クリシュナムルティ解読 第8章(加筆・改稿版)
那智タケシ
「私」はマネージャーになることを望み
次にはオーナーになりたいと思う
何かになりたいと思う欲望にかりたてられるとき
矛盾が生まれる
私たちは今、誰もが自らを価値ある存在として他者や、社会から認められ、尊敬され、愛されることを求めて生きています。その手段として「なりたい自分」「愛される自分」というセルフイメージや、憧れの職業を目指して努力をしているわけですが、それは形を変えた動物の自己保存本能そのものであり、この厳しい競争社会を生き抜くための必然的で、自然な現象そのものであるので、決して単純に否定されるべきものでもないでしょう。しかし、一つだけ動物のそれと異なるところがあるとすれば、そこには自然現象から分離した、思考の産物である「観念」が付随している、ということです。
「あるべき」を追いかけつづけるという生のあり方は、理想のセルフイメージと一致しようとする欲望を原動力にしています。しかし、「理想」というのは、一つのイメージであり、観念であって「事実」ではありませんから、必然の因果の流れの中にある自然現象とは異なり、不自然な観念の構築物である、と言えます。すなわち、私たち現代人の心には常にこの「観念」が付随しているが故に、いつも「事実」と「理想」の間で分裂している状態にある、と言えるかもしれません。この自己矛盾したあり方について、Kは次のように端的な表現をします。
『私たちの心の中には絶えず否定と自己主張――つまりこうありたい自分と、実際の自分――が存在しているのです。このような矛盾の状態が対立を生みだすのですが、この対立からは決して平和は生まれてまいりません。これは単純明快な事実です。』(p.88)
そして、次のような解決策を示します。
『それではここで、私たちが今置かれている状態を明確にしておきましょう。まず、矛盾があります。それゆえ、必ず闘争が生じます。そして闘争は破壊であり消耗だということなのです。こういう状態の中では、敵対や闘争や、また一層過酷(かこく)な苦しみや悲しみ以外に、私たちは何ものも生みだすことができないのです。そこで、もし私たちがこの問題を完全に理解し、この矛盾から自由になることができれば、そのとき私たちは心の平和を得ることができ、それが私たち相互の理解をもたらすことになるのです。』(P.89)
つまり、この「あるがままの真実」から遊離して「あるべき理想」を目指し続ける、という私たちの中に内在する心理的矛盾を見つめ、それが矛盾と葛藤の温床となっていることを理解し、根本的に解消してしまえば、人は幸福に、生き生きと、自分らしく生きていくことができる、ということです。そしてまた、矛盾から自由になった人々が繋がり合い、触れ合い、関係し合うことによって、新しい社会のあり方も可能になる、ということです。
単純に言ってしまえば、人は「あるがまま」であれば真実であり、幸福なのです。これは“幸福感〟とは違います。この場合の幸福とは、他者よりも成功し、優れているから気持ちいい、といった優越感でもなければ、恋人との特別な時間や、家族団らんのそれとも異なります。また、ある種の宗教的で、神秘的な恍惚感に留まったり、一体化することとも違います。この場合の幸福とは、ポジティブだったり、感情が高揚したり、平安だったりする、〝心地良い状態〟ではないのです。それは真実と共にあることの充足感であり、満たされた身心のあり方なのです。つまり、自己矛盾がないことによって、あなたは自然の現象の一部となり、また、自然の創造的エネルギーと繋がった充足的状態になっている、ということです。
ですから――これは奇妙な表現ですが――、たとえ不幸な状況にあっても、人は幸福であることができるわけです。たとえネガティブな感情が生じた状態であったとしても、人は幸福であることができるのです。なぜなら、自らが「あるがまま」の自然現象そのものであるとき、その感情が因果の関係から生まれた必然の波のようなものであり、過ぎ去ってしまうものであることを知っているからです。そして心地良い感情もまた、因果の関係から生まれた必然の波のようなものであり、過ぎ去ってしまうことを知っているからです。
ポジティブな状態であっても、ネガティブな状態であっても、それが過ぎ去ることを知っている。自らの内部に何ものも留まることなく、一切が因果のもたらした束の間の現象であり、空であることを知っている。そうした認識がある故に、一切の感情に執着せず、心を揺らさずに生きることができる――それが安心立命の境地です。こうしたあり方は、生きる上での自信にもなります。なぜなら、そういう人には絶望というものがないからです。
特別であろう、とする頑なで、自己中心的な自我を中核に置かず、ただ「あるがまま」であること――これは端的に言えば、自然の一部となっている、ということです。自分を高く見せようとしたり、偽ったり、虚飾をまとって振る舞ったりすることなく、良い状態であっても、悪い状態であっても、仮にみっともない感情が生じたとしても、自分の「あるがまま」を素直に受け入れ、他者に向かってそれを隠すことなく表現できるようになれば、その人は自然の一部となっているのです。そうやって自らを表現していると、いつ何時も、真実から離れることがなくなっていきます。
すると自己矛盾がなくなりますから、真実に基づいたあり方が可能になり、心が揺れにくくなります。自ら裸の自分で振る舞えるようになるので、他者から否定されるのでは、傷つけられるのでは、という恐怖や葛藤を持つこともなくなります。つまり、ある意味では、幸福になっているわけです。
こうした真実の自己認識と自己表現に基づいて生活してゆくことによって自我から余分なものを落とし、あるいは解放してゆくと、自らの自我が自然の一つの機能であり、現象の一部であり、自らが世界そのものであった、という認識の一大転換=いわゆる「悟り」と言われるものの見方を獲得することができるかもしれません。トラウマと愛着に基づいて構成された強固な自我の中核をとことんまで解体し、一旦は空にすることによって――。
しかし、ここで注意しておくべきことは、「悟る」とか「悟っていない」とかではなく、真実と共にあり、それを表現することであって、「悟り」をゴールとみなして修行したり、目指すことではない、ということです。それは一方通行の道ではないのです。あるいは、登山でもありません。そうした頂点を目指す直線的構図は、人に「まだそれに到っていない」という葛藤や、「悟りを目指して真剣に修行している特別な自分」という強固な自我を生み出し、再び「あるがまま」と「あるべき」の分離を生み出してしまう、という自己矛盾をはらんでいます。
確かに、「悟り」とは、世界の成り立ちの構造を見抜くことです。実存的な基底において、自らが「世界」であることを知っていて、矛盾のない生を生きることです。そうした認識を持っている人が世間の片隅に少人数でもいるに、こしたことはありません。しかし、そうした認識それ自体は我々の上にある価値ではなく、目指すべきものでもなく、一つの認識に過ぎない、ということです(自らを救い、人を救おうと真剣に志す仏教徒なら、そこに特別な価値を見出すことに何らかの意味があるのかもしれませんが)。それは人生のゴールでも、至上の価値でもなく、単なる一つの役割なのです。ビルの構造を知り、設計図を描くことができる人がいても、彼が、その建物の一室を借りて住んだり、商売をしている人よりも偉いわけではありません。彼は、ビルの構造について人より知っているかもしれませんし、何かの役に立つことはあるかもしれませんが、他の誰かより特別に秀でているわけではない、ということです。
すなわち、俗世を生きる私たちにとって真に価値あるものとは、真実に基づいたあり方であり、表現であり、すなわち、愛の実践なのです。この現象世界の関係性の中で、他者や、自然に対してどのように振る舞い、何をするか、ということにおいてのみ、その人の真価は計られるべきなのです。誰に、どうやって手を差し伸べ、どんな風に微笑みかけるか、ということによってのみ。
しかし、逆説的には、そうしたことを――悟ることそれ自体に価値があるのではない、ということを――悟り人は明晰に知っているのです。そこに「特別」の定点を認めることが、この等価的世界の構造それ自体に相反したものであることを彼は理解しているので、大抵の場合――ある種の役割として、そうした表現不可能なものを無理やりにでも表現することを運命付けられた一部の人たちを除き――、沈黙し、黙々と暮らしているわけです。
さて、私たちの自我を自我たらしめている「あるがまま」から「あるべき」への終わりなき欲望――この強固な条件づけは、経済的成功を追い求める社会生活の中のみならず、いわゆる「精神世界」と言われるような一見、欲望から遠く離れているように見える世界にも当たり前のように浸透し、蔓延しています。むしろ、こうした世界にいる人の方が偽善や欺瞞、「特別な私」という錯覚が入り込みやすい分、強固で、厄介な自我を持ってしまうケースが多いのです。ですから、こうした世界に対するKの言葉には、次のような辛辣で、容赦のない表現が目立ちます(おそらく、周囲にその手の人々が多く集まっていたからでしょう)。
『たとえば、私は仕事を見つけたいと思います。つまり、自分の幸福の手段として、一つの仕事を求めるのです。そして仕事を得ると私は不満を覚えるのです。私はマネージャーになることを望み、次にはオーナーになりたいと思うのです。しかも現実の世界だけではなく、いわゆる精神世界でも事情は同じなのです。教師は校長に、牧師は司教に、生徒は先生になることを望んでいるのです。』(p.90-91)
『あなたは何かに到達したり、成功することを望んでいます。また、永久的な満足を与えてくれるような、究極の神とか、真理を発見することを望んでいます。従って本当は、あなたは真理や神を求めているのではないのです。あなたは持続する満足を求めているのであって、その満足を神とか真理というような観念や、体裁の良い言葉で覆っているだけなのです。実際は、私たちは誰でも満足を求めているものなのです。そしてその満足や喜びを「神」と名づけて最高位に祭り上げ、最下位には「酒」がくるといった次第なのです。精神が満足を求めている間は、神も酒も大差はないのです。』(p.92)
つまり、俗世で「あるべき」に至れなかったから、精神世界で「あるべき」に至ろうとする、あるいは「至った」と思い込む――そんな逃避的で、自己欺瞞的な、自我の強い人が満ちているのが今、精神世界と言われている業界の実情と言えます。彼らの多くは、自分は「特別だ」と宣言して、スピリチュアルなビジネスで成功することを目指しています(もちろん、こうした業界にも良心的で、無我的な人がいるのもわかります)。一見、高尚に見える世界でも、迷い、悩んでいる人たちに「特別」「悟り」「成功」という幻想を与え、「あるがまま」から「あるべき」への新たな目標と葛藤を与え、そうしたビジネスで成功しようと競争し合っているわけですから、資本主義的な自我の競争と何ら変わりはありません。
それどころか、ある種の固定的イメージ・観念を「平安の境地」「悟り」と謳ったり、そこに留まる訓練を推奨することは人の精神を限定付けるリスクを与える分、より罪深い、とも言えるのです(多くの人は、そのリスクに気づいていません)。と言うのも、一つの境地に留まったり、ある定型の境地をゴールとする世界観は、一人ひとりの人間が持つ「あるがまま」に基づいた創造性や、この世界の無限性、未知なる意外性といったものに繋がることを剥奪してしまいかねない、という危険性を伴うからです。それはカルト的な団体や、新興宗教における一人の教祖や、カリスマへの一体化や盲信、あるいは、ネットに蔓延する陰謀論などが特定の傾向性がある観念によって人を洗脳し、個人の精神の自由と創造性を奪い、画一化し、機械化してしまっている現状を見れば、はっきりと理解できることではないでしょうか。人の心の自由と独自な創造性の剥奪――これは最大の暴力の一つであることは言うまでもありません。
結局、人は自分自身の真の姿に直面することによってしか、自分自身を根本的に変容させることはできません。自分を変えることのできるのは、教祖や聖者ではなく、聖典でも、宗教団体でもなく、陰謀論のような特定の傾向性がある情報でもなく、自分だけです。松葉杖はもう、いりません。赤ん坊が二本の足で初めて大地に立つ瞬間のように、私たちもまた自分の足でこそ立ち上がり、新たな道を歩き出すべき時代がやってきたのです。
頭の中のおしゃべりをやめ、時間の中での夢想との戯れを卒業し、「あるべき」を求めつづけることによる葛藤から自由になるためには、瞬間、瞬間の「あるがまま」の自我の働きそれ自体を正確に見つめる「自己認識」が必要になります。この自己認識を土台にしてこそ、人は揺らぐことなく、真実の、「あるがまま」の自分自身を表現し、素直に、自分らしく生きてゆくことができるようになるのです。
Kの言葉を引用し、終わります。
『こういうわけで、思考の様式が存在するかぎり、矛盾は続くのです。ですから思考の様式と矛盾を終息させるためには、どうしても自己認識がなくてはならないのです。このような自己の理解は、必ずしもかぎられた少数者だけの占有物ではありません。自己というものは、私たちの日常の会話の中や、私たちの物の考え方や感じ方の中や、あるいは私たちが他の人々を見る態度の中で理解できるのです。もし私たちが刻々に私たちのあらゆる思考や感情を知ることができれば、そのとき、自他の関係の中で自己の働き方や特徴が理解されるという意味が分かることでしょう。そのようなときにのみ、あの精神の静寂の可能性が生まれるのです。そしてこの静寂の中にだけ、究極の「真の実在」が誕生しうるのです。』(p.95-96)