「遠野物語」と「新約聖書」に見る裸の神の表現
那智タケシ
「国内の山村にして遠野よりさらに深き所にはまた無数の山神山人の伝説あるべし。願わくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ。この書のごときは陳勝呉広(ちんしょうごこう)のみ」
有名な、「遠野物語」の冒頭の中の一文である。「平地人を戦慄せしめよ」このフレーズは一度聞いたら忘れられないが、そこには柳田国男のこの民俗学の源流にもなった不思議な書物への絶対的自信、信頼を感じることができる。
最近、ふとしたきっかけから「遠野物語」を読み直し、文字通り戦慄を覚えてしまった。とは言っても、これまで気づかなかった、この説話の表現形式それ自体に、驚き打たれたのだ。
「遠野物語」は実にシンプルな形式を持った文学作品である。そこにあるのは、岩手の山の奥にいた山人たちの怪しげだが、シンプルな息遣いであり、それに出会った朴訥な人々のこれまたシンプルな驚きが記されているだけであった。つまり、いつ、誰々がこういう奇怪なものを見て、驚いて逃げた、とか、打ち殺した、とか、病で死んでしまった、とか、事実のみが提示され、ピリオドが打たれている。幽霊を見て、驚いて三日後に死んだ。それ以上のものは何も書き記されていないのだ。
何の主観的説明もないし、観念も入り込まない。事実のみが提示される(柳田の手により事実が編集され、文学化された問題はまったく別である。ここで重要なのは文学形式の簡素さそのものなのだ)。それでいて、この物語の豊かさ、深さはどこからやってくるのか。素材の豊かさや、柳田の文語体を自由に操る文才もありこそすれ、そこにあるのは裸にされた事実のみである。にもかかわらず、恐ろしい深さを宿した文学になっている。その形式の簡素さと完璧な効果に、私は驚愕したのである。日本にも、こんなに優れた文学があったのか、と。
「裸の事実」だけを記し、一切の説明、解釈を捨て去ることで、我々はその不合理で不可解な物語の隙間から漂ってくるものを感じる。埋められなかった行間から、昔々の、異世界の暗闇が匂いたち、ゆらめき上がるのを肌で感じる。その時、我々は現代社会にいながら、一歩だけ、遠野物語の世界に足を踏み込んでいる。我々は、事実そのものではなく、その事実と事実の間にある、ほの暗い隙間に吸い寄せられる。そして、恐ろしい山人や、天狗や、山姥に囲まれていることに気づき、恍惚とした気分になる。例えば、こんな具合である。
「白望(しろみ)の山続きに離森というところあり。その小字に長者屋敷というは、全く無人の境なり。ここに行きて炭を焼く者ありき。或る夜その小屋の垂菰(たれこも)をかかげて、内を窺う者を見たり。髪を長く二つに分けて垂れたる女なり。このあたりにても深夜に女の叫び声を聞くことは珍しからず」
我々は、これと同じ効果を持つ作品をいくつか思い浮かべることができる。説話形式の前身たる今昔物語集はさておき、例えば、紀元前のローマの退廃の生活を描いたフェリーニのカルト映画「サテリコン」や、様々な仏説、そして聖書である。とりわけ新約聖書は、イエス・キリストが起こした奇跡の事実を淡々と述べているだけのように感じるが、西洋芸術の基礎として、爆発的なエネルギーを秘めた物語となっていることは言うまでもない。
イエス・キリストという受肉化した神が、この地上に光臨した。その神の子は、生きた、肉体を持つ、一人の男であり、具体的な身振りを持ち、人にこうやって話しかけ、病を治し、死人を生き返らせ、罪もないのに十字架にかけられて死に、三日後に復活した。これだけの事実が、どんな神聖な言葉や観念、神学的体系、深遠な哲学よりも、人々の魂を震えさせたのである。なぜなら、それは手に取れない曖昧なものではなく、とにもかくにも「事実」として記されていたからである。
柳田国男は、日露戦争の勝利で日本が高揚し、近代化に向けて突っ走る中で、忘れ去られた日本の闇の世界、つまり山に隠れて住んでいた山人と呼ばれる存在や、遠野の古き神々、妖怪、幽霊を救い出し、我々の前に列挙する。これが日本と言うものではないですか、こうした異界の者たちとの交流こそが、私たちの世界を豊かにし、意味あるものにしていたのではないですか、私たちはもっとも大事なものを忘れているのではないですか、と迫る。しかし、彼の様々な論文はさておき、この「遠野物語」ではただただ事実が語られるのみであり、そこには一切の主張も、メッセージも、解釈も、含まれていない。何一つ、彼は自分の言葉では訴えない。この物語の武器は、ただただ「事実」である。
しかし、事実とは何だろう? 実際にあったとされていることだろうか?
こうした説話的文学において、物語作者が「事実」として読者に提示するものは、実は、彼が最も大事だとしているものである。すなわち、彼は一切の主観を排して――いわば無我的な眼差しによって観念の贅肉や、くだらぬものを消し去り、浄化して――それでもなお残るものを提示する。まるで、この観念という不浄な液体で汚染された世界から、その液体のみを吸い上げ、真空にすることで裸の姿を復活させるように。そしてその真空世界に残った事実だけを提示すれば、彼が言いたいことのすべてがあり、いや、それ以上のものがある。彼はそれを知っている。それが優れた説話文学作者に共通する秘密である。つまり、作者は、「事実」として、彼の「神」を提示するのだ。
新約聖書の作者は、イエス・キリストという神の子を「事実」として書き記し、それだけで事足りることを知っている。なぜなら、肉体を持ったイエスこそが、この地上における神のあらわれそのものであり、余計な解釈は一切必要ないからだ。神学は、単なる後付にすぎない。ここにおいて、神はひとつの事実であり、事実は真実そのものである。しかし、その事実(すなわち神)に触れた人々の驚きや、憎しみ、裏切りもまた、神に出会った人々の裸の事実として書き記される。たった一つの事実を通して、つまり神の受肉化というありえない事実に対して、人々は常識を剥ぎ取られ、あるがままの、裸の人間として関係せざるを得ない。そして、そこに新たな事実が生まれ、波紋となって広がってゆく。
信じる者、奇跡を祈る者、軽蔑する者、嫉妬する者、裏切る者――あるがままを照らし出す光によって、これまでの安逸な日常性は破られ、新たな事実がバリエーションとして現れてくる。つまり、イエスであり、ペテロであり、マグダラのマリアであり、パリサイ人であり、ヘドロであり、ユダである。こうして、一つのあるがままの事実を前にして、あるがままの事実で対応せざるを得なくなった人々の関係性の中から神話が生まれる。
「遠野物語」では、山人たちは、当時の柳田にとって最も重要な「神」であった。いわば、日本本来の神であり、彼はその事実の強力な力を信じることによって、この説話文学を成立させてしまったのである。民俗学の原典となった学術書という見方はさておくとして、これは一つの信仰の書であることに違いない。山人の伝説を事実として捉え、淡々と書き記すことによって、彼は日本の淵に眠っていた神話を掘り起こしたのである。
我々は今、信じるに値する神(事実)を持っているだろうか? この事実だけを記せば、自分にとって最も重要なものすべてが表現されているのだ、という、神聖なものを持っているだろうか? もはや、山人たちはどこかに行ってしまった。宗教の神話は崩れ去った。一神教は、世界を分裂させた。ありとあらゆるイデオロギー、哲学、観念は幻想であった。我々は今、具体的な事実を求めている。事実の中に、この混沌とした世界を打ち砕き、生きるに値する新たな神を求めている。新たな光を求めている。
その事実は天から降ってくるのでも、山の中にいるのでもなく、今、あなたの目の前に存在しているのかもしれない。我々はただ、眼を見開けばよいだけなのだ。しかし、それが美しいものであれ、俗悪なものであれ、聖なるものであれ何であれ、様々な情報を次から次へと浴びせられ、曇った我々の瞳は、目の前の存在の中にある「裸の神」を見ることができなくなってしまった。我々を結びつけ、一つにするあの無形の力を失ってしまった。それゆえに我々は事実を離れ、観念世界に神と救いを構築せざるを得ない。ここに現代の悲劇のすべてがあるのである。
※参考書籍
「遠野物語 山の人生」柳田国男著(岩波文庫)
「聖書」(日本聖書協会)