潜態論入門(自然科学篇) 第5回(最終回)

河野龍路  

素現象

●素現象

潜態とは現象を生む母体であることをここまで説明してきました。

そこで、潜態から生まれる最も単純な現象とは何か、ということが次なる問題として浮かび上がります。通常の科学においては「素粒子論」と呼ばれており、自然界の現象を分析していってその最小の単位である存在は何かを問う物理学の分野です。翻って潜態論では、潜態から生じる最も単純な現象は何かというように発想が逆になります。つまり潜態論では、素粒子論は到達点ではなく出発点なのです。それは、自然界が常にそこから発生しているからにほかなりません。

潜態から生まれる最も単純な現象を小田切は「素現象」と名付けました。

素粒子と呼ばない理由は、それが潜態という本質から生まれる現象であって、粒子という物質的側面はその一面に過ぎないからです。


結論から先に述べてしまうと、潜態から生まれる素現象とは

「収斂」「発散」「動移」「停滞」の四者です。

この四者は以下の対立的な二組に分けて考えられます。

収斂・発散

動移・停滞(あるいは拒動)


潜態と現象は別ものではないことはすでに述べました。

潜態とは現象の裏面であり、現象とは潜態の表面です。つまり潜態とは現象の原因となっている母体です。したがって「素現象」の原因もそこに求められるはずです。

潜態が非限定的、全体的なのに対し現象は、何らかの意味で限定的あるいは部分的になることにほかなりません。それを別の表現に換えると、ある「場所」に「収斂」する、という言い方ができます。宇宙に存在するものはすべて、ある「位置」に「集中的」になっていることからもそれは見て取れます。この収斂的素現象は、潜態論的記号で置き換えて理解することもできます。


潜態には融重と自閉という、現象を生み出す性質が内包されています。

先ず、現象とはこの二面性に内包されるものですから、それは素現象の性質に関連していると考えられます。

・・・・|X>,<X|  |A>,<A|  |B>,<B|・・・・


           <A|A>

上段の潜態が下段の現象として確認されるということは、潜態においてそのような作用が潜んでいることを意味します。無限定であった状態|A>,<A|がわたしたちの認識の対象となることで限定的な姿<A|A>になるということ。言い換えると、無限に広がっていた状態がある一点に「収斂」するということだといえます。すなわち潜態には特定の現象に「収斂」するという作用が素現象のひとつとして潜んでいると考えられるのです。

それとともに現象の半開性によって完全に収斂という性質に閉じることはできませんから、それを否定する性質を付随させていなければなりません。それは収斂という現象に閉じさせない潜態の融重の作用であり、収斂の反対の「発散」ととらえることができます。するとこの「収斂」とは反対の方向性を持つ「発散」という作用も素現象のひとつとして認めなくてはなりません。

この収斂的素現象はわたしたちが存在と呼んでいるものの基本的性質であることも理解できるかと思います。存在とは「そこ」に収斂する何ものかであるからです。「そこ」とはいわゆる「位置」のことですから、収斂とは「位置」的現象のことでもあります。わたしたちが認識上で確定する相対的な位置の原因となる性質だということです。

ところで「収斂」「発散」が、存在あるいは位置的な性質にかかわる素現象だとすれば、その両者と対立する方向性があることに気づきます。それはいわゆる「動く」「止まる」という運動にかかわる性質です。この「動」「止」という対立した性質は、存在にまつわる「収斂」「発散」とは異なる性質ですから、やはり潜態にその原因を潜ませていなくてはなりません。したがって「動」「止」も素現象となります(止は潜態論では拒動あるいは停滞とも呼ばれます)。またそれらも収斂・発散のときと同じく、おのおのが自己を否定する反対の性質もわずかながら伴っていなくてはならないことも重要です。

これらは詳しくは前回までの潜態論的記号法によって表示されなくてはなりませんが、いまかりに上記の素現象を以下のような潜態論的記号で略式表示しておきます。

収斂 <X|X>

発散 <O|O>

動移 <V|V>

停滞 <R|R>

潜態とは、少なくともこれら四者の融重からなるものであることがいえます。

これら素現象からすべての現象が誕生するということはすなわち、宇宙内のすべての現象に素現象の性質がまとわりついているということであり、大きく宇宙を見渡してみればその事実を納得できるはずです。

これら四種以外に、他にはもう最単純な素現象はありえません。なぜなら、これら四種の性質に対立する軸が見当たらないからです。


●素現象の経験的検証

以上は潜態論の理論による素現象の考察でしたが、素現象であることの観測的、経験的な証明も有力な手がかりとしてはずすことはできません。素現象がわたしたちの前にいかなる現象として姿を現すかということです。

それについての小田切の洞察を示すと以下のようになります。

・収斂(位置的素現象) <X|X> → 光子

・発散(非位置財的素現象)<O|O> → 熱子

・動移 <V|V> → 動子(中性電子)

・拒動 <R|R> → 拒動子(中性陽子)


●収斂(位置的素現象)→ 光子

この中で最もよく知られている現象は光子でしょう。

多くの生物は、眠りについているとき以外は光をたよりに生活しています。たよりにしているのはもっぱら自分自身や周囲の「位置」の確認です。この光による位置の確認ということが、光子が収斂的素現象であることの大きな証拠となります。小田切は端的に次のように述べています。


「既に知る如く光粒子には質量もなく電荷も無いから、投射せられた粒子が受ける作用は最も小さく単純である筈であり、実験上に於いても又その通りである。即ち光子は被投射粒子の位置決定のための最適任者でなくてはならない。この事は反射散乱した光粒子は被投射粒子の位置決定に役立つ情報以外に何者も妨害的要素を齎(もたら)さないだろう事も意味する。更に換言すれば位置以外の情報を齎す資格を具有しないとも云えよう。 

処で衝突とは状態と状態の干渉であるから、衝突して不変のまま光子が反射した場合被

衝突体は光子と同一の状態で一応飽和していたと見なければならない。何故ならば若し然らざる場合には干渉が活発で吸収等の起る可能性が強いからである。

この様な簡単な見解を通じても光子は位置在的状態即ち収斂性的個性の単独状態であろうことが推察せられ肯定せられる。」(科学解脱P86)


また小田切は、光がその光源の一点をたどれることも収斂の作用のあらわれと述べています。逆に一点に集めることができることもまたその性質のなせるわざかもしれません。

さて、光には収斂性とは裏腹に発散的性質を合わせ持っていることは注意を要します。光は発揚してやまない理由がどこにあるのか、とうことです。それは再三述べてきたように、現象の半開性により光子も自身に閉じきることがでず、その閉じきれない部分とは自身を否定する性質を現すはずで、収斂性の場合その反対は発散しかありません。したがって光は収斂性的な位置的な素現象であるにもかかわらず発散してやまないわけです。


●発散(非位置在的素現象) → 熱

発散的素現象の単独現象化は熱です。

熱が発散的に広がることは、わたしたちは太陽の恩恵や暖房でもって身をもって知っています。ただし光とは違ってその出所の一点はつきとめられません。

熱とは何か? 今の物理学では熱とは何か、本当のところは何かまだよくわかっていないのではないかと思われるふしがあります。原子分子の不規則な熱運動であるという説明もあれば、そうではなく熱運動が伝わるエネルギーの流れである、あるいはフォトンという素粒子がその実体であるという報告もあります。熱を工業的に利用する熱力学はともかく、熱の本質についていまだ明確な科学的実体は明らかになっていないのではないでしょうか。

しかし潜態論的には、この熱というのはつかみどころがない現象であるのが自然なことなのです。むしろこの合理的につかみどころのなさこそが熱が発散素現象の単独現象化であることを示唆していると考えられるのです。というのは、発散とは収斂とは逆に姿を消すことにほかならず、その正体はつかみがたいはずだからです。もし発散が完全に現象として閉じてしまったら、つまり観念的になってしまったら、それは「無」であることからもそのことが推察できます。


●動移、停滞

この両者の単独現象は現在のところ実験的には見つかっていません。また見つかりにくいものであることを小田切は指摘しています。ただし、この両者は存在一般にまとわりつくある重要な性質を担うことになります。それは「質量」です。

質量とは、物の動かしにくさの度合いのことです。したがって、「拒動」現象が主として質量の原因となることは明らかです。しかし「動移」もその反対の停滞の性質を引き連れているので、微量の質量の原因となります。ここから小田切はこの二者がもし実験的に発見された場合、次のような粒子となることを予測しています。

動移現象→中性電子

停滞現象→中性陽子

つまり動移的素現象は電子にほぼ等しい質量を有し電荷はない。停滞的素現象は陽子にほぼ等しい質量を有し電荷はない。

では現在の素粒子物理学において発見されている多くの粒子が持つプラスマイナスの電荷の原因は何かというと、収斂および発散がそれに当たります。

・収斂+動移→電子

・発散+停滞→陽子

となるわけです。

なぜ数多い素粒子の中で上記が電子、陽子であることがわかるかというと、それは電子と陽子が素粒子物理学でも安定粒子として扱われているからです。素現象の組み合わせからなる粒子は自然界全体の骨組みとなるものたちでなくてはなりませんから、安定であることがあらかじめ予想できるのです。もちろん、電子と陽子の質量比と陰陽両電荷も大きな証左になります。


●双調現象

ただし、上記の+は潜態における融重を表し、現象上の結合とはまったく異なることが最も重要です。いったん出来上がった素現象による結合ではないということです。二組の素現象が融重してできる新たな現象を双調現象、双調粒子と呼びます。

上記以外の送料粒子は次のものがあります。

・動移+停滞→中性子(電荷はなく質量がほぼ陽子と電子を加えたものに等しい)

・収斂+発散→中性微子(電荷はなく質量もなし)

・収斂+停滞→陰子(陰に帯電し質量が陽子にほぼ等しい、反陽子と呼ばれているもの)

・発散+動移→陽電子(陽に帯電し質量が電子にほぼ等しい)

合わせて双調粒子は全部で六種あることになり、すべて現在の物理学で存在が確認されています(陰子は小田切の命名)。

 

素現象とは潜態から直接現象化しているものだと定義できます。例えば水素原子は、いったん現象化した電子と陽子が現象上で結合してできたもので、素現象ではありません。


以上で「素現象」の説明を終え、潜態論の入門篇を閉じたいと思います。


●最後に

小田切の潜態論は素粒子論のみならず、原子核理論、化学反応論、生命論、そして文明論と多岐にわたるものですが、理論の核心部の簡単な解説ということでわたしが表現できるのはここまでです。しかし潜態論の基礎論が理解できれば、おのずから人間論社会論にまで道は通じているところに潜態論の特色があります。どうかわたしの入門などのような観念的な理解を超えて、潜態論の核心を学ばれ独自な道を切り拓いていっていただければ幸いです。

ここまでお読みいただいた読者の皆様に感謝いたします。


残念ながら、現在小田切の著作は絶版となっておりますので、小田切の文章に触れるには古書で手に入れるか国会図書館等をご利用いただくなどの方法しかありません。将来的に潜態論への関心が高まった場合には、また何らかの情報提供手段を講じなくてはなりません。