第1章 はじめに あるがままのものを、あるがままに見よ

那智タケシ  

今回から、クリシュナムルティの『自我の終焉』を自分なりの言葉で解読していってみたいと思います。と言うのも、メンタルヘルスの問題や、ナショナリズム、洗脳的情報、「あるべき」を人に求めさせ続ける常識といった、混乱した現代の様々な事象を省みるに、「あるがまま」をあるがままに見るということから始まる彼の哲学が、それらの問題を解決、解消するにあたって、非常に有効であるように改めて感じられるからです。

 クリシュナムルティは一見、難解でとっつきにくく、頭では何となく理解できても、実行することは不可能であるとか、難しいとか、言われて敬遠されることがありますが、決してそうではありません。彼は、非常にシンプルなことを語り続けた人です。それは今すぐにでも、誰にでも実行可能なことです。

 ただ、瞬間、瞬間、あるがままの自我の働きをひたすら正確に見つめて、それ(あるがままの働き)以外には何もない(それを観ていて、どうにかしようとしている自我という中核がなく、働きのみがある)ということを知れば、「あるがまま」と「あるべき」の間の矛盾がなくなり、その葛藤によって消費されていたエネルギーのロスがなくなって、「あるがまま」が変容するということです。もしもあなたが「あるがまま」そのものであれば、葛藤は終わってしまうし、終わらざるを得ないのです。それでは、クリシュナムルティの言葉を引用して、解読していきます。

『さて、私たち人間はあらゆるものを、あるがままに知ることができないのでしょうか。もし「あるがままに知る」という原点から出発すれば、必ず理解が生まれてくるはずです。あるがままのものを認識し、自覚し、理解することで、心の戦い――葛藤は終わってしまうはずです。  たとえば、「私は嘘つきであるということを知り、その事実を認めてしまえば、それで葛藤は終わりなのです。あるがままの自分を認めて自覚することが、すでに知恵と理解のはじまりであり、それによって「時間」からも解放されることになるのです。この「時間」というのは、時計の針によって測る時間ではなく、心理的な過程や、精神の働きとしての時間のことです。つまりこうした自分の心の中で作りだされた「時間」を媒介させてものを見ることは、私たちに破壊な作用を及ぼし、混乱を引き起こすことになるのです』 (p.5~6)

 クリシュナムルティは心理的な時間こそが葛藤の原因であると述べています。実際に私たちの中にある心理的葛藤を見つめてみると、それが事実であることがはっきりと見えてきます。

 例えば、将来の不安です。金銭的な問題や、老いの問題、介護の問題、社会において何ものにもなれないのではないか、成功できないのではないか、という自分の未来に対する不安などがあると思います。それは「安定してあるべき」「成功してあるべき」という固定観念が先にあり、それに自分は至れないのではないか、という不安です。

 これはさらに突き詰めていくと、「あるがまま」とは別の人間になりたい、「あるべき」人間になりたいという願望であり、「あるがまま」からの逃避です。常に、真実の自分とは別の理想的な自分を想定して、それに「なりゆく」活動の中に身を投じている限り、この「あるべき」と「あるがまま」の乖離から逃れることはできず、その二重性故に、心は葛藤の中にあり続けることになります。成功を追い求める人なら、なおさらです。

 仮に一時、「あるべき」自分に近づいたり、それを達成できたとしても、再び次の「あるべき」が生まれ、心は休まることはありません。そうしてこの心理的距離が大きくなればなるほど、人は大きな葛藤を抱え込むことになってしまいます。

 現実的に、目標をもって努力することはもちろん良いことですが、それが「別の自分」になるための努力であり、「あるがまま」からの逃避的行為であるとしたら、人の心は休まることはありません。なぜなら、そこには「あるがまま」の真実がないからです。空想や、観念上の自分を追い求め続ける限り、人は「あるがまま」の真実と共にある充足感や、開放感を味わうことができなくなってしまうのです。

 実際には、「あるがまま」の真実の元に留まり、それを理解し、矛盾のない生を生きることができれば、そこには大きな変容の可能性が約束されているのです。そしてその変容は、決して社会における成功や、記号的な言葉では置き換えられない、真実と共にあるがゆえの充足感であり、自己肯定感なのです。

『あるがままのものを認識し、追求していくためには、きわめて鋭敏な精神と柔軟な心を必要とします。というのは、あるがままのものは絶え間なく活動し、絶えず変化し続けているからなのです。そしてもし精神が、信念や知識というようなものに束縛されていたりすれば、その精神は追求をやめ、あるがままのものの素早い動きを追わなくなってしまいます。あるがままのものは、決して静的なものではなく、厳密に観察してみると分かるように、絶えず活動しているのです。そしてその動きについてゆくには、非常に鋭敏な精神と柔軟な心の働きが必要なのです』(p.6~7)

 あるがままのものと言うのは、常に動いています。非常に複雑で、デリケートな動きをしています。自分の心理的過程や、内面の葛藤の働きを見つめていると、それがはっきりと理解されてくることとと思います。

 例えば、人間関係の中で苛立ちを覚えた時に、そこにある働きそれ自体を見つめてみるとします。一見、現象的には、人に不愉快なことをされたり、言われたりしたから苛立ちを覚えた、というところでしょう。しかし、その感情の背景には、実にデリケートな、複雑な心の動きがあるのが見えてきます。

 例えば、苛立ちを覚えたのは、プライドが傷つけられたからだとします。そのプライドは、「自分はもっと尊敬されるべき人間なのだ」という「あるべき」の理想的セルフイメージによるものです。けれども、実際の自分はそうではないように扱われた。だからその人は傷ついたのです。その葛藤は、実は、普段から自分の中に存在していたのものでした。あえて見ようとせずに、目を反らし続けていた大きな葛藤です。けれども、それがちょっとした他人の一言で触発され、真実があらわになったが故に、その反動から激しい葛藤を覚えたのです。

 その葛藤は、「相手が悪い」という苛立ちに取って代わられます。そうして「自分は悪くない」「相手が鈍感で、理解力がない存在だ」となり、「いつか、自分の存在価値をわからせてやる」という新たな野心、願望が生まれます。そうして「あるべき」と「あるがまま」の距離は再び開き、人は、葛藤に満ちて、傷つけられることを異様に恐れる二重の人生を生き続けることになります。

 こうした自我の自己保身的働きから、現代社会に生きる我々は逃れることはできません。様々な人間関係の中で、瞬間、瞬間、ダイナミックに自我は働き続けます。競争社会の中で生きる私たちは、多かれ少なかれ、誰もがこの葛藤から逃れることはできないのです。その働き、変化を、あるがままに、刻一刻と見つめることが、クリシュナムルティの言う瞑想です。それはつまり、本当の自分自身の姿を知るということなのです。

 このプロセスを観ていくと、「本当の自分自身」というのは、決して、「理想の自分」ではないというのは明白だと理解されることと思います。つまり、本当の自分とは、この一連の自我の働きそのもののことです。

 人間関係の中で自分を守ろうと思い、傷つき、それを回避するために相手を非難し、再び「あるべき」の防壁を張り巡らそうと思考の防波堤を作り出す自我の働きそのものが「あなた」です。その働きと別の「本当の自分」や「理想の自分」があるわけではないのです。瞬間、瞬間における関係性の働き、それがあなたの本質であり、真実です。それが「あるがまま」のものです。

 ですから、その働きを直視し、それが卑小であっても、卑屈であっても、弱くあっても、その働きがそのまま自分自身の真実であると認めてしまえば、そこに二重性はありません。「あるがまま」のものしかありません。

「そんなに卑屈で、ずる賢く、弱くて、情けない自分が真実の自分だなんて見たくないし、認めたくない、そのどこに救いがあるのか?」と思う方もいるかもしれません。

 けれども、その真実から目を反らさずに、その働き自体が我であることを認めてしまえば、そこには、ある静けさが生まれるのが感じ取れるはずです。それは「あるべき」と「あるがまま」の二重性がないがゆえの静けさです。「理想」と「現実」の乖離がないが故の静謐であり、真実と共にあるが故の静けさです。

 その落ち着き、静けさの中に、「あるがまま」を変容するエネルギーが宿る可能性があるのです。ですから、もしも本当に自分を変容させたいと思うのならば、「あるべき」を求めて「あるがまま」から逃避を続けるのではなく、「あるがまま」を理解し、そこに留まるという自己認識の道こそが最短であり、「あるがまま」を変容させてあなたを次のステップに運ぶ、最も確かな土台になるのだということです。


※クリシュナムルティ(以下=K)の思想を理解し、生活の中で実践するためには、そもそも原文であれ、翻訳であれ、テキストそのものに触れるのが一番であることは言うまでもありません。この解読は、あくまでKの思想・哲学を実践することで解放された個人的な体験や、理解、解釈を踏まえてのものですので、興味を持たれた方はKの著作に改めて触れていただければ嬉しく思います。