第6章 信念

那智タケシ  

実は「私」という存在は無であり、空虚な人間であるかもしれない……
そうした不安や恐れを覆い隠すために
私たちは何らかの信念にすがりつこうとする


人間という存在は、今、無数の観念や信念に汚染され、機械的なものになっている。これがクリシュナムルティ(=以下K)の現代人に対する率直な人間観でした。資本主義経済の信者たち、国粋主義者、共産主義者、グローバリスト、自然主義者、人種差別的傾向、キリスト教、イスラム教、仏教、ヒンズー教徒、ある種の宗教的原理主義者たち・・・実に様々な信念に結びついた人たちがいて、いたるところで分裂、衝突を繰り返している現代社会を見渡せば、それは客観的に見て、一つの事実であることが理解されると思います。

 私たち現代人は、あまりに膨大な情報、累積した知識、観念、信条、信念といったものの影響にさらされて生きています。そもそも、私たちは生まれついた時から、その環境を支配する情報・伝統によって条件付けられ、縛られています。あるいは強制的に「おまえは何者か」と社会から定型の役割や正体の選択を迫られて、何かの信念と同一化するように仕向けられているのです。この様々な信念との同一化こそが、人間の精神を凡庸にし、機械的なものにして、創造性を失わせ、葛藤、闘争、病を生み出している、とKは指摘しました。引用します。

『果たしてこの世界で、信念をもたずに生きることが本当にできるのでしょうか。信念を変えたり、別の信念と取り替えたりするのではなく、私たちの生活に一瞬一瞬新しく出会うために、すべての信念から完全に自由になることは、可能でしょうか。正しい解答はこうです――すべてのものに対して、刻々と新鮮に接してゆく能力をもつこと。それは過去の価値判断によって条件づけられたすべての反応を否定すること――すなわち、「私自身」と「私の身辺にあるもの」との間に立ちはだかる障害物を取り払うことです。正しい理解を妨げる、過去に累積された様々な影響力を排除することです。』(P.66)

 それではなぜ人はこうも観念、信念にすがりつくのでしょうか? Kは、自我が肥大化し、自然や、他者や、世界から分離していくことによって、逆に空虚感を覚えることになった現代人の虚無的傾向を指摘します。競争社会の中で勝ち抜くために我々は自我を強固にし、他者より大きなものになろうとします。ところが、自我が大きく、強固なものになればなるほど、逆に世界との繋がりが切れて、自分を小さく、無意味なものに人は感じてしまうのです。信念や観念の鎧を重ね着すればするほど、本来なら自分と等価な自然や、事物や、他者と本質的に繋がることができず、孤立した存在になってしまうからです。だからこそ、さらに自我に強固な信念や観念を結びつけ、さらに巨大で、確固なものにすることで自らの空虚を埋め合わせようとする――この自我拡大と世界縮小の矛盾のスパイラルをKは指摘しました。引用します。

『私たちがもし何らかの信念をもっていなければ、私たちはどうなるでしょうか。今後起こるかもしれないことを、私たちは非常に恐れるのではないでしょうか。私たちが何らかの信念に基づいた行動の型――たとえば、神、共産主義、社会主義、帝国主義、あるいはある種の宗教的信条や教義といった私たちを条件づけるものがもしなければ、私たちは全くどうしてよいか分からなくなってしまうのではないでしょうか。実は自分の存在は無であり、空虚な人間であるかもしれない……そうした不安や恐れを覆い隠すために、私たちは何らかの信念を受け入れようとしているのではないでしょうか。』(P.67)

『しかしコップというものは、空のとき初めて役に立つのです。これと同じように、信念、教義、主義、引用句などを一杯詰め込んだ精神は、実際には非創造的な精神なのです。それは与えられたものを反復する精神に過ぎません。空虚や孤独に対する不安、停滞していることへの不安、何かに到達したり、成功したり、成し遂げたりできないという不安、ひとかどの人間でもなく、またそのような人間になることもできないことに対する恐れ――こういう不安から逃げ出そうとすることが、私たちがこれほどまでに熱心に、貪欲に信念を受け入れている理由の一つなのです。』(P.67)

 私たちは、何者でもないことに耐えることはできません。それは存在そのものへの信頼・信仰を失った証とも言えます。あるいは、自然との繋がりが断絶したことによる、自己充足感の欠如の証明です。他者や、自然、宇宙からの分離したあり方が、存在それ自体の豊かさを感じる能力を現代人から喪失させてしまいました。だからこそ、「ただ存在するということ」それ自体に虚無を感じ、自分自身が社会において何者かにならなければ、生きていることの実感・豊かさ、自己肯定感を持つことができなくなってしまったのです。それ故に、現代人の多くは成功を求めたり、SNSで「いいね」をたくさんもらうことで承認欲求を満たしたり、自分より大きな信念や観念と一体化することで、自己充足感を取り戻して、自らの本質的孤立・空虚さから目を背けようとするのです。

 また、社会的成功や、定型の信念との同一化に懐疑的な人は、ある種の知識を溜め込むことで自らの空虚を満たそうとします。様々な方程式や、哲学、思想などのペダンチックな知識を溜め込み、博識になることで、自らの空虚感、虚無感を埋め合わせます。その知識の蓄積は、「人よりも私は知っている」という自尊心の充実を味わわせ、他者から尊敬を勝ち取ることもできるかもしれません。それが雑学であれ、アカデミックな学問であれ、伝統宗教の膨大な知識についてであれ、同様です。「私はおまえより知っていて、わかっているのだ」という自尊心や、優越感、他人からの尊敬という心地よさを人に与えるでしょう。しかし、このあり方もまた、真の豊かさや、真実からはほど遠い、とKは指摘します。観念や信念との同一化と同様、様々な知識の蓄積もまた、人間の精神に真実を受け入れるスペースを与えず、機械的で、定型の反応しか生み出さない凡庸さに留まってしまう結果になるからです。引用します。

『この知識と信念という二つのものが、私たちの生活の中で異常なほど強力な役割を果たしていることを観察するのは、とても興味深いことです。膨大な知識のある人や博識家を私たちは大変尊敬しますが、それがどのような意味をもっているかあなたはお分かりでしょうか。もしあなたが、あなたの想像を投影したものではない、何か新しいものを発見したり体験したいと思うなら、精神は自由でなければなりません。精神はその新しい何かを見ることができなければなりません。しかし残念なことに、あなたが何か新しいものを見るたびごとに、あなたは既知の情報や知識や記憶をそこに持ち込んでしまうのです。そしてその当然の結果としてあなたは、過去の古いものではない全く新しいものを、見たり受け入れたりすることができなくなるのです。』(P.74)

 Kは、真実を発見し、感じ、実際にそれと繋がるためには、精神の自由が必要だと言います。しかし、私たち現代人は、精神のスペースを膨大な知識や信念で一杯にしてしまって、真実を受け入れる余地を持ちません。そこで必要になるのが、「あるがままの自分を見つめる」という動的瞑想になります。まずは、自分自身の真実の姿を直視する――そこからのみ、新しい存在のあり方が可能になるのです。膨大な情報・観念と結びつき、自我が肥大化し、精神のスペースを失った我々現代人は、まずはこの事実をそのままに認識することから始めるほかないのです。引用します。

『それではどうすれば精神は信念から自由になることができるでしょうか。それは次のような時にのみ可能になります。それは、あなたを信念にすがりつかせている原因や、あなたを信じさせている意識的及び無意識的な動機の内面の本質について、あなたが理解した時なのです。その時にのみ、あなたは信念から自由になることができるのです。』(P.76)

『「信念は人間を結びつけている」などと、どうか言わないでくざい。そのようなことは絶対にありえません。いかなる既成の宗教も、今までに人間を結びつけたことはありません、あなたの国に住む人々を見てごらんなさい。人々は皆様々な信念の信奉者ですが、果たして仲良くしているでしょうか。そうではないということに、あなた自身お気づきだと思います。』(P.77)

『しかし問題は、私たちの大部分がその真相を見ようとしないことなのです。なぜかと言いますと、私たちの心の中の不安や孤独感に面と向かうことができないからなのです。私たちは寄りかかるものが欲しいのです。それが国家や、階級制度や、民族主義でも、またキリストのような救世主でも、なんでもいいのです。そして私たちがこれらすべての虚偽を見抜いたとき、たとえそれが一時的で、ほんの短い時間であっても、精神はその真実を見ることができるようになるのです。それが精神には重荷すぎたとしても、その精神はまたそこへ戻っていくのです。一時的に見るだけでも十分なのです。もしほんの一瞬でも見ることができれば、それで良いのです。なぜなら、そういう時に、あなたの心の中で驚くべきことが起こっていることに気づくからです。つまり、たとえ意識の方が拒否しても、無意識の心が働きだすからです。その一瞬は持続するものではありません。その一瞬がすべてなのです。たとえ意識的な心が反抗しても、その一瞬はそれなりの結果をもたらすのです。』(P.77~78)

 Kは、一瞬でも真実を直視することが重要である、と言います。ある種の観念・信念と結びついて「自分がいびつになっている」ことや、「傲慢になっている」ことや、「あるがままの真実とは異なる、美しいセルフイメージを持っている」ことや、「ある民族や人種を差別している」というありのままの事実を直視した時、その真実の認識それ自体が精神を変容させ、自我と結びついている様々な断片から人を自由にするのです。一瞬でも、意識的に直視することで、無意識が働き出す、とKは言います。

 自己認識によって様々な条件付けから自由になっていくと、強固な自我の枠も解体していきます。自らと一体化していた様々な断片を断片として世界に帰し、自らの自我も断片化して分解し、「私」という強固な枠組みを解体することで、逆に事物と繋がり、自然と繋がり、万物と繋がって、知識では決して理解することも感じることもできない、「真の実在」とでも言うべき創造的な流れの中に人は入っていくことができるのです。引用します。

『新しいもの――それは真理でも神でも、何と呼んでも構いませんが――が起こる状態に入りたいと願う人は、何かを獲得したり集めたりすることをきっぱりとやめなければなりません。精神はあらゆる知識を脇へ片づけておかなければならないのです。知識という重荷を背負った精神が「真の実在」を理解することは、全く不可能です。なぜなら、「真の実在」は測り知ることができないものであるからです。』(P.79)


※クリシュナムルティ(以下=K)の思想を理解し、生活の中で実践するためには、そもそも原文であれ、翻訳であれ、テキストそのものに触れるのが一番であることは言うまでもありません。この解読は、あくまでKの思想・哲学を実践することで解放された個人的な体験や、理解、解釈を踏まえてのものですので、興味を持たれた方はKの著作に改めて触れていただければ嬉しく思います。