第4章 自己認識

那智タケシ  

あるがままの自己を知ること――
自己変革こそ真の革命と呼ぶことができる


クリシュナムルティ(=以下K)は、自我というものを「人間全体の働きの産物であり、その一部に過ぎない」と明晰に規定していました。

 自我についての、本章のKの言葉を引用します。

『世界の変革は、「私自身」の全体の変革を通して成し遂げられるのです。というのは、いわゆる私の自我というものは、人間全体の働きの産物であり、その一部に過ぎないからなのです。従って「私自身」の全体を変革するためには、自己認識がどうしても必要になってくるのです。あるがままのあなたを知らなければ、正しい思考の基盤がないのです。「あなた自身」を知らなければ、変革もありえないのです。私たちは、こうありたいと思っている自分ではなく、あるがままの自分を知らなければいけません。こうありたいと思っている自分とは、単なる理想であり、架空の非現実的なものなのです。変革することができるのは、あるがままのものだけであり、こうありたいと望んでいるものではないのです。』(P.42~43)

 Kは、世界の一部である自我を世界から分離した「私」であると思い込み、個々人が自己中心的な活動にいそしむからこそ、世界との調和を欠き、内的に葛藤が生じ、その葛藤が拡大して世界全体が不調和になるという「事実」を明晰に示しました。「私」のあり方が、即世界のあり方なのです。だからこそ、葛藤、不調和に苦しむ「私」のあり方を変革し、「世界」を変革するためには、まずは問題そのものである「あるがままの自我」を見つめる――内的及び、社会的革命の基盤に「自己認識」を置いたのは、ごく当然の帰結でした。

 人間関係の中で揺れ動く自我の働きを見つめるという自己認識をベースとした瞑想は、実は極めて厳しいものです。試してみると、最初、心理的抵抗があると思います。人は、自分の真実の姿など見たくないものですし、見ることも難しいのです。実は、自分の中にある真実というのは、複雑で、面倒な人間関係の中でこそ、はっきりと見ることができます。静かな水面ではなく、波風が立った時にこそ、普段は隠されて、目を背けていた、あなたの中の真実や、自我の「核」が隆起するからです。つまり、葛藤に満ちた人間関係の中でこそ、私たちの隠されていた自我の真相が顕わになるのです。

 Kが頻繁に使う「あるがまま」というフレーズは、昨今の「あるがままでいいんだよ」「そのままでいいんだよ」という一人の人間存在を全肯定するメッセージとはニュアンスが異ることに気づかれた方もいると思います(存在の絶対肯定としての「あるがまま」という言葉を否定するものではありませんが、この言葉は使う者に大きな力量を必要とします。下手をすると自我慰安に人を陥らせ、半端なところで満足させてしまう危険性があるのです)。

 Kの言う「あるがまま」とは、自我の働きそれ自体であり、瞑想とはそれをそのままに直視することです。言わば、最も見たくないものまでも、そのままに、裸のままに見つめることです。自分を見るための方法などない、と彼は言いましたが、それは人が自分の顔を鏡で見るのに方法など必要ないのと一緒です。素顔を見るためには、化粧をしなければいいだけの話です。ただ、見ればいいのです。それだけなのですが、人はどうしても化粧を上塗りしたり、ライトを当てたり、美しい角度からのみ自分の顔を見たいと思うのです。だから、ほとんどの人が、自分の素顔を知らずに生きていることになります。どこかしら、真実の自分よりも美しいセルフイメージを抱いて生きているのが人間というものです。

 Kは、「あるがまま」の自我の働きを――それが美しいものであれ醜いものであれ――真実として認めることが「徳」の始まりであり、自由への道であると言いました。彼の「徳」についての考え方は独自で、注目すべきものだと思いますので、少し長くなりますが引用します。

『たとえあなたが醜くても美しくても、また意地悪で罪作りな人間であっても、そのあるがままの自分を理解することが、「徳」―-真価――の始まりです。この「徳」こそ、私たちにとっては欠くことができないものなのです。なぜならこの「徳」によって私たちは、自由を与えられるからです。あなたが真理を見い出し、本当の生活ができるのは、この「徳」の中だけです。しかもそれは、一般に「徳をつむ」というような意味でのつんだ徳では駄目なのです。そのような徳からは、いわゆる尊敬は生まれるでじょうが、理解と自由は決して出てこないのです。「徳」をもつことと、「徳」をつもうとすることとは違うのです。「徳」はあるがままのものを正確に理解することから生まれてくるのですが、「徳」をつもうとすることは、あるがままのものを理解することを先に引き延ばすことであり、あるがままのものを、こうありたいと思っているものによって糊塗しているだけのことなのです。従って、「徳」をつもうとしていて、実際はあるがままのものから直接に行動することを避けているのです。』(P.44)

 徳とは、「あるがまま」を認めること。それが見たくないものであっても、認めたくないものであっても、自分の真実の姿を認めて、素直に表現することであって、世間的な慈善行為をすることとは関係がない。真実を見つめ、それを受け入れ、自分に嘘を吐かず、正直に、誠実に生きるということです。

 それでは、徳の基盤となる「あるがまま」とはどんなものでしょうか? Kの言う「あるがまま」の概念は、非常に明晰ですので、引用します。

『あるがままのものというのは、「あるがままのあなた」のことであり、「こうありたいと思っているあなた」ではありません。それは理想ではないのです。なぜなら理想は虚構だからです。あるがままのものというのは、あなたが現実に、一瞬一瞬、行為し、考え、感じていることなのです。それは現実であり、現実を理解するには、全身の注意力と、機敏な精神が必要なのです。』(P.45~46)

『そのようなあるがままのものが現実に実在しているものであって、他のいかなる行為も、理想も、観念に基づく行動もすべて実在ではないのです。すなわち、あるがままのもの以外のものになろうとするのは、願望であり、架空の欲望に過ぎないということなのです。』(P.46)

 「あるがままのもの」だけが実在である。

 理想も観念も実在ではない。

 つまり、今、この瞬間に隆起する感情、心の働き、様々な精神的、及び身体的な関係性――それだけが真実であるということです。見も蓋もないようですが、どんなに格好悪く、無様で、ずる賢く、嘘吐きで、卑屈であっても、それがその瞬間におけるあなたの「真実」である、ということです。

 「あるがままの事実」しかない――このものの見方は極めて禅の世界観に酷似しています。「あるべき」というまとわりつく観念を見つめ、脱落させた末には、「あるがまま」の働きだけが拡がり、展開しています。もはやそこには付け加えるものも、修正するものもないのです。

 しかし、一切の宗教的伝統に縛られることのなかったKは、大胆にそこから先に踏み出します。「あるがまま」の働きを認め、それに触れることでのみ、「あるがまま」を変容する自由と創造性を持ちうるのが一人の人間の特権であり、無限の可能性であるとしたのです。「あるがまま」を認め、受け入れ、精神が落ち着いた先にある、個々人の変容の可能性の中にこそ、彼は人類の希望を見い出していました。

 ここには第二次大戦、冷戦という核の脅威に人類がさらされている時代を生き、その恐ろしい現実を直視する中で新しい出口を探ろとうした、真摯な宗教家としての必然があったかと思います。エゴが極端に肥大化し、環境を破壊し、核を持つにまで至った人類は、もはや「一刻も早く自我のあり様に気づき、認め、変わらなければ自滅してしまう」ところまでやって来ている(日本においては、福島の原発事故がそのような危機感を私たちに抱かせたかもしれません)。そうした切羽詰った危機感が、彼の過激なメッセージの中には随所に見て取れるのです。

 精神の変革の起点になるものこそが、「あるがまま」の自己認識だとKは言います。一人ひとりの人間が、それが醜くても、欺瞞に満ちたものであっても、社会常識や宗教的伝統に洗脳され、頑固に条件付けられたものであったとしても、自分自身の真のあり様を真っ直ぐに見つめ、そのままに真実を受け入れることで変容させ(自分が嘘吐きだと認めれば、その人はもう嘘吐きではないのです)、そこから創造的に、何ものにも囚われずに自由に生きる道を歩んで行く。まだ具体的ビジョンにまで昇華されることはなかったかもしれませんが、そんな独立独歩の新しい人間像を彼は描き出そうとしていました。

 権威や、伝統に縛られない、自由で、創造的で、それでいて自我を乗り越えた、万物との調和の感覚を持つ新しい人間がいるとしたら――それは現代社会の価値観からすると超人のようなものかもしれませんが――確かに、教祖やグルは必要ないでしょう。ありとあらゆる宗教的権威や、教典は無用でしょう。個々人の過剰な競争や、ナショナリズムや、イデオロギー、宗教的対立を超えた新しい人々が新しい社会、新しい世界を創造・構築していけば、いずれは核や、戦争をなくすことさえ可能になるかもしれません。

 これを夢物語や、宗教的理想・観念ではなく、「自己認識」から始めて→「気づき」→「受容」→「変容」→「新しい関係性」→「新しい社会の構築」へと、道理が通った事実の連鎖として、Kは自らの哲学を展開しました(この道理を見えにくくしていたのが、彼の神秘体験であったのは皮肉なことですが)。

 人間が真に自分自身を解放し、独自な生をクリエイトしていくためには、一切の権威は必要がない、とKは断言しました。それがどんなに優れた聖典・経典であっても、歴史のある、世間において価値あるとされている宗教や、精神修行のための様々なメソッドや、社会通念であったとしても縛られる必要はない。むしろそれにこだわればこだわるほど、自分の内部にあるあるがままの働きを見つめる自由を奪いかねない、というのが彼の論旨でした。

「マントラの代わりにコカ・コーラ、コカ・コーラ、コカ・コーラと唱えても同じだ」

 こうしたラディカルな言葉は、昨今の宗教家としては極めて珍しいスタンスでしょう。伝統や権威を重んじる宗教界からすればアンチ宗教の立場であり、むしろアヴァンギャルドな芸術家のそれであるとも言えます(しかし、キリストや仏陀を初めとした真の宗教家たちは、いずれも伝統・時代を超克するアヴァンギャルドでした)。

 権威の否定と創造性についてのKの言葉を引用します。 

『権威というものは、自分自身についての理解を妨げるのではないでしょうか。権威や指導者の庇護の下で、あなたは一時的な安心感や幸福感を味わえるかもしれません。しかし、それは自己の全体の過程を理解するものではないのです。権威は、その性質そのものによって、自分自身の完全な認識を妨げ、その結果、最後には自由をも消滅させてしまうのです。』(P.49)

  『しかもこの自由の中にこそ、創造力がひそんでいるのです。そしてこの創造力は、自己認識を通してのみ生まれてくるものなのです。残念なことに、たいてい私たち人間は創造的ではありません。私たちは同じことを繰り返す機械か、私自身や他の人の持っている経験や結論や記憶などからできている歌の文句を、何回も何回も繰り返しているレコード・プレーイヤーに過ぎません。このような反復は創造的なものではありません』(P.49)

『ところが不思議なことに、私たちが望んでいるのは、実はこのような繰り返しなのです。なぜかと言いますと、私たちは内面的な安心感をえたいと思っているために、この安心感がえられる方法や手段を絶えず求めるからなのです。そこから権威や他人の崇拝が生じ、結局、これが理解力や、創造的状態を生み出すことができるあの自然な精神の落ち着きを、破壊してしまうのです。』(P.49)

 内面を見つめるためには、どんな権威も必要がなく、見るための特定の方法も存在しない。そこから先の結論もまた、自分自身で発見するものであり、自分で体感するものであり、その体感を元にどのように生きていくのかもまったくの自由である。個々人の精神がまったくの自由であるからこそ、独自な創造性が生まれ、その創造性が新しい人間関係を作り、新しい社会を作り、世界を変革させていくことができる。

 これは人間という存在の可能性を信じた者の言葉です。一見、現代社会や既存の価値観に対して反抗的で、時にシニカルにさえ聞こえる彼の言葉は、人間存在への絶対的な信頼の裏返しでした。Kは、実は、あまりにも人間というものを信じていました。人間の可能性を信じ過ぎていました。自由と創造性を持った個人から世界が変わる、という道筋は、それこそ現実主義者と言われる人々から見ると、楽観的で、夢想的で、理想的に過ぎるように見えます。人間というものをあまりにも高く見積もっており、過信しているようにさえ聞こえます。

 実際、「誰の権威にも常識にも頼らず、自由であれ」と言われても、「自分はそんなに強くないし、創造的でも、自由でもいられない」と思う方がほとんどでしょう。「そんなことは実現不可能だ」と。「不安になった時には、自分を庇護してくれる権威や、安心感を与えてくれる常識や観念、安心を与えてくれる言葉、道筋を教えてくれる導師のような人が必要だ」と訴えることでしょう。口にしなくても、一人で生きている気になっていても、日々、無意識にそうやって、真実から目を反らしたり、逃避しながら、何とかごまかしごまかし生きているのが現代人というものです。しかし、彼は人間という存在には本来、新しい世界を創造する可能性が備わっていることを知っていたのだと思います。だからこそ、一人ひとりの人間を信じ、「自由で、創造的であれ」と説いたのです。

 人間の創造性についてのKの見解を引用します。

『明らかに、現在私たちがこういう苦境に立たされているのも、私たち大部分の人間がこの創造的感覚を失ったためなのです。創造的になるということは、必ずしも私たちが絵を描いたり、詩を作ったり、有名になったりするという意味ではありません。それは創造力ではなく、ただ思想を表現する才能に過ぎず、こういう才能に対して、大衆は喝采したり、あるいは逆に見向きもしなかったりするのです。才能と創造力を混同してはいけません。才能は創造力ではありません。』(P.49~50)

『創造力はそれとは全く違った状態のことを言うのです。言うなれば、創造的状態の中には自我というものがなく、もはや精神は、私たちの経験、野心、快楽の追求、欲望の中心、あるいは要ではなくなっているのです。創造力は持続的状態ではなく、一瞬一瞬に新しい、一つの動きなのです。しかもこの動きの中には、「私」とか「私のもの」といったものは存在せず、またそこでは、思考は特定の体験、野心、功績や、目的とか動機といったものに囚われなくなっているのです。創造力が生まれるのは、自我が存在しない時に限られるのです。そしてこの創造的状態の中でのみ、真の実在――あらゆるものを生み出す創造主ともいうべきもの――が誕生しうるのです。』(P.50)

 創造力が生まれるのは、自我が存在しない時に限られる――これは逆に言えば、自我を見つめ、「私」「私のもの」という固定観念を一つひとつ解きほぐして解体し、「私」のイメージの中心となる「核」を壊し、それらから自由になっていけばいくほど、誰の中にも創造性が生まれる可能性があるということです。才能の多寡ではなく、人間は一人ひとり誰にでも、このような新しい創造的な生き方、あり方が可能だということです。

 この創造性の発揮は「自分本来のあり方を存分に発揮できるようになる」と言い換えてもいいかもしれません。人は、誰もが世界の子であり、無限界のものとつながった場そのものであり、自由な存在であるのですから、本来、誰もが天才になり得るのです。Kは、自らが既存の伝統に囚われない、まったく独自な言葉を持つ宗教的天才となることで、それを証明していたのかもしれません(彼自身は、ぼんやりした、勉強が得意ではない、教師に怒られてばかりいる子供だったのですから!)。天才とは、誰かより特別に秀でているということではなく、世界の中で自由に、積極的に、創造的な存在として、「誰もが特別」にあるということです。

 それではなぜ、人は天才のように精神が自由でいられないのでしょうか? どうして自我や権威から自由になれないのでしょうか? むしろ、権威や伝統・常識に安住したがるのでしょうか? そこには、「自我への執着」の問題がある、とKは言います。引用します。

『創造的状態は、自我――これは実際は、認識したり、知識や体験を蓄積したりしている心の働きなのですが――この自我が消えたときにのみ、生まれてくるのです。ということは、結局、「私」としての意識が認識の中心であり、この認識は経験を通して蓄積していく過程に過ぎないからです。しかし私たちは、自我が消えて無になってしまうのが恐ろしいのです。なぜなら、私たちは誰でも何かでありたいからなのです。小さい人は大きい人に、不道徳な人間は道徳的な人間になることを望み、弱いものや、身分の低いものは、権力や地位や権威を渇望するというわけです。このように心は休みなく活動しているのです。こういう心は静寂になることができないため、創造的状態を理解することができないのです。』(P.51)

 Kの説く瞑想とは、「あるがまま」の自己認識の流れそのものです。それは「あるがまま」を「あるがまま」に見つめ、そこにある虚構性や、様々な社会的条件付け、自己中心性に真に気づくことによって、直接的に「あるがまま」を変容させていくという厳しい、それでいて確かな、人間の可能性を絶対的に信じた、真っ直ぐな道です。

 精神の静寂に関するKの言葉を引用して、終わります。

『もし私たちがあるがままの自分自身を、刻々に、しかもその体験を蓄積せずに理解していくことができれば、そのときにこそ、精神の産物でもなく、心の中で創造したり、育まれたものでもない、ある「静寂」を知ることができるでしょう。そしてこの静寂の中にのみ、創造的な働きが出現するのです。』(P.52)


※クリシュナムルティ(以下=K)の思想を理解し、生活の中で実践するためには、そもそも原文であれ、翻訳であれ、テキストそのものに触れるのが一番であることは言うまでもありません。この解読は、あくまでKの思想・哲学を実践することで解放された個人的な体験や、理解、解釈を踏まえてのものですので、興味を持たれた方はKの著作に改めて触れていただければ嬉しく思います。