第8章 矛盾

那智タケシ  

「私」はマネージャーになることを望み
次にはオーナーになりたいと思う
何かになりたいと思う欲望にかりたてられるとき
矛盾が生まれる


心理的矛盾とは、「あるがまま」の自分の真実を受け入れようとせず、目を背けて、「あるべき」自分を追い求めることから生じます。常に、本当の自分よりも「美しく」「賢い」「有能な」「尊敬される」自分というセルフイメージを持ち、そのイメージに向かって、矛盾を埋め合わせるように「あるがまま」から「あるべき」への努力を続ける。この終わりなき葛藤のプロセスが、クリシュナムルティ(以下=K)が言うところの心理的矛盾です。

 人は、「あるがまま」の真実を認め、その上に立って生き、表現する時、真実であり、自由であり、自由であるがゆえに創造的であることができます。また、他者や自然も自分と同じように等しい価値あるものとして認め、愛することができるようになります。つまり、自分自身の自我を見つめ、「あるがまま」の真実の上に立つということは、そのまま世界の上に立つことでもあるのです。

 あなたも、他者も、自然も、宇宙も、思考も、感情も、ひとしなみの「あるがまま」の存在です。すべては繋がった現象であり、別々のものではありません。「あるがまま」というのは地続きなのです。ですから、「あるがまま」の自分を認め、その上に立ち、地平線まで見渡した時、「あなた」は「世界」であることが自ずと理解されてくるのです。

 その時、あなたは無数の「あるがまま」の現象・断片によって敷き詰められた大地に立っています。この地点において、初めて人はすべての存在に対する慈悲や、利己的ではない愛というものを感じ、また小さな所からでも少しずつ愛を実現することができるようになっていきます。

 すなわち、自分自身の裸の姿を認め、その土台に基づいて生きるという自己超越からのみ、世界超越の見地が生まれるのです。 

 「嫉妬深い私」や、「プライドが高い私」、「自己欺瞞をしている私」を認める小さな一歩は――最初は困難で、勇気を必要とする一歩かもしれませんが――この世界をひとしなみに愛する道を歩みだすことになる、大きなおおきな一歩にもなるということです。

 それがどんなにちっぽけなものであっても、「あるがまま」という真実の基盤の上に立つ時、あなたは神よりも、聖者よりも、尊い教典よりも、イデオロギーよりも、権力よりも、常識よりも、何者よりも上位にある、絶対的に自由な何者かになっています。なぜなら、足元の石ころもまたこの大地の一部であり、あなたがその上に真っすぐに立つ時、この世界全体の上に立っていることになるからです。

 そこから次に、何が起こるでしょうか?

 世界全体を見渡してみましょう。すると様々なゆがみ、起伏が見えるはずです。様々な欲望、葛藤、苦しみ、悲しみ、エゴの罠に満ち溢れた起伏に富んだ土地が拡がっています。そこにあるゆがみや、罠に、足を取らたり、転んだり、落ちたりしないようにバランスを取りながら注意深く歩き、時に迂回したり、時に乗り越えたり、時に岩を破壊したり、地ならしたりしながら、人と関わり、自然と関わり、愛し、自分らしさを表現していく。その時、あなたは、知らずしらずのうちに、このゆがんだ世界を整え、調和させる役割を担う人になっていることでしょう。

 一方、「あるべき」を求め続ける人生は、一見、自由に見えて、自由ではありません。なぜなら等身大の自分よりも常に大きな何かを自分よりも高い位置に置き、それに向かって努力するということは、「あるがまま」の大地の上に「あるべき」という断片を常に据え置いている状態になってしまっているからです。この構図の中にある人は、知らずしらず「あるべき」という架空のイメージに仕える奴隷のような存在になっています。そうしたあり方は、自分よりも高い位置にあるように見える教祖や、架空の王様に、一生仕え続ける信者や、従者のようなものとなんら変わりません。あなたは真実に基づいて自由に、創造的に生きているのではなく、架空の王に仕え続けているのです。そうした人生のどこに自由があるでしょうか?

 「あるべき」を追いかけ続けるという生のあり方は、理想のイメージと一致しようとする欲望を原動力にしています。しかし、イメージというのは、事実ではありませんから、人が世界や自然と調和して生きる土台にはなりません。それはいかにも不自然なあり方なのです。自然から分離した生活を送るようになった私たち現代人は今、内的自然からも分離しようとしているのです。そうして、不自然な状態で無理をして、日々悪戦苦闘しながらも、何とか資本主義競争社会を生き延びている――これが私たち現代人のあからさまな姿であり、真相であり、葛藤や苦しみの本質的原因であると思います。

   こうした心理的矛盾に関するKの端的な言葉を引用します。

『私たちの心の中には絶えず否定と自己主張――つまりこうありたい自分と、実際の自分――が存在しているのです。このような矛盾の状態が対立を生みだすのですが、この対立からは決して平和は生まれてまいりません。これは単純明快な事実です。』(P.88)

 しかし今や、この矛盾こそが、競争社会に生きる私たちの生きる目的であり、充実であり、日々の行動の原動力そのものになっている有様なのです。その成功と失敗の狭間の中に、多くの人は生の充実を感じます。反面、この矛盾こそが私たちを苦しめ、極度の経済的格差を生み出し、多くの社会的弱者と言われる人々や、貧困国に生まれた無数の人々が、人間としての尊厳を奪われた生活を送っていることはまぎれもない事実なのです。こうした矛盾の中に生きている限り、本当の意味での慈悲や、愛に基づいた社会が実現しないことは明白ではないでしょうか。Kの言葉を引用します。

『それではここで、私たちが今置かれている状態を明確にしておきましょう。まず、矛盾があります。それゆえ、必ず闘争が生じます。そして闘争は破壊であり消耗だということなのです。こういう状態の中では、敵対や闘争や、また一層過酷な苦しみや悲しみ以外に、私たちは何ものも生みだすことができないのです。そこで、もし私たちがこの問題を完全に理解し、この矛盾から自由になることができれば、そのとき私たちは心の平和を得ることができ、従ってそれが私たち相互の理解をもたらすことになるのです。』(P.89)

 つまり、この矛盾を根本的に解消してしまえば、人は幸福に、生き生きと、自分らしく生きていくことができる、ということです。そしてまた、矛盾から自由になった人々が繋がり合い、触れ合い、関係し合うことによって、新しい社会のあり方も可能になるということです。

 「あるがまま」から「あるべき」への終わりなき欲望。この条件付けは、経済的成功を追い求める社会生活の中のみならず、いわゆる精神世界と言われるような一見、欲望から遠く離れているように見える世界にも当たり前のように浸透し、蔓延しています。Kの言葉を引用します。

『たとえば、私は仕事を見つけたいと思います。つまり、自分の幸福の手段として、一つの仕事を求めるのです。そして仕事を得ると私は不満を覚えるのです。私はマネージャーになることを望み、次にはオーナーになりたいと思うのです。しかも現実の世界だけではなく、いわゆる精神世界でも事情は同じなのです。教師は校長に、牧師は司教に、生徒は先生になることを望んでいるのです。』(P.90~91)

『あなたは何かに到達したり、成功することを望んでいます。また、永久的な満足を与えてくれるような、究極の神とか、真理を発見することを望んでいます。従って本当は、あなたは真理や神を求めているのではないのです。あなたは持続する満足を求めているのであって、その満足を神とか真理というような観念や、体裁の良い言葉で覆っているだけなのです。実際は、私たちは誰でも満足を求めているものなのです。そしてその満足や喜びを「神」と名づけて最高位に祭り上げ、最下位には「酒」がくるといった次第なのです。精神が満足を求めている間は、神も酒も大差はないのです。』(P.92)

 結局、人は自分自身の真の姿に直面することによってしか、自分自身を根本的に変容させることはできません。自分を変えることのできるのは、教祖や聖者ではなく、自分だけです。松葉杖はもう、いりません。赤ん坊が二本の足で初めて大地に立つ瞬間のように、私たちもまた自分の足でこそ立ち上がり、新たな道を歩き出すべき時が来たのです。

 しかし、私たちは今この瞬間、なかなか立ち上がろうとしません。架空の自分を求めてあがき続けるか、社会から与えられた価値観や、自分よりも高い所から降ってくる神聖な言葉の中に生きようとします。どちらにせよ、「あるべき」を追いかけ続けるという、終わりなき「時間」の中に閉じ込められているのです。引用します。

『それでは、私たちに矛盾をもたらすものは何でしょうか。言うまでもなくそれは、何かになろうとする欲望ではないでしょうか。私たちは皆、何かになることを望んでいるのです。世の中で成功したいと思ったり、内面的にはある結果に到達したいと思っているのです。私たちが、「時間」や、「成功」や、「地位」の観点から考えているかぎり、矛盾が生じるのです。これは避けがたいことです。結局、精神は「時間」の産物なのです。』(P.92)

『しかしながら思考というものは決して静かになることができません。時間の産物である思考は、永遠のものを発見することができませんし、時間を超えたものを知ることができません。私たちの思考の本質そのものが矛盾なのです。なぜなら、私たちは常に過去か未来の観点から考えるからなのです。従って、私たちは現在を完全に認識し、完全に知るということがないのです。』(P.94)

 「なりゆく」という時間のプロセスの中で、私たちは「あるがまま」の真実から遊離した思考を生じさせ、「ああした方がいいのかもしれない」「こうなりたい」「こうするべきだろうか」という終わりなき頭の中のおしゃべりを続けます。このおしゃべりは、常に、「あるべき」に向かい、「あるがまま」から遠ざかろうとする精神の働きによって生じたものです。この瞬間から遊離した思考の働きこそが、「時間」の正体である、とKは喝破します。

 頭の中のおしゃべりをやめ、時間の中での夢想との戯れを卒業し、「あるべき」を求め続けることによる葛藤から自由になるためには、瞬間、瞬間の「あるがまま」の自我の働きそれ自体を正確に見つめる自己認識が必要になります。自らが立つ足元の土台を固めていく誠実な自己認識によって、人は時間を超克し、瞬間、瞬間の「あるがまま」の真実を土台にして、揺らぐことなく、自分らしく生きていくことができるようになるでしょう。

 自分自身の真実からこそ、自由へ道が始まるのです。

 この道を歩き出すことは、今、この瞬間から、誰にとっても可能です。自由への扉は、誰にでも開かれているのです。

 Kの言葉を引用して終わります。 

『こういうわけで、思考の様式が存在するかぎり、矛盾は続くのです。ですから思考の様式と矛盾を終息させるためには、どうしても自己認識がなくてはならないのです。このような自己の理解は、必ずしもかぎられた少数者だけの占有物ではありません。自己というものは、私たちの日常の会話の中や、私たちの物の考え方や感じ方の中や、あるいは私たちが他の人々を見る態度の中で理解できるのです。もし私たちが刻々に私たちのあらゆる思考や感情を知ることができれば、そのとき、自他の関係の中で自己の働き方や特徴が理解されるという意味が分かることでしょう。そのようなときにのみ、あの精神の静寂の可能性が生まれるのです。そしてこの静寂の中にだけ、究極の「真の実在」が誕生しうるのです。』(P.95~96)


※クリシュナムルティ(以下=K)の思想を理解し、生活の中で実践するためには、そもそも原文であれ、翻訳であれ、テキストそのものに触れるのが一番であることは言うまでもありません。この解読は、あくまでKの思想・哲学を実践することで解放された個人的な体験や、理解、解釈を踏まえてのものですので、興味を持たれた方はKの著作に改めて触れていただければ嬉しく思います。