第3章 個人と社会

那智タケシ  

真理を発見するためにはあらゆる主義・主張から自由でなければならない
社会は貪欲と羨望――優越したものに対するあなたの羨望を根底にしている


クリシュナムルティ(=以下K)は、個人としての単位を重要視した宗教・哲学者でした。「自我の終焉」「私は存在しない」「あなたは世界だ」などというフレーズから、昨今の観念的同一性を強いるスピリチュアルムーブメントにように個人の創造性を重要視しないイメージがあるかもしれませんが、実は、そのベクトルは真逆のものです。Kは、まず何よりも個人の自由とダイナミックな創造を社会の基礎として提唱したのです。

 本章の冒頭の言葉を引用してみます。

『今日私たちすべての人間に突きつけられている問題は、個人は単なる社会の道具に過ぎないものなのか、それとも社会の終局的目的としての存在であるのかということです。個人としての「あなた」や「私」は、社会や国家によって使用され、指図され、教育され、統制されて、一定の鋳型に嵌め込まれてゆくのでしょうか。それとも、社会や国家は個人のために存在しているのでしょうか。果たして個人は、社会の目的なのでしょうか。あるいは単に、教育されたり、搾取されたり、戦争いるの用具として虐殺されていくロボットなのでしょうか。これこそ私たちに突きつけられて問題です。個人は社会の単なる道具であって、その支配者によって象(かたど)られていくなぐさみものなのか、それとも社会は個人のために存在しているのかどうかという問題は、今や全世界の問題なのです。』(p.27)

 Kは、精神の解放について説く宗教者という顔を持つだけではなく、自我の問題は自ずと社会の問題と繋がっていくことを明確にした哲学者でもありました。ですから、精神的及び社会的革命の可能性について論じる上で、何よりもまず最初に自我の問題に取り組むべきだとしたのです。革命は、外部からではなく、内部から始まるのです。

 自我とは本来、自然の中においては環境から身を守る自己保存本能から生まれたものだと思います。生き延びるために脳が発達し、自我が大きくなるにつれて、人類は自然を利用することができるようになりました。私たちの祖先が自然から分離した生活様式を確立する中で、文明が発達したことは事実です。科学の発展や、農耕技術の発達、医療・福祉の充実・・・ある意味では、人類はより良い方向に向かっているようにも見えます。反面、自然から分離することで、私たちの精神が不自然なものになっていることもまた事実なのです。この肥大化し、不自然になった自我こそが、現代人の心理的葛藤と世界の混乱の原因であり、これを解消しなくてはならない、というのがKの教えの根底にあります。

 それでは、この葛藤・混乱を解消するためにはどうすればいいのでしょうか?

 Kは、一人ひとりが、世界の葛藤・混乱を自分自身の問題として捉えることから変革が始まると言います。そのためには、まずは日常生活の様々な関係性・反応によって揺れ動く自我のありのままの動きを見つめ、理解することが肝要であると説きました。その「働き自体」が真実の自分自身であると認めていく中で、不自然に固定化し、いびつになり、自然や他者から分離した自我から人間が解放される可能性を示したのです。

 例えば、「嫉妬」している感情の揺れ動き。「反発」している感情の揺れ動き。「絶望」している感情の揺れ動き。「自己正当化」している感情の揺れ動き(これらの言葉は記号であり、感情そのものではありませんが)。すべては、「嫉妬」「反発」「絶望」「自己正当化」の裏に、「本当の自分」「世界から分離した我」があり、それが認められないが故の感情の動きだと思います。けれども、実は、「本当の自分」や「世界から分離した我」など存在せず、「嫉妬」「反発」「絶望」「自己正当化」の動きそのものが真実の「あなた」であるとしたらどうでしょう? 

 ありのままの自我の働きそのものが「我」であり、「事実」であり、「真実そのもの」であると認めた時に、何が起こるのでしょうか?

 それは様々な観念をくっつけて肥大化し、自らを特別視し、他者から分離し、不自然なまでに固定化された自我の解体です。

 私が「特別な実体」ではなく、身を守るための「自己中心的な働きそのもの」だと認めてしまえば、そこにある「私」という中核は破壊されざるを得ないのです。この裸の自我を見つめる内観を続けていくにつれ、自我とは、世界の因縁によって生じた束のようなものであり、波の一部分だと自覚されるようになっていくことでしょう。

 自我の解体は必然的に、「我=世界」という認識の転換を伴います。この認識は、自ずと新しい他者との関係性や、新しい社会のあり方といったテーマに繋がっていくことになります。なぜなら、自分とは分離した無縁なものなど何処にもないと知るからです。

 このあるがままの自我の働きを見つめる動的瞑想は、人類が蓄積してきた様々な条件付けから人を自由に、解放する道です。まずは自分自身の他者との競争、成功者への羨望といった自己中心的な自我の働きをありのままに見つめ、極度なナショナリズムやイデオロギー、常識の妄信等、不自然で、いびつな条件付けとの同一化に一つひとつ気づき、落として、裸の、真実の自分自身のあり方、働きに立ち返ることで、目の前の人間との関係を創造的なものに再構築していく――それが社会的革命の第一歩になる、というのがKの哲学の骨子だと思います。

 こうした自己変革のためにKが重要視したのが、目の前の現象の変化に気づき、理解する「精神の鋭敏さ」です。

 現代人は、自我の競争をする中で様々なストレスにさらされています。今、人々は「有用」かどうかで存在の価値を判断します。「仕事で使えないやつは存在価値がない」というような会社に勤めているような人々にとっては、自己肯定感を取り戻す必要があります。凝り固まった自我をほぐし、精神を休ませ、健康に生活するためには「癒し」や、「くつろぎ」といった現代で流行しているメンタルヘルス的要素はもちろん生きていく上で必要になってきます。しかし、精神の健康を取り戻し、社会に復帰するための対処療法で終わることをKはよしとしませんでした。少々厳しい道かもしれませんが、そこからさらに先に進み、自らの条件付けや、硬直化した自我を解体し、変革し、社会そのものを変えていく――それが精神の革命家としての彼の立場だと思います。

引用してみます。

『さて、一つの問題を理解したいと思うとき、精神はその問題を完全に、全体として理解するだけではなく、その問題のあとを迅速に追わなければなりません。なぜなら問題そのものは決して静止していないからです。飢餓の問題でも、心理上の問題でも、問題は常に新しいのです。また危機というものも常に新しいのです。ですから、問題を理解するためには、精神はいつも新鮮、明晰で、かつその問題を追求するときは迅速に動かなければならないのです。』(P.29)

 鋭敏さ、迅速さと共に、内的及び社会的革命に必須なのは、習慣に堕すことのない「精神の新しさ」であるとKは言います。一つの観念に同一化したり、他人の作った体系に逃げ込んだり、一人、ある種の宗教的境地に浸ることとは真逆のあり方の中に、真の宗教性や創造性、新しい社会の可能性を見たのです。

『従って、この絶えざる心の内部の革命がなければ、いかなる希望もありえません。なぜなら内部の革命がなければ、外部の行為は反復的で習慣的なものに堕してしまうからです。社会は「あなた」と「他の人」との、「あなた」と「私」との人間関係の働きなのです。それゆえ、この不断の内部の革命と、この創造的な心理の変換がないかぎり、その社会は静的なものになり、活気のある動きを喪失してしまうのです。社会が常に静的で固定化し、そのために繰り返し粉砕されなければならなくなるのは、この内部の革命を欠いているためなのです。』(P.30)

 昨今では、ネットのコメント欄や掲示板などで、犯罪者や、不祥事、スキャンダルを起こした著名人などを徹底的に叩くという異様な風潮があります。それぞれの罪の重さ軽さや、人間性、人格についてはともかくとして、この特異な現象の根底にあるものは、「他人の肥大化した自我の否定」です。そして、その動機の裏側にあるものは、「自分の自我の肯定」ではないでしょうか。それはすなわち、行き過ぎた他人の自我を排除しつつも、自分の自我や、既存の自我社会を守りたいという静的で固定化した自我保存の欲求です。

 過剰な競争社会に生きる私たち現代人は、日々、自我の大きさ比べをして生活しているようにも見えます。みな、自我の大きさ(それが経済的な豊かさであれ、社会的な地位の高さであれ)を競う社会の中でぎりぎりの状態で生きていて、日々ストレスにさらされ、疲れています。こうしたあり方は成功や、安定している間は心地いいものかもしれません(しかし、その成功は敗者・弱者を土台にして支えられたものです)。けれども、調和をベースとした自然界の生物としては不自然なものですから、どこかで無理がたたります。

 とは言え、人は、自分自身の自我は正しいものであると思いたいものです。だからその自己中心性を直視したり、厳しく批判したりすることはしたくない。自分自身については否定したり、省みたりしたくない。そこで既存の社会の中でアベレージよりもさらに肥大化した自我が犯した過ちや、犯罪、不祥事、スキャンダルといった氷山の一角である現象を徹底的に叩いて、社会からガス抜きをしているのです。もちろん、氷山の一角を叩いて、氷山そのものを肯定しているのですから、社会は何も変わりませんし、同じような犯罪や、不祥事が延々と繰り返されるのです。

 その背景にあるのは、「自分の自我は悪くない」「私たちの築いてきた社会は健全で悪くない」という自我肯定、既存の社会の保存の欲求です(自我肯定は自らのありのままの存在の自己肯定感とは異なります。いわば、プライドの保持のようなものです)。これらの現象からは、あるラインからはみ出した自我は「悪」であり、そこからはみ出さない自我や、常識内にあるものは「善」であるという善悪二元論の構造がはっきりと見て取れます。この線引きをすることで、これまでの社会常識や、自分自身の自我のあり方を巧妙に正当化する逃避構造が見て取れるのです。

 つまり、ほとんどの人は、本当の義侠心や正義感から怒っているのではなく(表層的、主観的にはそのように感じられるのですが)、「自分自身という特別な存在や、これまで信じてきた社会のあり方を正当化するため」に悪事を為した他者を叩いているのです。しかも、年々、このボーダーラインの閾値は下がり、「常識」の範囲が狭くなっているように感じます。皮肉なことに、自らの自我を肯定し、既存の社会を守ろうとすればするほど、人間はより不自由で、卑小な存在になっていくように見えます。

 時代は違えど、Kはこのような巧妙な自我の逃避構造を見逃しませんでした。犯罪や戦争、差別、経済格差といった様々な社会、世界の問題に対し、自分だけが批判できる立場というものはない、と彼は明言したのです。なぜなら、自我という核を見つめ、解体していった時、あなたは「世界」になるのですから、あらゆる現象と無縁ではいられないのです。すべての現象に――それが善であれ、悪であれ――あなたは関係があり、責任がある立場にある。これは観念ではなく厳密な事実である、とKは明言します。

 個人と社会、内部と外部の関係についてのKの言葉を引用してみます。

『ところで、あなたの心の中や周囲にある悲惨や混乱と、あなた自身との関係はどうなっているのでしょうか。確かに、この混乱や悲惨はひとりでに発生したものではありません。それは「あなた」と「私」が生みだしたものです。資本家や共産主義者や、あるいは独裁主義者が生んだものではなく、「あなた」と「私」の相互の関係によって生み出されたものなのです。つまり、あなたの心の中にあるものが、外部や世界へ投影されているのです。ありのままのあなた自身、あなたの思考や感情、それにあなたが日常生活でやっていることなどが、そのまま外部に投影され、それが世界になっているのです。もしも私たちの心の内部が悲惨で、混乱したり、混沌としていれば、その投影されたものがそのまま世界になるのです。』(P.30~31)

『要するに、あなたの姿が世界の姿なのです。従ってあなたの問題は世界の問題なのです。明らかに、これは単純で基本的な事実ではないでしょうか。それにもかかわらず、私たちは特定の個人や、多くの人たちとの関係の中で、どういうわけかいつでも、この点を見過ごしているように思われます。私たちは方式や、方式に基づいた観念や価値観の変革によって、社会の改革を期待しています、そして実は、「あなた」と「私」が社会を作っていることや、私たちの日頃の生活態度によって、混乱や秩序が生まれるのだということを忘れてしまっているのです。』(P.31)

『「あなた」と「私」が創造的でないために、私たちは社会をこのような混沌に陥れてしまったのです。従って、「あなた」と「私」が創造的にならなければいけないのです。問題は切迫しています。「あなた」と「私」が、社会の崩壊の原因を認識して、単なる模倣ではなく、私たちの創造的理解を基礎にした新しい建物を創造しなければなりません。』(P.36)

 人間関係における「創造性」というのが、Kの革命のキーワードでした。個人の自由と創造性を重視し、他人の模倣こそが人を凡庸にして、自我を硬直させることをはっきりと指摘したのです。現代の教育や社会、宗教的生活というものがすべて模倣に基づいており、個人の創造性が欠落していると言うのです。

 模倣についてのKの言葉を引用します。

『外面的技術の場合は、ある程度の模倣や真似が必要です。それに対して、内面的、心理的模倣が始まると、確実に、私たちは創造的ではなくなってしまうのです。私たちの教育や社会や、いわゆる宗教的生活というものも、すべて模倣に基づいています。つまり、「私」はある特定の社会的、または宗教的な形式に、私を適合させてゆくのです、その結果、「私」は真の個人であることをやめてしまいます。このようにして、心理面では、「私」はある一定の条件づけられた反応を単に繰り返している機械になってしまうわけです。その反応が、ヒンズー教徒や、キリスト教徒や仏教徒のものであれ、あるいはドイツ人やイギリス人のものであっても、同じことなのです。私たちの反応は、東洋のものでも西洋のものでも、あるいは宗教的、または物質主義的なものであっても、その社会のパターンに従って条件づけられています。それゆえ、社会の分解の根本的原因の一つは、模倣にあるのです。』(P.37)

 それでは、この模倣に陥らないためにはどうすればいいのでしょうか? 社会から与えられた条件付けに縛られずに生きるためにはどうすればいいのでしょうか?

 Kは、まず権威からの自由を説きます。自分が権威や、様々な観念、条件付けによって縛られていることに日常生活の人間関係から気づくことで、それらから解放され、真実に基づいた本来の創造性が発揮されると言うのです。

 とは言っても、個人の自我からの解放の先には、社会、世界の様々な問題との矛盾・対立が待ち受けていることでしょう。いえ、きっと待ち受けています。誰の目の前にも、多かれ少なかれ、波は生じているのです。この波から逃避したり、自分は関係ない、として出家的立場を貫くことは可能かもしれません。しかし、社会の中に留まって生きるならば、むしろそこから目を背け続けることは自分の自由さえ危うくします。なぜなら、「あなたは世界」だからです。

 例えば、社会から分離して、出家信者のように自分だけの解放や幸福を求めるとします。あるいは、自分の家族や小さなコミュニティの中で、束の間の幸福に満足して生活するとしましょう。しかし、それでは自分の周辺の小さな波を乗りこなすことができても、世界の大きな波に飲まれてしまうこともあるかもしれません。独裁政権や、テロリズム、飢餓などに恐怖する国に生きている人たちほど、それは強く実感されることと思いますが、平和な日本に住んでいるからと言って、この社会の波から逃れることはできません。

 自分自身の内的問題であれ、経済格差や、差別、戦争の問題であれ、すべては、有機的に繋がった現象です。世界そのものの働きである自我を見つめ、この荒波に満ちた世界の問題の中核を見つめ、でき得る限りその中心点に立って、できる範囲で調和的な正しい行為をし、正しい見解を持とうと務めることもまた、現代に生きる一人の個人として自由に生きていくために欠くべからざる行為なのではないでしょうか。

 この章の最後にある、人間の創造性についてのKの言葉を引用して終わります。

『分解していく社会の本質を理解するためには、「あなた」や「私」である個人が、創造的になることが可能かどうかを問うことが重要ではないでしょうか。私たちは、模倣が存在するとき、必ず分解が起こること、権威があるところには、模倣が生まれるということも理解することができます。ですから、私たちの精神的、心理的構造の全体が権威に基づいているので、私たちが創造的になるためには、この権威からの自由がなければなりません。あなたは、創造的な瞬間や、生き生きとした興味を感じるあの幸福な瞬間には、反復や模倣の感じがないことに気づいたことがないでしょうか。こういう瞬間は、常に新しく、新鮮で、創造的で、幸福なのです。このようにして私たちは、社会の分解の原因の一つは模倣であり、模倣は権威の崇拝にほかならないということが理解できるのです。』(P.38)


※クリシュナムルティ(以下=K)の思想を理解し、生活の中で実践するためには、そもそも原文であれ、翻訳であれ、テキストそのものに触れるのが一番であることは言うまでもありません。この解読は、あくまでKの思想・哲学を実践することで解放された個人的な体験や、理解、解釈を踏まえてのものですので、興味を持たれた方はKの著作に改めて触れていただければ嬉しく思います。