霊的女優・イレーヌジャコブ論

《無我的観照》第3回

『トリコロール/赤の愛』クシシュトフ・キェシロフスキ監督

那智タケシ  

イレーヌ・ジャコブというフランスの女優をご存知だろうか。クシシュトフ・キェシロフスキ監督の『二人のベロニカ』や、『トリコロール/赤の愛』といったアーティスティックな映画を見たことのある方なら、「ああ、あのちょっと童顔のぼんやりした雰囲気の美人女優さんね」というイメージくらいはあるかもしれない。フランスの美人女優――そんなありきたりな定型句を超えたところに、彼女の演技者としてのレゾン・デートルはあり、キェシロフスキ監督も正しくそれを見抜いて彼女ありきの映画を撮った。それはすなわちキリスト教的な「愛」の形の具現化として、イレーヌ・ジャコブという存在それ自体を作品の中核に据えるという大胆かつ、シンプルな行為であった。


『トリコロール/赤の愛』においては、イレーヌ・ジャコブは女優でさえない。なぜなら、彼女に求められているのは「自我を揺れ動かす」意図的な演技ではなく、彼女の存在それ自体の美しさ、内面から溢れ出る「愛」そのものを露出させて、ただその場に立っていることだったからである。むしろ、巧妙な「自我」の抑揚など、この映画においては邪魔なのだ。そんなものは無意味であり、重要なのは一人の人間の中に言葉を発するまでもなく宿っている愛が、光の世界に滲み出て、事物の間に侵食するのをフィルムに焼き付けることなのである。


ハリウッドや韓流に象徴される現代的な商業映画、ドラマの画面を見てみればいい。泣き、笑い、怒り、情熱的に恋をする。俳優たちは、最大公約数の視聴者に向けて、自我を刺激する目まぐるしい演技を試みる。自我を刺激すること、退屈させないこと、それが職業俳優である彼らに課せられた義務であり、プロとしての業である。とにもかくにも、彼らはニーズに応えなくてはならない。視聴者に「安全な感情の刺激」という退屈から逃れるためのエンターテイメントを提供するために。


しかし、キェシロフスキは違う。彼は映画という表現媒体の可能性を信じている人間の末裔であった。映画というものが、他のジャンルにはない、特別な「何か」を表現できるツールであることの可能性に賭け、正しく努力することができる極めて優れた監督であった。また、文学は「人間の内部のものをそっくり表現できる作品が無数にある」が、映画は「まだほんの少ししかない」という芸術に対するまっとうな感性の持ち主でもあった。彼の言う文学とは、カフカであり、ドストエフスキーであり、カミュであった。キェシロフスキは自著で芸術観を語っている。


「この目標とは、私たちの内部にあるものをとらえることだが、それを映画化する方法はない、それに少しずつ近づけるだけだ。この目標は文学にとっての一大テーマだ。偉大な文学はその目標に近づいているばかりか、それを書き記すことのできる状態にある。(中略)カミュはそういう本を書いた。ドストエフスキーもそういう本を書いた。シェークスピアもそういう芝居を書いた。古代ギリシャの劇作家も、フォークナーも、カフカも…」


また、彼は映画というジャンルの限界と、それを超える僅かな可能性について興味深い発現をしている。


「文学はこれを達成できるが、映画はできない。手段がないからできないのだ。映画は十分に知的ではないのだ。そのため、十分に曖昧ではない。しかし、あまりに明晰すぎるあまり、同時に、あまりに曖昧すぎることになっている」


そして映画で奇跡を成し遂げた監督として、ベルイマンや、フェリーニ、タルコフスキー等の名を挙げ、自分はまだそこに辿り着いていないことを明言していた。


「私は自分の教えている映画監督の卵に口をすっぱくして説明している。映画でライターを点けるシーンがあれば、それはライターを点けたということで、ライターが点かなかったら、ライターが故障しているという意味だ、と。ほかのことを意味するわけがないし、将来になったら、その意味が変わるわけでもない。一万回のうち一回でも、それが何かほかの意味になるとすれば、誰かが奇跡を成し遂げたということだ。ウェルズは一度だけその奇跡を実行した。ここ数年でその奇跡をやり遂げた監督は全世界でたったの一人しかいない。タルコフスキーである。ベルイマンはこの奇跡を数回、やり遂げ、フェリーニも数回やり遂げた。これをやり遂げたのは、ほんの数人だ」


そして、この「奇才」と呼ばれ、カンヌを始めとする数々の映画賞を獲得してきたポーランドの男は、自らの才能を低く評価する。


「バカげた例で恐縮だが、私がライターというのは、ありのままを映すという映画の性質を指している。私が目標を持つとすれば、このありのままの状態から抜け出すことだ。私がこの目標を達成することはないだろう。これと同じように、人間の内部にあるものを表現してみせることもできないだろう。でも、私は今後も努力する。映画が本当に何かを達成するという意味であれば――少なくとも私にとってはそうだ――、誰かが映画の中に自分自身を発見するということだ」


にもかかわらず、彼の映画には、個人の自我を遥かに超えた、霊性が宿っている。彼が言うところの普遍的な「自己」がそこにある。誰もが、そこに真の「自分自身」を発見できるような空間が。彼は明らかに自分が何を撮るべきかを明晰に知っている稀有な監督の一人であり、そのオリジナリティは彼の尊敬する人々に及ばなくとも、その表現領域において共通の地点にまで確実に到達していた。


彼は、フィルムにフィルターを被せることを恐れなかった。『二人のベロニカ』のように温かな愛に満たされた空間であればヤマブキ色のフィルターを。『殺人に関する短いフィルム』では、冷淡な緑色のフィルターを使った。彼が表現したものは自我の葛藤、ぶつかり合いから生まれる「物語」ではなく、今、この瞬間にある「愛」の有無であった。愛があれば愛の顕現を表現する。愛がなければ、愛の不在を表現する。それが彼の唯一の尺度であった。このおそらくは極めて正しき尺度によって、彼の映画は日常性を超越し、霊的次元に世界を展開することができた。


キャリアの晩年、彼はイレーヌ・ジャコブという愛の女優と出会う。彼女は、何もする必要がなかった。愛を空間に染み渡らせる存在として、ただそこにいるだけでキェシロフスキの目標を生身の存在として達成していた。彼女を中心に据え、その存在から発せられる光によって、愛を喪失した人々が救われる物語。物語といえば、ただそれだけであった。視聴者を興奮させるような複雑なストーリーテリングの必要はないのだ。なぜなら、そこには愛憎劇の「愛」ではなく、霊的次元での「愛」を宿した存在が、しっかりと映しだされているのだから。最も重要な存在が、我々に微笑みかけているのだから。


『トリコロール/赤の愛』では、人間不信と愛の喪失の中で絶望的な人生を送り、電話の盗聴を趣味にしている老判事が、イレーヌ・ジャコブが扮する主人公に出会い、救われる。彼女が何かしたわけではない。ただ、慈愛に満ちた彼女の存在それ自体が、老判事にとっての救いであり、光だったのである。愛する人たちのために何ができるかと悩んでいるイレーヌに、彼はつぶやく。


「君が存在するだけでいい」


そう、存在するだけでいい。存在していること、ただそれだけで、この世界に救いになるような人がいる。私たちは、今、新たな次元に向かって飛翔すべき時なのかもしれない。


※参考文献

『キェシロフスキの世界』(河出書房出版)クシシュトフ・キェシロフスキ著/和久本みさ子訳