第2章 
私たちは何を求めているのか 神を発見する旅に出る前に、
まず自分自身を理解すること

那智タケシ  


クリシュナムルティ(以下=K)は、徹底的に自己認識の重要性を説いた人でした。精神的指導者や、教師、ある種の組織、観念的体系、イデオロギーなどを信じて安住しようとする自我の逃避的行為を直視し、「まずはその逃避的行為自体の働き自体を理解せよ」と説きました。その求道的かつ逃避的な自我の働きそのものの理解の中に、精神の解放があることを見抜いたのです。

 それが究極の悟りを開いたと自称する導師であれ、素晴らしく感動するお説教であれ、有機的で精緻な理論であれ、世界全体を包含するように見える観念であれ、様々な瞑想法であれ、特定の人物やメソッド、一つの体系によって人をある特殊な状態や、解放、完成に導くとされるシステムそれ自体への傾倒が、自我の逃避的行為そのものであり、あるがままの真実からの分離であると指摘しました。

 指導者の境地や、理論、メソッドそれ自体の効果・価値はさておくとして、まずは、自分の外に絶対的な真実と解放を求めてさ迷う自我のあり方それ自体を理解することなくしては、すべては真実からの逃避になってしまうと言うのです。

 重要なのは、解放の出口を求めてさ迷う「自我の働きそれ自体」であり、その「理解」こそが真実そのものだということです。つまり、自己認識こそがスタートであり、ゴールでもあるのです。問題と真実はあなたの胸の中にあるのですから、それ自体に取り組むのが最も理に適っているということです。自分の胸の中の苦しみを理解するために、わざわざインドにまで行く必要はないのです。問題は、誰よりもあなたに最も近い距離にあるのであり、誰か他の人がその胸の苦しみを手に取って、代わりに手取り足取り解消してくれるわけではないのですから。

 ソクラテスには「汝自身を知れ」という格言があります。「自分が何を求める、どのような存在であるのか」という自己認識の土台なくしては、真実の探求というものはすべて、あるがままの自分からの逃避になってしまいかねない、ということです。ですから、求道の始まりはあなたの内的問題であり、終わりもまたその内的問題に自ら直接的に取り組むことなのです。

 求道の道に入る動機には、様々なものがあるでしょう。上手くいかない人間関係や、アイデンティティの確立の悩み、実存的虚無感の問題、自己実現の挫折、病気や貧困、様々な精神的苦しみ・・・これら具体的な苦しみの根底にあるのは、「あるがまま」でいられない、いることを許さない、という社会からの「こうあるべき」という条件付けだと思います。競争を強いられ、社会的に何ものかであり続けなくてはならないというプレッシャーが、今、多くの人を苦しめているのです。こうした社会の中で、人は知らずしらず「あるがまま」からの分離を強いられ、虚無感や、挫折感、自己否定感に苛まれているように見えます。

 だからこそ、この資本主義社会で上手くいかない、あるいは上手く生きられない人ほど俗世の価値を越えた絶対的真実を求めるようになるのですが、そこには一つ落とし穴があります。「あるがまま」の自分を理解するのではなく、「それ以上の存在と一つになりたい」「何か特別な存在になりたい」という社会から教え込まれてきた「あるべき」への条件付けが、再びそこに顔を現すのです。それは姿を変えた成功願望であり、結局、「あるがまま」からの逃避であり、分離の道です。

 こうした求道は大抵の場合、「凡庸で、何者でもなく、不安定な自分から逃避したい」「自分以上の存在になりたい」「特別な私になりたい」という願望と一つになって、求道や修行を続ける中で、何かを達成したと思えば思うほど、あるがままの真実から遠ざかるというパラドクスとなります。

 ですから、外部に真実を求める求道というものは、残念ながら安心立命の道になりません。一時はゴールに至ったと感じたり、高揚感を覚えても、「あるがまま」の真実という土台なくしては、心が休まりませんから、どこか不安です。表面は取り繕っていても、どこかで落ち着かないのです。それで、ふらふらと様々な教師の元を行ったり来たりしたり、ある種の観念の中に逃げ込んで自己洗脳をしたり、下手をすると知らず知らず他人のエピゴーネンになって、定型句のような言葉や観念を自分の言葉のように繰り返すようになります。様々な情報に満ち溢れた現代社会においては、こうした求道は、むしろ人を凡庸にしてしまいかねない、実に危険なものなのです。それをやればやるほど、「あるがまま」の真実から遠ざかり、自我を強化して、戻ることが困難になってしまう可能性さえあるのですから。

 なぜ、自分は真実を求めるのか? 救われようとするのか? 

 その最初の働き自体を正確に見つめ、刻々とトレースしながら、本当の自分を理解することが真の自己解放の道の最初の一歩です。あるがままの真実という土台がなければ、どれだけ様々なメソッドを学び、修行をしても、すべては空中楼閣のようなものに過ぎません。理解すべき真実は、今、目の前にあるのですから、それを一つひとつ解きほぐし、理解することから始めればいいだけなのです。

 Kの言葉を引用してみます。

『たとえば、私たちが心の平安を求めている場合、それはいとも簡単に見つけ出すことができるでしょう。何らかの主義や思想に盲目的に自分の身を捧げ、その中に避難することはできるかもしれません。しかし、明らかにそれでは問題の解決になりません。一つの思想に閉じこもって孤立するだけでは、闘争から解放されたことにはならないからです。したがってどうしても、外面的にも内面的にも、私たちがめいめい何を望んでいるのかをまず見い出さなければならないことになります。この点さえはっきりしていれば、わざわざ教師の言葉を求めたり、教会へ通ったり、いろいろな組織を訊ね廻る必要もなくなります。この場合、まず私たちが解決しなければならない問題は、自分の意図を自分の心の中で明確にすることではないでしょうか。これが一番難しい問題なのですが。』(P19)

『ところで私たちはこの問題に明確な解答を出すことができるでしょうか。またその明確さは、探求したり、あるいは、上は最高級の導師(精神的指導者)から、下はすぐ近くにある教会のごく普通の牧師まで含めて、誰か他人の意見を探し廻ることによって生まれてくるものでしょうか。またそれを知るために他人のところへ行く必要があるのでしょうか。私たちは皆、そういうことを常にやっているのではないでしょうか。私たちはおびただしい数の本を読んだり、集会に参加して討論したり、いろいろな組織に加わったりして、日常生活の中で起こる闘争や悲惨の救済策を発見しようとしています。あるいは、それを全部試みてみないにしても、私たちは求めていたものをすでに発見してしまったと考えるのです。つまり特定の組織なり導師なり書物などが、自分を十分満足させてくれたと私たちは言うのです。そしてその中に私たちの望んでいるすべてのものを見つけ出して、結局、一定の型にはまり込み、自分の周囲に壁をめぐらしてしまうのです。そうではありませんか。あなたは。』(P19~20)

『私たちはたいてい、心の中で何か恒久的なもの――すがりつけるもの、確信や希望や、持続する情熱、安心感などを求めているのではないでしょうか。なぜなら私たちの心は全く不安定だからなのです。私たちは自分自身を知らないのです。私たちは事実や、本の中に書いてあることはたくさん知っていますが、物を介さずに、自分自身の力だけで知ったり、自分で直接体験することがないのです。』(P20~21)

 Kの言葉は、一見、取り付く島がありません。容赦がなく、逃避的な働きを続ける自我そのものに突き刺さってきます。真実を知っている誰かや、理論、組織に逃避するのではなく、あるがままの自分自身を見つめ、理解することでのみ、真の解放があると説くからです。真実というものは、誰によってでもない、自分自身でしか見つけることはできないし、その方法もありはしない、と言います。

「そんなことを言われても、どうしていいかわからない」「あるがままの自分を見つめるとか、理解すると言っても具体的にどうすればいいのか?」「その方法を教えてください」と人々は口をそろえて言います。これが「クリシュナムルティは難解だ」「真実であっても、方法がないから実践することはできない」などと言われる所以です。しかし、それは難解であるわけでも、方法がないからでもなく、ただ単に、「あるがままの真実を見たくない」という現代人の肥大化した自我の働きによって、そう感じているに過ぎません。

 問題は、今、この胸の中にあるのです。ただ、それをそのままに見ればいいだけです。そこから離れずに、ひたすら追いかけていくだけでいいのです。今、この瞬間も動き、変化している自分の心の働きを正確に見つめ、追いかけ、それと一つになり続け、それが観たくないものであっても、受け入れたくないものであっても、自分自身を偽ることなく、そのままを受け入れて、生活の中で素直に表現していけばいいだけなのです。

 不安だったら「不安だ」と言い、苦しかったら「苦しい」と言い、「悲しかったら」悲しいと表現しましょう。嫉妬していたら「嫉妬している」ことを認めましょう。あるがままの自分自身であり続け、その上に立って、自分を偽らずに生きるのです。するとそれが習慣になり、いつの間にか、観ているものと観られているものは一つになり、追いかけているものと追いかけられているものは一つになり、二元対立の分離がなくなって、気づけば、あなたは真実そのものを生きていることになるはずです。

 真実と共にあれば、それがどんなに無様で、格好悪いものであったとしても、人は自ずと心の静謐を取り戻すでしょう。いや、取り戻さざるを得ないのです。なぜなら、本当はそれ以外にはないということを知るからです。何かどこか隠れた場所に別の自分があるとか、真実の絶対的な我があるとか、永遠普遍の悟りの境地があるとか、それを求めなくてはならないから今は未熟だとか、どこどこに解脱した本物のグルがいるとか、成功した自分にならなくてはならないとか、そういう「あるべき」への理想が終われば、「あるがまま」から離れようとする葛藤の働き・作用がなくなるからです。

 「あるがままのそれ」しか真実はありません。ですから、それを生き、それに触れ続けることでこそ、それを変容するチャンスもまたあるのです。それを変えることができるのは、どこかの高名な誰かではなく、それと共にあり続け、直接触れることのできる、あなただけなのです。

 「あるがまま」と共にあれば、「あるべき」や、「なりゆく」という最大の葛藤から人は解放されます。もしかすると、その静けさの中に、「あるがまま」の自分以上の何かかが宿ることもあるかもしれません。いえ、きっと何かが宿る瞬間があることでしょう。Kの瞑想や、それにまつわる神秘というのは、実はこうしたシンプルなもので、そこに何かの秘密があるわけではありません。神秘というものは、難解で、高尚な観念にではなく、こうしたシンプルな、あるがままのものにこそ宿るのです。にもかかわらず、「あるべき」という理想の達成に縛られた我々は、それをそのままに見たがらないのです。人は、「真実を知りたい」と口にしますが、「真実の自分自身を見たい」とは決して言いません。

 様々な新興宗教や自己啓発・スピリチュアルのセミナーは、「永遠普遍の真実」や、「絶対平安の悟り」といったものを提唱しながらも、この逃避や慰安、社会での成功をほのめかし、真実の言葉とブレンドして自我に働きかけ、多くの人を集めています。しかし、本当は他人の言葉やメソッドではなく、苦しめている当のものそれ自体の理解の中に、真実と解放があるのです。だから、問題は単純なのです。

 Kは繰り返し、「それ自体を理解し、変えなさい。それで終わりです」と言いました。確かに、その通りです。不安を解消したいなら、今、自分の胸の中にある、不安そのものにそのままに取り組み、理解することが第一です。しかし、人はどうしても不安そのものに当たらず、不安を解消してくれるメソッドや、自分を癒してくれる観念や、精神を安定させる呪文のようなものや、他人の言葉の中に救いを求めます。「自分の内部をいきなり見つめことは難しいから、まずは松葉杖が必要だ」と言うのです。今、目の前にある花を見るのに、スマホの画像を見たり、ネットで花の名前を調べたり、いつか花を観に行くために観光地を調べたりして、そこにある花をそのままに見ようとしません。

 この逃避構造は、自分自身の自我の働きを見つめ、正確にトレースしていけば、自ずと理解できることと思います。とにかく、人は真実を見たくないのです。あるがままの自分を見たくないし、認めたくないのです。しかし、その逃避の働きそれ自体が「あなた」であり、「真実」なのです。逆に言えば、「今、逃避しているな」と気づいたら、それは即座に逃避をやめて、静謐を取り戻すことでしょう。

 Kの言葉に戻ります。

『それでは、この求めている人と、求められている対象とは違ったものでしょうか。「私は幸福を求めている」というとき、求める人とその対象は別のものでしょうか。また考える人とその人の考え――思考――とは違ったものでしょうか。それらは別個の過程というよりはむしろ、一つの一体化した現象ではないでしょうか。従って、求める対象を発見する前に、それを求めている人間、すなわち「私」を理解することが、とりわけ重要なことではないでしょうか。』(P22)

『自分自身を知るということ――この大切なことを私たち人間は無視しがちです。自分自身を知ることこそ、何かを築きあげることができる唯一の土台なのです。これは自明の理ではないでしょうか。ですから、私たちが何かを建設したり変革する前に、また非難したり破壊したりする前に、まずあるがままの自分を知らなければならないのです。従って何かを求めて歩き廻ったり、指導を求め、次から次へと導師を変えたり、ヨガとか腹式呼吸とか礼拝をしたり、師と言われる人の後を追ったりすることは、すべて無益なことではないでしょうか。私たちが信奉しているその人が、「あなた自身を分析しなさい」と言ったとしても、それには何の意味もありません。なぜなら、私たちのこの姿が、そのまま世界の姿なのですから。もし私たちが、けちで、嫉妬深く、虚栄心が強く、貪欲であれば、その通りのものを私たちの周囲に生みだし、それが私たちの住む社会になるのです。』(P23~24)

 実は、Kは、ごく当たり前のことを言っているに過ぎません。俗な言葉で言えば、「素直な、自分自身であれ」と言っているだけです。自分自身のそのままを見つめて、それからぶれることなく生きていけば、人は真実の生を生き、真実に基づいた人間関係を築き、そこから新しい社会のあり方が生まれることになる、ということです。

 現代社会は「あるがまま」の真実ではなく、「あるべき」という観念を土台にしているために、多くの軋轢や差別、経済格差、戦争、テロリズムなどの様々な問題を抱えてしまっています。そのほとんどが、「あるべき」によって条件付けられ、肥大化した自我の集積と争いによるものなのです。ですから、もしもあなたが自分を救い、この世界を少しでもより良いものにしたい、と願う真摯な人間であるならば、最初に取り組むべきは、この自我の問題であり、それを解消することであって、「特別な自分」「真実の自分」になるための努力ではないということです。

 禅語には、「柳は緑、花は紅」などと言う言葉があります。これは「柳は緑であり、花は紅である」と言うだけのことで、「あるがままのそれ以外のものではない」ということです。道元禅師の有名な言葉には「眼横鼻直(がんのうびちょく)」などと言うものもありますが、これは「眼は横に付いていて、鼻は縦に付いている」それ以外のものではないということです。これはKが言うところの、「観るものと観られるものは一つ」と同じ意味です。そこには、「あるがまま」のものしかないのです。他に余分なものは何もないのです。付け加えることも、装飾することも何もありません。すべては完璧で、事足りています。

 「あるがまま」の現象しかないわけですから、実は、その「あるがままの働き自体」が神秘なのです。それを自覚してしまえば、恒常的な平安の境地を求めるとか、特殊な神秘体験を追い求めるとか、そうした絶対的なものを求めるという「あるべき」への願望は終焉します。あるいは、自分以上の存在になりたい、という逃避的願望が終焉します。それが「自我の終焉」ということです。もしも、目の前に展開する「あるがままのもの」それ自体が神秘となるとしたら、そこに何か彩った観念や、特別な意味を付け加える必要はないのです。

 「あるがまま」と共にあるということは、固定的な「私」の終わりも意味します。なぜなら、その「あるがまま」とは自他の関係から生まれる感情や、事物の働きそのものであり、その働きと共に生きる時、あなたは「世界」となっているからです。そこには、流動変化して、生成消滅し続ける「あるがまま」しかないのです。だからこそ、仏教ではすべては縁起から生成隆起する刹那の現象であり、「無我」を唱えます。固定的で永遠普遍の事物は存在しない、すべての事物に実体はない、という諸法無我を言うのです。

 しかし、この「あるがまま」の中には、すべてがあります。単純に見えて、世界の働きそのものですから、そこからどんなものでも引き出せるし、理解することも無限にあるのです。どんな境界線もありませんし、地平線も、限界もありません。意外な、未知なる存在に出会うこともあるかもしれませんし、まったく新たな自分を発見することもあるかもしれません。思考を超えた冒険の舞台であると同時に、自分独自の生を描き出し、表現する、果てしなく広大なカンバスでもあるのです。最初は、ちっぽけな自分に気づくことから始まるかもしれませんが、そこから初めて、どこまでもどこまでも拡がって行く可能性がある創造的な道でもあるのです。

 この章の末尾にあるKの言葉を引用して終わります。

『あなたは自分自身を知れば知るほど、はっきりと物事が見えるようになってきます。自己認識には終りというものがなく、目的を達成することも、結論に達することもないのです。それは果てしのない河のようなものです。それを学び、その中に深く突き進むにつれて、あなたは心の平安を見出してゆきます。自らに課した自己修練によってではなく、自己認識を通して精神が静寂になったとき、そのときにのみ、その静寂と沈黙の中から、真の実在というべきものが誕生しうるのです。またそのときにのみ、無上の至福と創造的行為が生まれます。このような理解も経験もなしに、ただ本を読んだり、講演を聞いたり、宣伝活動をしたりするのは、全く子供じみたことであり、たいして意味のない行為だと私には思えるのです。それに対して、もし自分自身を理解して、そこからあの創造的幸福と、頭脳から生まれたものではない、あのあるものを体験することができるならば、そのときにこそ、私たちの周囲のものとの直接の関係の中に、従って私たちの住んでいる世界の中に、変革をもたらすことができるのです。』(P.26)


※クリシュナムルティ(以下=K)の思想を理解し、生活の中で実践するためには、そもそも原文であれ、翻訳であれ、テキストそのものに触れるのが一番であることは言うまでもありません。この解読は、あくまでKの思想・哲学を実践することで解放された個人的な体験や、理解、解釈を踏まえてのものですので、興味を持たれた方はKの著作に改めて触れていただければ嬉しく思います。