第7章 努力

那智タケシ  

「努力」とは自己中心的な活動である
自我を中心とした活動は闘争と混乱と悲惨を生みだすだけである


努力とは自己中心的な活動であり、人を幸福にすることはない――このクリシュナムルティ(=以下K)の言葉は、幼い頃から努力を推称され、強いられてきた私たち現代人からすると、大きな抵抗を感じることと思います。

 良い学校に入るために勉強を努力し、クラブ活動でレギュラーになるためや、プロになるためにスポーツを上達する努力をし、社会で成功するために様々な努力をする。資格を取るにも努力が必要だし、習い事でも上達するためには努力が必要でしょう。努力をすれば人から褒められますし、達成感を持つこともできます。時には、挫折も味わいますが……

 努力は美徳である――これが資本主義社会に生きる私たちの支柱であり、固定観念であり、神なき時代の信仰そのものです。

 もちろん、何らかの資格や、専門的技術を習得するためには努力が必要です。医療の技術であれ、職人的技術であれ、パソコンであれ何であれ、具体的な学びを積み重ねることで、人はプロとしての仕事を得たり、誰かの役に立つことができるようになるのですから。実は、Kが言っているのは、具体的努力の成果や、その是非についてではありません。専門的な技術の習得については必要であることをはっきりと明言しています。

 問題は、技能的上達の側面にあるのではなく、この努力の根底にある我々現代人の心理的動機です。その動機が、「何者でもない私」「空虚な私」「存在しているだけでは無意味な私」からの逃避である時、それが「あるがまま」の真実から目を背ける、終わりなき葛藤になってしまうことをKは問題にしているのです。引用します。

『それでは私たちはなぜ努力するのでしょうか。簡単に言ってしまえば、それは一定の成果を収め、ひとかどの人間となり、目的に到達するためではないでしょうか。もし努力しなければ、私たちは沈滞してしまうだろうと考えるのです。』(P.80)

 オールを漕ぎ続けないと沈んでしまう小船のように、私たちは努力をし続けないといけない、社会において何者かにならなくてはならない、頑張り続けなくてはいけない、と幼い頃から教育され、条件付けられて生きています。だから、努力するのは当たり前であり、良いことだと信じ込んでいるのです。しかし、Kは、そうした努力とは自我による自己中心的な活動そのものであると言います。引用します。

『さて、これらすべての努力は自我の活動ではないでしょうか。また努力は自己中心的な活動ではないでしょうか。もし私たちが自我を中心として努力するならば、それは必ずより一層多くの闘争や混乱や悲惨を生み出すのです。それなのに私たちは引きも切らずに努力し続けているのです。しかも、努力というこの自己中心的な活動が私たちのいかなる問題も解決しない、ということを認識している人は、ほとんどいないのです。解決するどころか、それは私たちの混迷や不幸や悲しみを増大させているのです。私たちはこのことを、よく承知しています。しかも私たちは、努力――すなわち意思の行為に基づくこの自己中心的活動を、何とかして克服したいと願いつづけているのです。』(P.81)

 努力が人の不幸や悲しみを増大させる。これは私たちが幼少期から受けてきた教育と真逆の価値観です。学校でも、塾でも、努力する子どもが賞賛されます。こんなことを教える親や、教育者はどこにもいないでしょう。既存の宗教の宗教者さえ、このようなことは明言しません。仮に敗者になっても、努力自体が人を成長させたとして、賞賛されます。しかし、不自然なまでに肥大化し、硬直化した自我の問題のみにフォーカスし、徹底的にそれを崩壊させ、終わらせることに特化した彼の教えは、現代人が美化する努力というものの欺瞞的側面を見逃しません。引用します。

『努力とは、あるがままのものをそれとは違ったものに、つまりあるべきものとかなるべきものに変える闘いを意味していないでしょうか。私たちはあるがままのものに直面することを避けるために、絶えず闘ったり、あるいはあるがままのものから逃避しようとしたり、それを変えたり直したりしようとしているのです。真に満足している人間というのは、あるがままのものを理解し、それに正しい意味を与えている人です。それが本当の満足なのです。それは物を少ししか持たないとか、たくさん持つという問題ではなく、あるがままのものの全体の意味を理解することなのです。この理解は、あるがままのものを変えたり修正しようとしているときには決して生まれるものではありません。あなたがそれをあるがままに認識し、自覚するとき、初めて生まれるものなのです。』(P.82)

 努力とは、「あるがまま」からの逃避である。

 この言葉に抵抗がある人でも、日常の中でわかりやすい例を挙げれば、共感することもあるかと思います。例えば、美容整形です。「老い」と直面することを避けるために、美容にお金をかける。白髪染めや、コスメに凝るくらいなら、それを逃避とは感じないでしょう。ところが、美容整形となると一つのハードルがあります(現代はその抵抗も薄くなっているようですが)。芸能人が年齢を感じさせないためにひたすら美容整形手術を繰り返して、何とか若さを保とうと努力し、別人のような顔になっていたら、「あるがままの真実からの逃避」を誰もが感じるのではないでしょうか。

 その行為は、人の目を気にしてのものだけではなく、自分自身、老いて醜くなっている、という真実を見たくないがためであるかもしれません。過去の、美しいセルフイメージにすがりついているからかもしれません。すると他人は、そこに、ごまかしを感じてしまうのです。自然ではない、と感じてしまうのです。こうした努力は真実からの逃避であるから、美しくないと感じます。老いには老いの美しさがある、と。

 問題は、美容整形の是非ではありません。美しくありたい、と思うのは生物学的にも自然のことです。コスメも白髪染めも本質的にはやっていることは変わりません。ただ、そこに「あるがままの真実からの逃避」という無意識の動機が強力に働いている時、そうした人は自分の容姿に限らず、本当の自分自身の精神に直面することから逃げ続けるだろう、ということです。

 我々現代人のほとんどは、意識的にも無意識的にも、他人よりも価値のある何者かになるために努力をし続けています。誰もが、子どもの頃から偏差値教育で競争をし続けてきたのですから当たり前です。この社会は競争社会であり、努力をし続けないものは価値がない、勝ち続けなければ意味がない、という世の中に生きています。努力をしなかったり、達成できなかったり、勝者になれなかった者、何者にもなれなかった者は無価値とされてしまう。経済的にも不利な状況に陥り、ないがしろにされてしまう。人間とはそういうものだ、という社会に生きていたら、生き延びていくために必死に努力をするのは当たり前です。子どもを持つ親からしたら、努力しないとこの子が社会から落ちこぼれて不幸になってしまう、と心配するので、子どもに努力を強いるのは当たり前、ということになります。

 しかし、その努力の根底にあるものが何かを理解しようとする人はいません。それを理解した上で、それでも生きていくために、あるいは夢を叶えるために努力をする、というのなら話は別ですが、誰も努力そのものの根源に何があるかを問うたりしません。単に、努力は尊い、と信じているからだけではありません。実は、その奥底には私たち現代人が見たくないものがあるのです。無意識の内に、恐怖しているものがあるのです。

 それは「無」です。この「無」は、「有」の土台になっている玄妙な無為自然の「無」ではありません。無価値の「無」です。経済的・社会的価値がないというネガティブな意味での「無」です。つまり、神なき時代における「無」なのです。人間という存在それ自体を無意味にし、貨幣的価値がある者だけが「有」として認められるという世の中において、人間の尊厳の剥奪から生じる無価値の「無」なのです。私たちは、この「無」が怖いから必死に努力をするのです。引用します。

『努力とはあるがままのものから目をそらすことなのです。「私」があるがままのものをあるがままに受け入れてしまえば、即座に闘争は終わるはずです。ところが、何らかの形の争いや闘争があるということは、その人があるがままのものから目をそらしている証拠なのです。そしてこの目をそらすことから努力が生まれるのですが、これは「私」が心理面であるがままのものを、それとは違ったものに変えたいと望んでいる限り、どうしても消えないのです。』(P.83)

 あるがままのものを違ったものに変えようとする行為。つまり、人はそのままでは無意味である、という社会に生きているから、我々は努力し続けなくてはならない。しかし、「あるがまま」から「あるべき」への終わりなき努力の行為は、常に心理的葛藤を伴うことになります。

 人は、どこかで「あるがまま」を受け入れる必要があるのです。例え、それが一旦は無意味なものに感じられたとしても……。それは努力によって見逃されてきた、「自分は何もしなければ無意味であり、無価値であるかもしれない」という恐怖からくる空虚感、虚無感なのです。引用します。

『それではなぜ人間には、目的や願望を達成したいという欲望があるのでしょうか。明らかに、目的を達成したり何かになろうとする欲望は、自分が何ものでもないことを自覚しているときに起こるのです。「私」が何ものでもないから、また「私」が不十分であり、空虚であり、心が貧しいから、何かになろうとして闘いが始まるのです。外面的にも内面的にも、「私」は人間や物や観念の中で、「私」の目的や願望を達成しようとして闘争するのです。この「私」の空虚を満たすために、「私」の生涯を費やすのです。』(P.85)

 Kは、真実の自分に直面し、真実の生を生きるためには一旦、努力することを止め、この空虚に正面から向き合わねばならない、と言います。自分がこれまでの努力によって身につけてきたすべての社会的価値や肩書き、プライドを捨てた時、そこには何のアクセサリーも身につけていない、財産も、尊称もない、孤独で、裸の自分がいます。社会において何者でもない、空っぽな、たった独りで立っている自分がそこにいます。しかしそのようにして独り、大地に立つ時、人は初めて自我の外にあるものを受け入れる余地を持つのです。自分の外にあるものを感じる可能性を持つのです。自らの空虚さを見つめ、留まり、受け入れて、空を見上げる。すると、そこに流れ込んでくるものがあります。それは何でしょうか? 引用します。

『それではもし逃避しようとしなければ、どういうことになるのでしょうか。その人はその孤独と空虚と共に生きることになります。しかもその空虚さをそのまま受容したとき、奮闘や努力とは何の関係もない創造的状態が出現したことに、私たちは気づくのです。私たちが内面の孤独や空虚さを回避しているときにのみ、努力が必要なのです。しかし私たちがそれを見つめ、観察して、あるがままのものを避けずに受け入れたとき、私たちはあらゆる奮闘が消えてしまったある状態が生まれたことに気づくのです。その状態そのものが創造力なのです。そしてそれは、奮闘の結果ではないのです。』(P.86)

 空虚さを理解し、受け入れて生きる時、人はもはや自分が空虚な存在でないことを自覚します。自我や思考を超えた、未知なるもの、生き生きしたものに接触し、自我の充足によるものとは別の大きな力を直に感じることができるようになるのです。人は、その力と共に生きることで、努力による達成とは異なる万能感、充足感を持つことができるようになります。そしてまた何者かに生かされ、愛され、また自ら愛することができるのを知るのです。引用します。

『あなたが内面の不十分さを自覚し、逃避しないでそれを完全に受容し、それと共に生きるとき初めて、あなたは驚くべき静寂を発見するでしょう。この静寂は、作ったり、組みたてたりしたものではなく、あるがままの理解と共に生まれてくる静けさなのです。この静寂の中にのみ、創造的人間が存在するのです。』(P.87)


※クリシュナムルティ(以下=K)の思想を理解し、生活の中で実践するためには、そもそも原文であれ、翻訳であれ、テキストそのものに触れるのが一番であることは言うまでもありません。この解読は、あくまでKの思想・哲学を実践することで解放された個人的な体験や、理解、解釈を踏まえてのものですので、興味を持たれた方はKの著作に改めて触れていただければ嬉しく思います。