リアリズムと無我 ~~つげ義春インタビューを巡る雑感
高橋ヒロヤス
<つげ義春>と言えば、もはや生ける伝説と化した孤高の漫画家である。若い人は知らないかもしれないが、60年代に「ガロ」に発表した「ねじ式」や「ゲンセンカン主人」などの“芸術的”漫画が当時の全共闘世代に熱狂的に受け入れられたので、名前くらいは聞いたことがあるかもしれない。
彼は1970年代にも「ヨシボーの犯罪」や「外のふくらみ」などの、一種のシュールな悪夢を思わせる独特な作品を発表し、80年代にも、厭世的世界観を背景にした『無能の人』(後に竹中直人によって映画化された)などの佳作を発表したが、1987年に発表した作品『別離』を最後に、一切漫画作品を発表しなくなった。彼がその後どこで何をしているのか、再び活動することはあるのか、長らく謎に包まれていた。
そんな<つげ義春>が、今年(2014年)の『芸術新潮』1月号の「つげ義春特集号」で、実に久しぶりの、しかもかなり長文のインタビューに応じているのを、彼の作品をよく知る読者の誰もが驚いて読んだ。
つげの暗い作風や、ネガティブで世捨て人的な世界観からして、寡黙で、行間を必死に読み取ることを強いるインタビューかと思いきや、実に饒舌にいろんなことを語っているのにまた驚いた。相変わらず厭世的ではあるが、淡々、飄々としていて、いい意味で仙人のような印象を受けた。
しかもその内容が、意外なことに、<無我表現>という観点からも、なかなか興味深いものだったので、少し紹介してみたい。
(以下、「つげ義春インタビュー 芸術新潮2014年1月号」より引用)
「マンガは芸術じゃないと僕は思ってますが、まあそれはいいとして、どんな芸術でも、最終的に意味を排除するのが目標だと思っているんですよ。なので意味のない夢を下敷きにした一連の夢ものを描いたり夢日記をつけたりしていたんです。」
「夢は誰もが経験するように強烈なリアル感、リアリティがありますから、長年こだわっていたリアリティを追求するということで夢に関心を持ち、そこから自然にシュルレアリスム風の『ねじ式』が生まれたんです。」
(引用おわり)
『ねじ式』を初めとする、ストーリーを無視し、「意味」を排除したような作品は、まさに夢の世界だといえるが、つげはそこに「強烈なリアル感」を感じ、意味を排除するのが芸術の目標であるという考えのもとにリアリティを追求していたのだという。
興味深い発言だ。自分が漠然とつげの作品に感じていた印象を、作者自身が明快に解説してくれたことはなかなか感動的でさえあった。つげはさらに持論を展開していく。
(引用はじめ)
「自分の創作の基調はリアリズムだと思っているのですが、リアリズムは現実の事実に理想や幻想や主観などを加えず<あるがまま>に直視することで、そこに何か意味を求めるものではないです。あるがままとは解釈や意味づけをしない状態のことですから、すべてはただそのままに現前しているだけで無意味といえますね。」
「意味がないと物事は連関性が失われ、すべては脈絡がなくなり断片化し、時間も消え、それがまさに夢の世界であり、現実の無意味さを追求するシュール画が夢のようになるのは必然なのでしょう。現実も夢も無意味という点で一致するのでシュルレアリスムもリアリズムも目指している方向は同じではないかと思えるのです。」
(引用終わり)
つげの口から、「あるがまま」というキーワードが飛び出した。つげの考える「リアリズム」とは、「解釈や意味づけをしない」、「そのままに現前しているだけ」の世界を直視することであるという。そこに、「理想や幻想や主観」の入る余地はない。
『ねじ式』が「幻想や主観」を排した「そのままに現前しているだけ」の世界の描写であるとはとても思えないのだが、つげにとって、「意味を剥ぎ取られた世界」の無意味性を表現するのに、物事の連関性が失われ、すべては脈絡がなくなり断片化し、時間も消えた、夢の世界のような描写は必然であったのだろう。
さらに、「リアリズム」についての興味深い考察が続く。
(引用はじめ)
「ともかくリアリズムが好きですね。自分の主観による意味づけを排して、あるがままの現実に即して描くのが…。
でもあるがままに認識するのは不可能であることを西洋哲学は主張してますね。どのようにしても主観が入るわけですから。けれども自分が無我になり主観が消えると、あるがままに認識できるんじゃないかと思えるんです。仏教の考えがそうでしょう。 禅の道元は修行をするのは「自己」を忘れ無我になるためだと言っています。無我になって主観が消えると、世界はあるがままに現成すると。 だけど修行するヒマなどない普通の凡人でも夢の中では無我を経験できますね。」
(引用おわり)
遂に「無我」というキーワードが登場した。「無我になって主観が消えると、世界はあるがままに現成する」という道元の思想がつげの創作のバックボーンになっていたなどということを初めて知ったことは一種の衝撃であった。
自分がつげ義春の作品を読んで感じるのは、どんなに精緻を極めた作画や、悲しく暗いストーリーでも、「余計な力がまったく入っていない」ということだった。
たとえば、僕の好きな作品に『海辺の叙景』というのがある。訳ありそうな男と女が、海辺で静かに語り合い、女が雨の海を男が泳ぐ姿を眺めるというだけの、表面上はなんということもない話なのだが、そこに流れるそこはかとない緊張感、哀しみ、抒情、優しさといった、人間感情のさまざまな要素が、目に見えない静けさと激しさを同時に含みながら伝わってくる佳作である。
あるいはつげの抒情性を最も端的に示す『紅い花』という短編。旅情をかきたてる『ほんやら洞のべんさん』。殊更にドラマを提示することもなく、作品を鑑賞する上で邪魔になる作者の自我がまったく感じられないから、読後に深い余韻を残す。
「無我になって主観が消えると、世界はあるがままに現成する」、そのあるがままの世界を描くことがリアリズムだというつげ義春の漫画は、実は「無我表現」であったのかもしれない。
さらに、つげの「リアリズム論」はどんどん掘り下げられていく。
(引用はじめ)
「夢は眠ることによって目覚めているときの自己が消えて無我の状態ですね。すると文字通りの「無我夢中」になり、夢の中での状況を対象化したり意味づけや解釈をする余裕がなくなる。そのためすべてをモロに真に受けてしまい強烈なリアル感を覚えるのでしょう。対象化できないとすべては意味もなく現前しているだけになり、その無意味性に直面し感応することによってリアリティが感得されるのではないかと思えるのです。」
「この現実世界は本来あるがままで意味はないのに、そこを主観でもってさまざまに解釈し、意味づけをしてひとつの世界像を「創作」したわけでしょう。別の解釈をすればまた別の世界になる。ということは虚構の世界に過ぎない。しかし虚構では何の根拠もなく不安ですから「創世記神話」まで創作し、もっともらしくしているのではないですか。
歎異抄も含めて浄土教の説いている「浄土」とは、虚構に惑わされず事実を直視した世界のことでしょう。仏教の原点はリアリズムで釈迦は凄いリアリストだと思えますね。でも自分はキリストも好きなんです。」
「後のキリスト教団は嫌なんですけど、イエスの言葉は深いなあと思って。一例を挙げると、「貧しい人は幸いである、神の国はあなたがたのものだからである」という言葉に出会ったとき、直感ですぐ理解できたのですが、後年の研究では貧しい人とは「乞食」のことだったのですね。乞食は社会の仕組みからはずれ、関係としての自己から解放されています。自己意識も消えて、生も死も意識されることがなくなり、生きていることの不安も消える、その状態こそ神の国、天国ではないですかね。」
(引用終わり)
つげ義春の作品から、「仏教的無常観」を感じることはあっても、超越的な神を求める信仰性を感じることなどついぞなかったのだが、キリスト教への造詣も深いとは知らなかった。あるいは作品を描かなくなってからこちらの方面への関心が深まったのだろうか。
そして、「夢とリアリティ」を追求していたつげの創作の秘密が明かされる。
(引用はじめ)
「自分で一番よくできたと思っているのは「夢の散歩」という作品なんだけど、注目する人がほとんどいませんね。「夢の散歩」は偶然出会った男女が泥のぬかるみの中でいきなり性交をする話ですが、そうなるまでの二人の関係や必然的な理由などはぶいて、ただ唐突な場面を即物的に描写しただけなので意味がないんです。そうすると意味を排除したシュルレアリスムのように夢の世界に似た印象になりますね。現実もあるがままに直視すると無意味になりますが、夢はさらに無意味を実感させてくれるので、リアリティとは無意味によってもたらされるのではないかと考えているのです。
この作品のタイトルは「夢の」としていますけれど、こんな夢を見たわけではなく、リアリズムから発展してこんな風に…。でも駄目ですね、説明をするのが難しくて。」
「その後カフカを読むようになったら、やはり出来事の描写だけで意味がなく、同じ方法でやっていたんですね。でも、自分はカフカ流の漫画では食っていくことができないので、結局この虚構世界を超える意味でのリアリティから後退していきましたけれど … 」
(引用おわり)
80年代に発表した(彼の最後の作品群となった)『無能の人』や『海へ』、『別離』といった、私小説的、自伝的な作品は、つげ義春にとっては「リアリズム」からの後退を意味したのだった。これらの作品はそれはそれで味わいのあるもので、特に『無能の人』シリーズは個人的に好きな作品である。
インタビューでは、奥さんを癌で亡くした後、ノイローゼになって5年くらい精神科に通っていたこと、長引いたのは薬のせいで、通院をやめて薬をのまなくなったら治ったこと、現在は息子がひきこもりでその世話と家事に追われていることなど、プライベートに関する事情も明らかにされている。
漫画の新作はたぶん期待できないと思うが、つげ義春の語る「リアリズム論」は、今後も何かの機会にさらに突っ込んだ形で公表されることを望んでいる。