第10章 恐怖

那智タケシ  

「私」は私から満足を奪ってしまうかもしれない人物や物を
ことごとく恐れている
「私は死が恐ろしい」と言うとき
死そのものを恐れているのではない
自分に所属している様々なものとの
関係を失ってしまうことを恐れているのだ


私たちが生きる現代社会には、今、多くの不安や、恐怖が蔓延しているようです。それは貧困国や、発展途上国のみならず、むしろ日本やアメリカ、欧州などの先進国においてなお一層、その傾向が強くあるように感じるのはなぜでしょうか? イエス・キリストは「金持ちが天国に入るのは針の穴にらくだを通すほど難しい」と言いましたが、そこには富や、観念、情報、社会的アイデンティティ等、多くのものを大事に抱えて生きる人特有の不安や、恐怖があるためだと思います。

 私たちは今、貧乏であれ、金持ちであれ、あまりにも多くのものを必死に抱えて生きているのです。それが富であれ、知識であれ何であれ、多く持てば持つほど人は心理的安定を得ることができると感じるからです。その蓄積が、自分自身という存在を脅かす社会や、他人から守ってくれる、と私たちは考えるのです。

 しかし、抱えていればいるものが多ければ多いほど、それだけ自らが持っているものに対する執着が大きくなり――すなわち、自我が大きくなり――、物質的には豊かになっても、心理的には生きることの不安や、恐怖もまた大きくなるということもまた事実なのではないでしょうか。クリシュナムルティ(以下=K)の言葉を引用します。

『ここで苦痛に対する恐怖を取り上げてみましょう。肉体的な苦痛は神経の反応ですが、心理的な苦痛は、自分に満足を与えてくれるものにすがりつくときに起こります。というのは、そういうときに私は、私から満足を奪ってしまうかもしれない人間や物をことごとく恐れるからなのです。心理的に蓄積されたものは、それがかき乱されないかぎり、心理的な苦痛を防いでくれるのです。つまり「私」は心理的な蓄積や、様々な経験の総和であり、そういうものが「私の心」の深刻な動揺を予防してくれるわけなのです。実際私は心が乱されることを望みません。こういうわけで、私の中に蓄積されたものや経験を混乱させる人間を、私は恐れるのです。』(P.110)

 問題は、富や知識、観念の蓄積そのものにあるのではなく、「蓄積したもの」が「私」であるという自己同一化の認識それ自体にあります。これまで必死に獲得したお金や、知識、地位や名誉といったものの総和こそが「私」である。すなわち「私」=蓄積です。自他から分離して大きな存在となった、他人を見下したり、見下されたりする自我そのものです。だからこそ、その蓄積したものを奪われたり、失ったり、脅かされたりすることを人は恐怖し、身構えるのです。

 そこにある「私」というのは、固定的で、確固とした「自我」そのものに他なりません。この蓄積のプロセスの果てにある、自然との関係から遊離し、肥大化して、いびつになった「自我」を守りたい、という欲求こそが、私たちに恐怖を生み出し、時に、他人を威嚇したり、攻撃したり、暴力を振るったりする源になっているのです(例えば、満員電車の中でキレている人たちです。彼らは、この固定化した自我が傷つけられたり、否定されたり、脅かされるのでは、という恐怖の感情から他人を攻撃しているのです)。引用します。

『既知のものを蓄積しているかぎり、恐怖はなくなりません。なぜならその蓄積がそれを失う不安を生みだすからです。したがって未知のものに対する恐怖は、実際は蓄積された既知のものを失うことの恐怖なのです。蓄積は常に恐怖を意味しています。そして恐怖は苦痛を意味するのです。』(P.111)

 この蓄積のプロセスの他に、もう一つ、「私」を守る方法として、ある社会的なや役割や、人から与えられた観念の枠の中に生きる道があります。例えば、ある種の宗教や、コミュニティへの過度の傾倒や、原理的な共産思想や、ナショナリズム、スピリチュアルな体系等、ある特定の観念との同一化による自己拡大の道です。

 社会から与えられた鋳型や、他人が作り出した枠の中で生きることは、人の精神に「自分は正しい価値観を信奉している」という自己肯定感や、「帰属して、守られている」「自分はこの枠の中で生きていけばいいのだ」という安心感をもたらすことでしょう。社会的に弱い立場にある人や、精神的に苦しい環境にある人は、そうした枠の中に逃避して、守られて生きたい、安心したい、という気持ちがあるのは非常によくわかります。

 しかし、その動機の背景にあるものは、この厳しい社会や、他人から、自分という存在を否定されるのではないか、傷つけられるのではないか、という不安定さへの恐怖にほかなりません。そこには依然として、守るべき蓄積――すなわち、「自我」があり、それが否定される恐怖があるのです。

 ですから、ある特定の枠の中で生きようとするとこともまた、恐怖からの逃避の一形態であり、より大きなものと同一化して生きていきたい、という自我拡大の願望であり、蓄積とは別の形の執着そのものなのです。この大きな器への執着が大きな規模になれば、国家や、宗教間に戦争を引き起こす原因にもなることになるでしょう。なぜなら、特定の枠への過度の執着は、必ず他の枠との衝突、否定に繫がってしまうからです。それが個人レベルであれ、国家レベルであれ、自他を分離する「枠」という境界線を思考によって作り出してしまうこと自体が問題なのです。引用します。

『また、恐怖は私がある特定の型の中に入りたいと思うときに生まれてきます。しかし恐怖を持たずに生きるということは、実は特定の型を持たずに生きることなのです。私が特定の生活様式を求めるとき、その様式そのものが恐怖の原因になるのです。ある一定の枠の中で生きようとする欲望こそ、元凶なのです。それではこの枠を破ることができないものでしょうか。私がその枠を破ることができるのは、次の真相を理解したときだけなのです。つまり、その枠が恐怖を生み出しているということ、そしてこの恐怖が逆にその枠を強化しているということです。』(P.113)

 ここで、Kは恐怖からの解放への道筋を示します。それは自分が自らの存在や、自我を守るために蓄積のプロセスを続けて、自他を分離する固定的な枠を設けたり、あるいは、他人が作り出した枠の中で安全に生きようとしているという「事実」それ自体をそのままに見つめ、認め、解体するという道です。

 不自然なまでの蓄積や、大きな観念との同一化した「自我」こそが世界や、他者を分離して、様々な混乱、衝突、問題を巻き起こしている「私」であるという事実――その自己認識こそが、人を固定化した自我や、他人から与えられた枠からも解放させ、自由の中に解き放つ、と言うのです。

 そしてまた、自我の蓄積過程や、特定の枠から解放されることによって、必死に守るべき中核が消えうせますから(自我という自己保存の本能的な単位は存在しても、それは他者や、自然の事物と等価な一断片に過ぎないものとして客観的に理解されてくるのです)、自ずと「自分が否定されるのでは」「大事なものを失うのでは、奪われるのでは」という恐怖に脅かされることがなくなっていくことに人は気づいていきます。

 自我という世界の中心にある巨大な中核がなくなり、すべてのものが等しく隆起する世界においては、他人からの否定や、攻撃に対する極度の身構えや、緊張、不安、恐怖がなくなっていきます。他者や自然といったあらゆる事物と独自な関係性でもって自由につながっていくことができるようにもなります。あなたの実存的感覚は、「自我」という強固な固定点ではなく、今や「世界」そのものになっているからです。

 この自由で、一切が等価で、限界のない、未知なるものに満ちた領域においてこそ、人は、自分自身や、他人や、自然も含めたすべての等価的断片を自由に組み合わせ、編集し、自らの独自な世界を創造することができるようになります。そしてまた、自我による衝突や、苦しみや、差別や、悲哀に満ちたこの世界を乗り越えていく力を持つこともできるようになるのです。引用します。

『このことは、枠を破るために私は全く行動してはならない、という意味なのです。私が何もせずに、ただその枠を見ているとき、どういうことが起こるでしょうか。そのとき私は、精神そのものが枠であり、型であるということが分かってくるのです。つまり精神は、自ら生みだした習慣的な型の中で生きているということなのです。精神が行うことはすべて、古い型を強化するか、新しい型を助長することなのです。従って恐怖を取り除くために精神がやることはべて、恐怖を生みだす原因になるのです。』(P.113)

 近年、世界の先進国ではナショナリズムが隆盛しているのが目に付きます。アメリカや欧州のみならず、日本でもまた若者や貧困層を中心に右翼的傾向が目立つようになってきました。その背景には、貨幣的価値によって人をランク付けし、差別する資本主義社会によって、私たち個々人の存在が抑圧され、ないがしろにされ、尊厳を奪われるという「恐怖」があると思います。この恐怖に対抗し、逃れるために、時に、人は自分より大きな「国家」と自らを同一化して、自己肯定感を取り戻そうとします。しかし、それもまた、「あるがまま」からの逃避であり、自我の拡大欲求の一形態に過ぎません。引用します。

『恐怖はあらゆる種類の逃げ道を求めます。その中でごく普通のものは同一化ではないでしょうか。つまり国家や社会や観念などに、自己を重ね合わせようとすることです。軍隊の行進や、宗教的な行列を眺めているとき、母国が侵略の危機に晒されているときなどに、あなたはどういう反応をするか、今までに注意して見たことがありますか。そういうとき、あなたは自分自身を母国や、人間や、イデオロギーなどと同一化しているのです。』(P.114)

 ここでKは、恐怖の正体について明言します。

『それでは恐怖とは一体何でしょうか。それはあるがままのものを受け容れないことではないでしょうか。』(P.115)

 「あるがまま」のものを受け容れないこと――それこそが恐怖の正体です。逆に言えば、「あるがまま」のものを受け容れてしまえば、恐怖はなくなるということです。「あるがまま」というのは、目の前にある「私」にまつわる現象そのものであり、それ以外のものではありません。

 それがどんな貧相で、ぶざまで、自己欺瞞的で、ちっぽけな姿をしていたとしても、「あるがまま」の自己認識から始めて、等身大の自分でいれば、そこに恐怖はないのです。なぜなら、「あるがまま」というのは真実のあなたそのものであり、逃げも隠れもできないからです。それはただ、そこにあるものであり、単なる事実なのです。

 「あるがまま」を自ら率先して認めてしまえば、怖いものはなくなります。誰に指摘されるよりも前に、瞬間、瞬間、真の自分の姿を自己認識してしまえば、それが他人から傷つけられるとか、否定されるとか、脅かされる、という恐怖から自由になることができるでしょう。自分の中のずる賢さや、自己中心性を見つめ、自ら認めてしまった人は、もう他人の言葉にびくびくしないでしょう。あとは、その真実から行動するしかありません。その時、人は逃避衝動による自我拡大の道ではなく、この無限なる世界と等身大でつながって、有機的に関係していく、創造的な生を歩みだすことになるのです。

 まずは「あるがまま」の自分の裸の姿を、瞬間、瞬間、見つめること。それがどんなに自己欺瞞的で、自己中心的なものであっても(そこで自分を責めないでください。むしろ、その事実に気づいたことそれ自体がチャンスなのです。私たち現代人のほとんどの自我の動きは、自己中心的なのですから)、それが自分の真実の姿であり、そこにしか真実が存在しないことを受け入れることができれば、その認識こそが自我の飽くなき蓄積過程を終わらせ、自他を分離する強固な枠を壊し、人の精神のあり方それ自体を変容させます。

 この一人の人間の自由を基盤にして初めて、私たちは新しい関係性を構築し、新しい社会を実現する可能性を手に入れることができるのではないでしょうか。そしてまた、自らの足で歩き、他人からの視線や、言動や、社会の圧力におびえず、他人から与えられた枠の中で生きるのではない、「自由の中にある生」の素晴らしさを直に体験することができるようにもなるのです。

 この解放感というのは、決してある特定の修行の果てにある境地といったものではなく、特別なものでもなく、本来、人間がみな持ち合わせているものです。幼い子供の頃、私たちはこの感覚の中に生きていて、自由で、創造的で、幸福だったのです。引用します。

『私たちの肉体が全く健康であるときには、ある種の喜びや幸福を感じないでしょうか。また心が完全に自由で、何の障壁もないときや、「私」という認識の中心が存在していないとき、あなたは心からの喜びを経験しないでしょうか。あなたは自我が居合わせないとき、このような状態を味わったことがないでしょうか。もちろん私たちは誰でもそういう経験があるのです。』(P.116)


※クリシュナムルティ(以下=K)の思想を理解し、生活の中で実践するためには、そもそも原文であれ、翻訳であれ、テキストそのものに触れるのが一番であることは言うまでもありません。この解読は、あくまでKの思想・哲学を実践することで解放された個人的な体験や、理解、解釈を踏まえてのものですので、興味を持たれた方はKの著作に改めて触れていただければ嬉しく思います。