90歳のクリシュナムルティ
(ププル・ジャヤカールによる『クリシュナムルティ伝』より)
抄訳:高橋ヒロヤス
※「高齢社会」というテーマにちなんだというわけでもないが、95歳まで生きて亡くなったクリシュナムルティの、90歳の頃の姿を描いた本邦未訳の資料を抄訳してみたので紹介したい。
90歳のクリシュナムルティの一日は、過去40年間と少し違っていた。インドでは、彼は日の出とともに目覚めた。ベッドに横になり、身体のすべての感覚が目覚め、一つの思考も起こらなかった。朝はヨガを行うことで始めた。プラナヤマという呼吸法を35分間行い、アサーナを45分間行った。アサーナは肉体行法で、肉体、神経、筋肉、表皮を形成する細胞を調整して自然に調和した呼吸を可能にする。
8時に、果物、トースト、バター、小麦の朝食を取る。南インドの料理も出された。朝食には近しい人たちが集まって、教育、学校、意識、人間の堕落、コンピュータや人工知能などについて議論した。彼は国際ニュースやインド国内のニュースを求めた。議論の間にも秩序ある静かな雰囲気が浸透していた。
朝に対話の集会を開くときは、朝食は短時間だった。再び会う約束をして別れ、9時半から小グループのミーティングが行われた。対話は11時まで続き、終わると特別な問題を抱えた人たちが彼と個人的に話ができた。ときどき数分間彼らを自室に連れて行くこともあった。グループ討議がないときは、側近たちとの会話が2,3時間続いた。強烈な洞察が伴うこともあった。
11時半に自室に行き、30分ほど横になって雑誌(エコノミスト、タイム、ニューズウィーク)や写真集(木や自然、鳥や動物)や小説(ミステリー)を読んだ。彼は硬い真面目な本はほとんど読まなかったが、世界情勢や科学技術の進歩、人間の堕落については非常によく知っていた。正午には、オイル・マッサージを受け、非常に熱い風呂に入った。昼食は1時。インド料理、揚げ物はなし、甘いものもなし。辛いピックルが好きで、ほんの少し食べるのを自分に許していた。昼食でも議論は行われ、しばしばゲストが招かれた。キリスト教や共産主義をネタにした笑い話をよく披露したが、まったく悪意はなかった。知らないゲストが来ると内気になり喋らなくなるので、誰かが沈黙を埋めないといけなかった。
いろいろなゲストが来た。修行僧たちが長い巡礼をして1年前から正確な日時を決めてKに面会しに来た。彼らは非常に厳格な戒律に従っていた。息を吸うときに微生物を殺さないようにマスクをし、女性と同じ絨毯に座ることを拒んだ。Kは彼らにとても同情的だった。ある年から急に来なくなった僧たちがいた。たぶん教団の長に危険人物との面会を禁止されたのかもしれない。
昼食の後、休息。4時ころから再び人に会った。盲人や、子を失った母や、人生の目的を見失った若者がKの元に来た。盲人の目に手を当て、母親の手を握り、若者と対話した。
Kは1970年代後半から人に会うのを控えてきたが、90歳から再び誰とでも会うようになった。彼は決してドアを閉ざさなかった。幻覚にとりつかれた人や、宇宙人と交信していると主張する人や、悲観に暮れる夫人や、若者、老人、盲人など。彼は忙しいとか疲れたといって彼らに会わないことは決してなかった。
日没の頃、散歩に出かけた。90歳でも足取りはしっかりしていて、背筋はぴんと伸びていた。友人やその子どもたち、孫たちが一緒に歩いた。ときどき小さな子供たちと手をつないで、歩きながら笑い合った。3マイル歩いた。大地や木々を呼吸し、遠い響きに耳を傾けた。会話はほとんどなかった。ときどき一人で歩くことを好み、そんなときは精神がどこか遠くに行ってしまったようだった。歩いている間には、ひとかけらの思考も起こらないと言っていた。
家に戻って手足を洗い、プラナヤマ(呼吸法)を行った。軽い夕食―サラダ、果物、ナッツ、スープ、野菜を取った。めったにないことだったが、夕食の席で数人の友人たちを相手に、精神の向こう側にある永遠性についてほのめかした。そのときには教師のような身ぶりになった。声が変わり、力とエネルギーに満たされた。沈黙が部屋を圧倒した。
彼はどんな批判でも聞きたがった。あるとき、同じ家に滞在していた時、彼が苛々しているように見えたので、そう伝えると、彼は答えず、別の話題に移った。夕食のとき、彼は私に向かって、「あなたは私が苛々していると言ったね。午後、私は自分に問うた。『私は苛々しているのか? それは人に依存しているためだろうか?』すると突然分かった。答えを求めることは苛々を精神の土壌に根付かせることになる。それで終わった。もう苛々することはないだろう。私は自分の身体、自分の精神のすべてを観察し、耳を傾け、苛々のいかなる痕跡も残さず根絶やしにした。」
彼は河川が好きだった。ある講話の中でこんな風に言った。「川には始まりがあり、終わりがあるかもしれない。しかし始まりは川ではなく、終わりも川ではない。その中間の流れが川なのだ。村や町を通り抜け、すべてがその中に流れ込む。いろいろな汚れやごみが投げ入れられても、数マイル先では浄化され再びきれいになる。川の中には魚や生命が生き、人間はその水を飲んだり利用したりする。それが川だ。その背後には強烈な水圧があり、それで自らを浄化するのだ。無垢な精神はこの川のようなものだ。そこには始まりもなく終わりもない―時間は存在しない。」
彼はエネルギーを無駄にしなかった。歩くとき、話すとき、靴を磨いたり、道端の石を持ち上げて脇にどけたりするときにも。年老いるにつれて、彼の手の震えはひどくなった。騒音や環境汚染に彼の非常に繊細な肉体は反応した。正体不明の病気になることもあった。彼はしばしば自分自身を治癒した。
彼は木や岩や大地の自然の音に敏感だった。樹木の中で響いている音を聞き取ることができた。動物や鳥は彼を信頼していた。彼が一人で庭にいる時、鳥に餌をあげていると、鳥が肩に上ってきた。
10時半には就寝。眠りに落ちる直前、一日の出来事と行動が彼の精神を通過する。一瞬のうちに、昼と夜の出来事とすべての昨日が消える。彼は鳥のように体を折り曲げて寝た。突然起こされることを好まなかった。夢を見ることはほとんどなかった。ベッドから起きると、シーツにはほとんど皺はなかった。
彼は薬草治療やアーユルヴェーダの治療を受け入れた。現代医学の薬は使おうとしなかった。彼の食べ物の好みは変わっていた。ミルクとオレンジ・ジュースを混ぜたり、ミルクを断ったときもあった。生の食材だけで過ごしたこともあった。友人たちはKのそんな気まぐれを微笑ましく見守っていた。彼は誰かが跪いて自分の足に触れることを許さなかった。もしそうしたら、今度は彼が跪いてその人の足に触れた。
公開の集会には時には7千人もの人が来た。彼は人々に囲まれながら登壇したが、身体には触れさせなかった。講話が始まると、背筋はまっすぐに伸び、声ははっきりとして、両手は膝の上に乗せ、ときどき象徴的な動きをした。2時間近く、聴衆はほとんど身動きもせず沈黙していた。講話が終わると、数分間そのまま座り続け、最後に合掌した。聴衆が彼に押し寄せてきた。Kの身体は彼を通して流れたエネルギーで震えていた。彼は両手を差し出して、触れることができた人に手を握らせた。
彼のそばで親密に過ごすことはいつも大変だった。彼はいわば激しく燃え立っていて、側近の肉体が彼の存在に慣れるには時間が必要だった。友人たちに質問を浴びせ、注意力と観察力を求めた。彼らが周囲の人々や言葉に強く反応するかどうかをKは注意深く見ていた。退廃的な精神の持ち主が彼の周囲で過ごすことは不可能だった。大量のエネルギーが流れていたので、その一部になるか、居場所を失うかのどちらかだった。
彼の肉体は弱っても、精神はまったく衰えなかった。年を取るにつれて無尽蔵のエネルギーが彼を通して流れるようになったとKは言った。緊急性が増しているのだと。
90歳になってもKは世界中を旅して講話を続けた。目覚めた、明晰な精神の持ち主を求めていた。1980年に彼は私に、話すのを止めたときに彼の肉体は死ぬだろうと語った。この肉体には、教えを明らかにするというたった一つの目的しかないのだ、と。