と無我は違う。無我とは、あるがままの世界の受容を意味するが、虚無とは、対象を失った欲望を意味する。ここで「たけしはタモリほど無我になり切れていない」などと主張するのはあまりにナイーブすぎる。にしても、両者の本質的な違いは、たけしには「ブラタモリ」のような番組は作れないし、タモリには「その男、凶暴につき」のような映画は撮れない(主演できない)という事実の中に端的に示されている(もっとも、『その男』以降のたけしについては知らない。これから順番に見ていこうと思っている)。


参考文献:

『愛の傾向と対策』(松岡正剛との共著、1980)

『タモリだよ!』(平岡正明、1981)

クイック・ジャパン (Vol.41) タモリ特集

MATOGROSSO タモリにとって「偽善」とは何か(てれびのスキマ)