第5章 行為と観念

那智タケシ  

私たちは常に何かになろうとする意志にふりまわされている
あのようになりたいという絶え間ない葛藤が
私たちを苦しめつづけている


人はなぜ葛藤し、苦しむのでしょうか?

 クリシュナムルティ(以下K)は、心の苦しみの最大の原因は、「あるがまま」から離れ、「あるべき」へと至ろうとする自我の働きによるものだと言います。「あるがまま」以外の「何者かになる」「何者かになりたい」という欲求こそが、心に矛盾、分離、葛藤を生み、人を苦しませ、不幸にしていると言うのです。Kの言葉を引用します。

『私たちの日常生活は、常に何かになる過程にほかならないのです。「私」が貧乏であれば、金持ちになるという目的をもって行動します。「私」が醜ければ美しくなるということを望みます。こういうふうに、「私」の生活は何かになる過程なのです。生きる意志というのは、意識の様々な異なったレベルで、またいろいろ違った状況の中で、何かになろうとする意志なのです。そしてその過程の中で、刺激、反応、命名、記録などが生じてくるのです。ところで、この何かになるということは葛藤であり、苦痛ではないでしょうか。つまり、「私はこれである、だから私はあれになりたい」ということは、絶え間のない闘争にほかならないのです。』(p.55)

 Kが言っているのは、人は「私」という確固とした固定点を「自分」だと思い込み、それが故に――固定的で、実体的であるが故に――、「私」を「より良きものにしたい」という心の働きが生まれ、それが苦しみになるということです。

 確固とした枠組みのある、世界から分離した一つの「私」があるが故に、この「私」をより良いものにしたい、さらに特別なものにしたい、大きなものにしたい、より幸福なものにしたい、という心の働きが生まれ、人は「あるがまま」とのギャップに苦しみ続けます。ですから、問題の根源にあるのは、実は、確固とした枠組みのある「私」という単位そのものなのです。

 「私」という確固とした我の認識がある限り、人は必ず「自」と「他」の二元の世界を生きることになります。自分の手の中には「私」という唯一無二の大事な宝しかないとしたら、それをより美しくしよう、より高価なものにしよう、より魅力的なものにしよう、と努力するのは当然です。しかし、その「より良く」は、「他者」と比べて「より良く」なのです。

 ここに自己中心的な――世界中心的と言い換えてもいいかもしれませんが――自我認識の働きの限界があります。「私」と「他者」を分離して、確固とした別々の単位であると認識している限り、そこには必ず比較、競争、葛藤、の戦いが生じ、人の心は永遠に休まることがありません。

 「私」とは何でしょうか?

   人はそれを記憶の総和であり、感情の総和であり、思考の総和であり、身体の総和であり、その総和の集積を一つの「私」であると認識しています。つまり、様々な部屋が寄り集った、確かで、堅牢な、お城のようなものとして「我」を認識しています。問題は、現代人のほとんどは、このお城をあまりにも固い城壁で覆い、他の建築物と分け隔て、塔の高さや、防御の固さや、美しさを競い、そのお城を構成している材料や、部屋のインテリアや、壁の色彩の流行等が、城砦の外からやって来ているものであり、自家生産しているものではない、ということに気づいていないことです。

 人は、自分が思っているよりも、自分固有のものなど持ち合わせていません。自分の思想的傾向であれ(右翼的であれ、左翼的であれ、ことなかれ主義であれ)、様々な知識であれ、技術であれ、世界観であれ、何であれ、それはすべてこの「世界」に隆起した現象を素材にして成り立っています。その素材を集積・編集したものが「あなた」であり、「私」です。それは確固としたものではなく、流動変化しているものです。

 主体的な立場から見れば、「私」とは本来、常に世界に向かって開かれた存在であるはずです。未知に向かって開いた、無限界の存在であるはずです。エゴによって生じたセルフイメージが存在しないとしたら、確固とした、他者から分離した「私」など存在せず、ただこの世界の現象の調和的結晶のようなものがあるだけなのです。

 しかも、この結晶は、瞬間、瞬間、生まれては砕け散り、再び隆起する、この世界の生き生きした、神秘的な働きそのものなのです。つまり、この観点から厳密に見てみれば、絶対的で、固定的な「我」など存在しないということになります。

 確固とした「私」は存在しない、という物言いに、エゴを大きくして成功することを奨励され、教育されてきた多くの現代人は拒否反応を示すかもしれません(悟り世代という言葉もあるくらいですから、そうでもない人もいるのかもしれませんが)。あるいは、自己愛の強い傾向にある人ほど、「私」というセルフイメージを壊したくないと思うかもしれません。しかし、その大きくなったエゴや、美しいセルフイメージこそが、現代人の苦しみの大きな原因となっているのです。そのエゴが成功できなかったり、愛されるべき「私」が愛されなかったり、否定された時、我々は反動として、大きな葛藤、苦しみを味わいます。それが受験の失敗であれ、エリートコースからの挫折であれ、不和な家庭生活であれ、何であれ……

 現代人の多くは、「私」という絶対的な固定点を設けて生きています。それが故に、この「私」が否定された時には、世界の否定であり、全存在の否定であり、生きることの否定となり、出口がなくなって、絶望に陥ってしまうのです。そこで、他人や、社会から否定されないために――他人から尊重され、愛されるために――「私」をよりよく、より美しくしようとする努力が始まります。再び「あるがまま」と「あるべき」の二元のギャップの間で苦しみながら格闘する、あの焦燥感に満ちた、葛藤の日々が始まるのです。

 仏教で言う「無我」とは、この固定化した「我」を破壊した先の「世界」の働きそのもののことを言います。

 「諸法無我」とは、「私」だけではなく、すべての現象に固定的な実体など存在しない、という真理を簡潔に述べた言葉です。

 また「五蘊皆空」といった言葉もあります。五蘊とは、「色受想行識」という人間存在を構成する五大要素のことです。この五蘊が空であること(実体がないこと)を悟ることで、人はエゴや、俗世の執着から免れる、とするのが仏教です。

 般若心経などで表現されているのは、色即是空の「空」とは、「私も」も含めた一切の存在には実体はなく、すべては諸々の現象の関係性によって生じた束の間のものであるから、観念や、我見や、愛着等、すべての執着から本来、人は自由であり、縛られることもない、ということです。その真理を悟ることで平安を得ました、というシンプルな喜びを語っているのが般若心経という有名なお経です。仏教の目指すところは、この空性の認識による無執着であり、平安の境地です。だからこそ、仏教の修行者は俗世の執着から自由になるために出家したのです。

 Kもまた、「私」という固定化した自我を破壊した先に、人間という存在の可能性を見い出した宗教者の一人でした。ただし、時代的背景から、一人ひとりの心の「平安」で終わることをよしとせず、自我の枠組みを壊し、乗り越え、エゴイズムを超克した新しい人々が、エゴを越えた新しい関係性を構築する――すなわち一人ひとりが既存の観念や常識に縛られない、絶対独自な、天才的な存在になって「創造性」を発揮する――可能性に期待していたのだと思います。そしてこの創造的行為の土台にあるものこそが、「私」という中核を破壊した末に生まれる、自発的な「愛」の働きであるとしました。

 さて、一つの感情が隆起した時、私たちの内部に生じる具体的プロセスについて、Kの説明に耳を傾けてみることにしましょう。

『何かを経験している瞬間には、あなたはあなた自身を、経験そのものから離れた経験者として意識しているのではありません。あなたはただ経験という状態の中にいるだけなのです。ここでごく簡単な例をあげてみましょう。たとえばあなたは怒っているとします。怒っている瞬間には、経験者も経験も存在していません。ただ経験しているだけなのです。しかし、あなたがその怒りから抜け出すや否や、経験している状態の直後に、経験者と経験――行為者と目的をもった行為――が現れて、その怒りから逃れようとしたり、あるいはそれを押し殺そうとするのです。私たちは繰り返しこのような本当に経験している状態の中に入るのですが、私たちは常にこの経験の外に抜け出して、その経験にレッテルをはったり、名前をつけたり、記録したりして、その結果、何かになることに持続性を与えてしまうのです。』(p.56)

 今、「怒り」が生じたとしたら、「怒り」は「怒り」です。それはあなたの「怒り」ではありません。「悲しみ」が生じたとしたら、「悲しみ」は「悲しみ」です。「喜び」が生じたとしたら、「喜びは「喜び」です。それはあなた固有のものではなく、瞬間、瞬間、自他の関係から生じ、隆起した一つの現象であり、一つの事実です。その事実を自分にとってネガティブなものだから認めようとしなかったり、無理やりに抑え付けようとしたり、ポジティブなものだから持続させようとしたり、執着したりするのがエゴの働きです。しかし、海の波を手の中に留めてはおけないように、本来、それは「私」の中にいつまでも留めておけるような性質のものではありません。排除したり、改良したり、変更できるものでもないのです。

 つまり、私たちの心の苦しみが私たちの中に根付き、増大してしまう最大の原因は、その瞬間に生じた感情の働きの一つひとつを「私の中に生まれた固有の感情である」と認識してしまうことにあるのです。

 一つの感情に「私の」を付け加え、自分に紐付けてしまうことによって、その感情に執着し、それを変えよう、あるいは抑圧しよう、排除しよう、というエゴの努力、葛藤が生まれ、苦しみが根付き、増大してしまう――これが人間の心理的な苦しみに関する根本的なメカニズムであると思います。

 例えるなら、一つの波のように世界の因果から隆起した感情をお城の中に囲ってしまい、それを「私の感情」だと思い込み、逃さないようにするからこそ、人はその感情を「何とかしなくてはならない」「なくさなければならない」「より良くしなければならない」「再び生じないようにしなければならない」あるいは「手放したくない」などと感じるのです。その感情が「私」のものであり、自分のお城の中から消えてしまうものではないと思い込んでいるからこそ、どうにかしようとして必死になるのです。しかし、波というのは、隆起すれば(本当に表現されれば)どこかに消え去ってしまって当たり前のものなのです。

 「私は怒ってしまったけれど、怒ってはならない」。「私は嫉妬してしまったけれど、本当は嫉妬していないんだ」。「私は自尊心を傷つけられたけれど、本当は気にしていないんだ」という風に、一つの感情に「私」が紐付いていることによって、ネガティブな感情を否定したり、無理やりに改良しようとしたり、目を反らしたり、なかったことにしようと巧妙に心理操作したりしながら、自分を必死に守ろうとするのがエゴの働きです(それは自分の内部を見つめれば、はっきりと見て取れると思います)。

 そうやって、美しいお城の形を保ちたい、あるいはより高い、壮麗なお城に改築したい、と人は望みます。何とかして、自分の中から生まれたネガティブな感情を排除したり、改良したり、役に立つものにしたい、新たな城壁の材料にしたい、と考えるのです。あるいはそれがポジティブなものであれば、いつまでもお城の宝物庫に入れておき、永遠に手放したくない、時々は手に取って眺めたい、などと執着することもあるでしょう。

 Kの哲学は、このお城(自我)自体を解体して、人の精神を根本的に自由にすることを目的としています。そのためにこそ、あるがままの現象をあるがままに見つめ、その一つひとつの働きがどうやって生じてくるかを厳密に見つめ、それが世界の因果や、自己防衛本能から生まれたものであると理解し、「私」からの紐付けを断ち切って、それらから一つひとつ、瞬間、瞬間、自由になっていく作業――「瞑想」を勧めたのです。

 さて、私たちが「自分のものだ」と思いこんでいる「思考」とは何か?ということについて、Kの明晰な説明を引用してみます。

『つまり思考というものは、感覚に対する感覚器官の直接的反応か、あるいは心理的な反応、つまり蓄積された記憶の反応なのです。一方は感覚に対する神経の直接の反応であり、他方は蓄積された記憶――民族、集団、精神的導師、家庭、伝統などの影響――の心理的な反応であり、これら全てを含めたものを思考と呼んでいます。』(p.59)

 すなわち、Kが言っていることは、自分の中に生じた感情、思考、あるいは根付いた観念が、自分固有のものではなく、関係性の因果から生じたものである、ということです。「私だけのもの」など肉体的にも、精神的にも何処にもありません。

 この事実を理解していくと、自分という存在を確固のものとして構成しているように見える、思考、感情、記憶等、ひと固まりにくっついていたものがバラバラに解体され、断片化して地に落ち、世界に帰っていきます。一度に崩壊するかもしれませんし、一つひとつ、積み石を崩していくように消えていくこともあるかもしれません。それはわかりません。どちらにしろその時、人は「それが自分である」と信じ込んでいた堅牢なお城が、空中楼閣のようなものに過ぎなかったことに気づくのです。

 さて、気になるのは、「私」のものだと思い込んでいたお城がなくなった時に、そこに何があるか、ということではないでしょうか?

 「私」という確かな輪郭のある、安定した実存感覚が消え去った時に何があるのでしょうか? お城からの解放の先にあるものは何でしょうか?

 そこには、世界があります。

 主体的に見れば、「私」という確固とした枠組みや、過去の伝統・常識から自由になり、融通無碍に流れ動く現象そのものとダイレクトに繋がって、未知なるものに向かって開かれた、まったく独自な精神があります。

 ここには、新しい人間がいます。

 彼は、新しい動機でもって立ち上がり、エゴという単位を超えた、新しい行為しようとするでしょう。その新しい行為の源になるものは何でしょうか?

 Kは、ここで突然、「愛」という言葉を用います。「私」という単位から始まらない行為がある時、そこに「愛」があると言うのです。

 とは言っても、「愛」の働きがどういうものか、ということについて、彼は多くを語りません。それは一つの答えのある観念ではなく、瞬間、瞬間、具体的に、それぞれが各々の生の中で「表現」していくものだからです。むしろ彼の日記や、手記における自然描写や対話等の透徹した文体の中に、その世界観が刻印されているように感じます。

 最後に、本章のタイトルである「行為と観念」についてのKの印象的な言葉をいくつか引用し、終わります。

『愛があるときに行為があるのではないでしょうか。しかもその行為は私たちを自由にするのではないでしょうか。それは精神作用の結果ではありません。また観念と行為の間にあるギャップは、愛と行為の間にはないのです。観念は常に古く、その影を現在の上に投げかけています。そして私たちは行為と観念の間に、絶えず橋渡しをしようとしているのです。愛があるとき――この愛は精神作用でもなく、観念形成でもなく、記憶でもなく、経験や鍛錬でもありません――この愛そのものが行為なのです。それこそ私たちを解放してくれる唯一のものなのです。逆に精神作用があるかぎり、また観念によって行為が決定されているかぎり、解放はありえないのです。こういう過程が持続しているかぎり、あらゆる行為は制約されているのです。この真実が了解されたとき、精神作用でもなく、またあなたがそれについて考えることもできないような愛の本質が生まれてくるのです。』(p.61~62)

『私たちが観念に縛られているかぎり、私たちは本当に経験することができない状態におかれています。そして私たちはただ単に「時間」の領域で生きることになるのです。つまり過去――そこからさらに別の感情を生んでゆきます――の中で生きたり、あるいは未来――これもまた感情の別の形です――の中で生きることになるのです。これに対して本当に経験ができるのは、精神が観念から自由になったときにかぎるのです。』(p.62)

『観念は真理ではありません。真理は刻々に、直接経験されなければならないものなのです。それはあなたが望んでいる経験ではないのです。というのは、経験は単なる感情に過ぎないからなのです。「私」であるとか、精神であるとか、また部分的、あるいは完全な持続性をもつ諸々の観念を乗り越えることができたとき、そしてそれを超えて思考が完全に静止したときにのみ、本当に経験する状態が訪れるのです。そのとき初めて、私たちは真理が何であるかを知ることができるでしょう。』(p.62~63)


※クリシュナムルティ(以下=K)の思想を理解し、生活の中で実践するためには、そもそも原文であれ、翻訳であれ、テキストそのものに触れるのが一番であることは言うまでもありません。この解読は、あくまでKの思想・哲学を実践することで解放された個人的な体験や、理解、解釈を踏まえてのものですので、興味を持たれた方はKの著作に改めて触れていただければ嬉しく思います。