第9章 自我とは何か

那智タケシ  

何かになろうとする欲望、それを求める努力、競争心――
この精神の働きの全体が自我である。
こうした精神の働きは、自己を他者から分離し
自分自身を隔離する


クリシュナムルティ(=以下K)は「自我は邪悪なものである」と明言します。なぜなら、人間の中核にある自我の働きこそが、自分と他者を分離し、競争させ、闘わせる源になっているからです。自我とは本来、生物学的には厳しい自然環境の中で個体を守る生存本能から生まれたものでしょう。しかし、この自然から分離した資本主義社会においては、自我は他人に勝ち抜くために発展していき、過剰なまでに肥大化していきました。だからこそ、自然の本能から生まれた自我が「邪悪」といわざるを得ないまでに大きなものになってしまったのです。Kの言葉を引用します。

『この自我の中には競争心や、何かになろうとする欲望が含まれています。この精神の働きの全体が自我なのです。そして私たちが実際にこの自我に直面するとき、それが邪悪なものであることに気づくのです。この邪悪なという言葉を、私は故意に使っています。というのは、自我は自他を分離するものであるからです。つまり自我は自己を閉鎖するものです。』(P.97)

 Kは、この自我という自他をはっきりと分け、優越感を持とうとする中核を「完全に消滅させなければならない」と言います。この肥大化して、硬直化した自我の働きこそが、現代の様々な問題の中核にあることは明白です。自我が行き着いた先は、核武装という人類史上最大の暴力によって威嚇し合うことで何とか戦争を押し留めている、という極めて矛盾した世の中であり、私たちはその緊張関係の中で生きているという「異常さ」を改めて自覚しなければなりません。しかし、この「異常さ」に気づかずに、それが当たり前であり、時には「必要悪」であるなどと洗脳されて生きているのが私たち人類の大半です。Kは、こうした事実を明晰に自覚していたからこそ、「自我の終焉」こそが人類が生き延びる術であり、また人類の大きな可能性そのものであることを説いたのです。引用します。

『このようにあなたの中で自我が活動しているかぎり、あなたの信念、師匠、階級、経済制度といったものが皆、分離作用を起こすことになり、そのために競争が生み出されるのです。もしあなたがこういう問題に対して本当に真面目に真剣に取り組むつもりがあるなら、あなたはこの自我という核を完全に消滅させなければなりません。自我を正当化したりしてはなりません。』(P.101)

 Kは、これまでの既存の宗教的方法による自我の消滅へのアプローチに対して、頑ななまでに否定的です。それが祈りによる神との同一化であれ、様々なメソッドによる神秘的な体験であれ何であれ、すべての定型の手法は、未知なるものに触れ得ない。定型の鋳型の中に人を押し込め、凡庸にしてしまうと説きました。なぜなら、そこには規定のゴールがあり、同じ答えに向かって人は努力するからです。

 自我は、常により大きくなろうと欲します。それは自我それ自体が、実は卑小なものであり、限界のある存在であり、自然の働きや、神秘や、本当の意味での愛に触れていないという非充足感によるものだと思います。ですから、時に、特定の教祖に心酔したり、祈りによって神と一体化したと感じたり、とある瞑想体験で全体に至ったと恍惚感を覚えることで、自我を充足させ、満足させようとするのです。

 もしもそこに「幸福感」や「達成感」があり、「満ち足りているという感覚」が持続しているとしたら、手厳しいようですが、それはまだ自我の延長線上にあるものです。なぜなら、そこには「喜んでいるあなた」「感動しているあなた」「救われたあなた」「幸福になったあなた」がいるからです。それが不幸なものであれ、幸福なものであれ、そこに中核があり続けているのには変わりありません。引用します。

『ところでこの自我を消滅させるものとは一体なんでしょうか。今までに様々な宗教や組織が、いわゆる同一化というものを提唱してきました。つまり、「あなた自身をあなたより大きなものの中に容れなさい。そうすれば自我はなくなるのです」と彼らは主張します。しかしながらこの同一化も依然として自我の働きなのです。より大きなものは「私」の投影に過ぎないのです。私はその投影されたものを経験し、その経験が「私」を強化することになるだけなのです。これでは自我を消滅させたことにはなりません。』(P.102)

 それでは、自我の働きによるものではない「何か」はあるのでしょうか? Kは、それを「創造的状態」と表現します。これは常に新しいものがやって来る状態――未知なるものに触れている状態、と言い換えてもいいでしょう。厳密に言えば、「状態」でさえないかもしれません。自我は、過去の集積物です。ですから、その体験は常に定型であり、過去の産物であり、わかりやすく、言葉にできるものです。しかし、未知なるものは言葉にできません。それはいかなる神秘体験とも異なるものなのです。強いて言えば、面倒な夏休みの宿題を終えて、頭が空っぽになり、解放感を覚えている状態が近いものでしょうか。そこに空性があるからこそ、未知なるものが降り注いでくることができるのです。Kはそれを「あらゆる経験を超えた何か」と言います。引用します。

『私たちは創造の状態が全く自我の経験ではないということを理解することができます。創造は自我が存在しないときに生まれるのです。なぜなら創造は頭脳や精神に関係するものではなく、また自己を投影したものでもなく、あらゆる経験を超えた何かであるからなのです。それでは精神は完全に静止し、認識もせず、その結果創造が可能になるような状態になることができるでしょうか。つまりそれは自我が存在しないときや、自我がそこに居合わせないときの状態のことなのです。』(P.104)

 それでは、この厄介で、どうやっても壊れようとせず、消えようともしない、しぶとい自我をどうやったら終わらせることができるでしょうか? とにもかくにも、一度でも完全に破壊することができるでしょうか? もしも一度でも私たちの中核にある固くて、時に美しく見えるガラス球が破壊されれば、それは元に戻ることはないのです。仮に自我に満ちた人間社会にかかわる中で元に戻ってしまったとしても(時に、役割として戻らざるを得ないのです)、それはガラス球ではなく、常に変化し続ける因果の束のようなものであると理解できるようになるでしょう。そのファジーさの中で、あなたは新しいものの見方、新しい関係を他者や、自然との関係の中に構築することができるようになっていくはずです。そこには、分離したものはどこにもないのです。分離したものがないということこそが、創造性の本質です。

 Kは、自我の働きをとにもかくにも見つめ、それが自己中心的な働きそのものであるに過ぎない、と認めることで、自我が静止し、破壊される可能性があると説きます。引用します。

『あなたが精神の働きをじっと見つめ、完全に知り尽くしてしまったとき、あなたは非常に静かになるのではないでしょうか。しかもそれは強制や報酬や、あるいは恐怖によって生まれた静けさではありません。精神のすべての活動は単に自我を強化する雛型にほかならないことを認識して、それを注意深く見守り、理解したとき、また活動している精神を完全に知り、観念や言葉や、投影された経験によるのではなく、あなたが本当にその核心に迫ったとき、そのときあなたは、精神が完全に静止して、もう創作する力がないことに気づくでしょう。精神が創作するものはすべて一つの円の中にあり、自我の領域の内部にあるのです。ですから、精神が創作を止めたとき初めて、認識作用ではない真の創造が生まれるのです。』(P.107)

Kは、伝統的な手法や、既存の道徳や、知識の集積について懐疑的でした。数多の聖典を読んでも、善行を積んだり、社会人としてモラルを守った立派な生活をしていると誇ったとしても、それは自我の中核を終わらせることとは何の関係もない。むしろそれは自我を強化させ、固定化させ、安心させて、気づけば、あるがままの真理から遠ざかる道を歩いていることにもなりかねない、と言うのです。もう既存のやり方では壊れないほどに、私たちの自我は過去の伝統や、環境や、無数の情報によって条件付けられてしまっているのです。引用します。

『「真の実在」や「真理」というものは認識することができないものなのです。真理が到来するためには、信念、知識、徳の追求というようなものがすべて消え失せなければなりません。徳を追求していることを自分で意識しているようないわゆる道徳的な人は、決して「真の実在」を発見することができません。こういう人は非常に礼儀正しいかもしれませんが、真実の人、理解する人とは全く別人なのです。真理は、真実の人のもとにやってくるのです。道徳的な人は正義の人です。しかし正義の人は真理とは何かを理解することが決してできない人なのです。なぜかと言いますと、その人にとって徳は自我を覆い隠し、同時に自我を強化するものであり、またその人は徳を追い求めているからなのです。』(P.107~108)

 生活の中で、自己中心的な働きをする自我を徹底的に見つめること。ひと飛びに自我の外に向かうのではなく、誠実に、自分が自我そのものであり、自己中心的であり、時に、自己欺瞞的で、巧妙で、逃避的な自我を持っている存在であると、一つひとつ、具体的な事象に立会いながら気づいていくこと。それこそが自我を解体する最短の道です。なぜなら、それは自我という強固なガラス球に直接触れ、ノミを打つ作業だからです。

 ガラス球の外にある空気に束の間だけでも触れたり、全体性を感じたり、一瞥したりする様々な疑似体験をするのも時には悪くないでしょう(それが疑似体験であり、束の間の癒しであると理解している限りは)。現実生活というのは、時に、あまりに救いや、解放がないものに見えるものですから。束の間でも、自我の外に逃避したいという気持ちは非常によくわかります。それがセックスであれ、アルコールであれ、ドラッグであれ、何であれ、すべては自我からの逃避であり、全体回帰への希求です。しかし、やはりそこにガラス球はあり続けるのです。ですから、自我の働きを見つめる中で、このガラス球が実は固定的実体ではなく、様々な因子が組み合わさった束の間の現象に過ぎないことを知れば、それは自ずと解体していくのです。

 自我という中核がなくなった時、人は自我の外にある愛というものに触れ、それを実現するために、困難な――時に、具体的な愛の実現というのは、自我を終わらすことよりもはるかに困難なものですから――、それでいてまったく新しい道を歩き出すことになるのです。Kの言葉を引用して終わります。

『しかしもし「あなた」と「私」が一個人として、自我の全体の働きを知ることができるなら、そのとき私たちは愛とは何かということを知ることができるでしょう。これこそ世界を変えることができる唯一の改革であると私は確信します。愛は自我に属するものではありません。自我は愛を知ることができないのです。あなたは「私を愛している」と言います。しかし言葉や経験そのものの中に、愛はないのです。その反対にあなたが愛を知ったとき、そのとき自我は消滅するのです。愛があるとき、自我は存在しないのです。』(P.108)


※クリシュナムルティ(以下=K)の思想を理解し、生活の中で実践するためには、そもそも原文であれ、翻訳であれ、テキストそのものに触れるのが一番であることは言うまでもありません。この解読は、あくまでKの思想・哲学を実践することで解放された個人的な体験や、理解、解釈を踏まえてのものですので、興味を持たれた方はKの著作に改めて触れていただければ嬉しく思います。