『アメジスト・タブレット・プロローグ』ダンテス・ダイジ著

●無我的観照第10回

ダンテス・ダイジによる超越的境地の肉体的表現について

那智タケシ  

今、スピリチュアルと呼ばれる世界の表現の多くは手垢がつき、何の共感もないし、魅力も感じないとうのが私の本音であり、本メルマガでもその手の話題は意図的に避けてきたのだが(アセンションやら、引き寄せやら、スピリチュアルのごった煮のようなブログは嫌というほどあるではないか)、宗教的アプローチで自我を超えた境地にある存在として、稀有なる表現者の一人であったダンテス・ダイジについて語ることは「無我表現」という見地からも許されることだろう。


★ダンテス・ダイジ=(1950年2月13日-1987年12月11日)は東京都出身のタントラ・ヨーガ・グル、座禅老師。本名は雨宮第二。物心ついて以来、誰に教わることなく座禅瞑想を続ける少年だった。1968年、師・伊服部隆彦の詩集「無為隆彦詩集」を読んだ後に心身脱落・大悟徹底。以降、古神道の体得を目指し、沖縄県首里にて臨済宗の老師・木村虎山のもとで見性を許される。その後、インドでババジ直系のクンダリニー・ヨーガを通じて究極の解脱に達したとされるが、1987年に東京都福生市の自宅にてガス爆発により死亡。自殺、事故両説あるが未だに事実は不明である。(ウィキペディアより)


私は彼のヨーガの技法や、禅の只管打座の技法をまとめた『ニルヴァーナのプロセスとテクニック』などの修行本(一部にはオウム真理教の修行のネタ本とされる)にはほとんど興味を惹かれない。呼吸法等の延長による神秘体験がもたらす覚醒というものは肉体的にも物理的な頭脳という面においても、たいへんな危険が伴い、また意識の人工的拡大体験がエゴと結びつくことの危険性について懸念する。これは頑なな真我論者にも見受けられるが、世界の中核に何らかの実在(永遠の自己であれ何であれ)を認め、それと合一する体験なり認識は、エゴの否定、放棄、破壊による「私」なき世界認識の可能性を奪いかねない方法論であると感じる。(私がお勧めするのは日常の中、自己中心的で醜悪なエゴの働きをただただ見つめる一点突破であり、クリシュナムルティの言うところの選択なき気づき、すなわち動的瞑想である。)


座禅や瞑想による内観はともかく、クンダリニー・ヨーガによるエネルギーの上昇は、その人の人格、生活を崩壊させる危険さえあるだろう。クリシュナムルティはこの技法のことをひとこと「気狂いになりますよ」と否定していたらしいが、少なくとも日常生活の中で開かれた真実を体現する時代において、一般的に必要とされる技法でないと私は思う(ちなみに、私自身は無手勝流ながら心身脱落体験を通過して、身体的構造の変化を経験したが、クンダリニー・ヨーガの修行をしたことはない)。もちろん、正しい師がいれば別なのかもしれないが、まがいものが横行する現代において、あえてその方法を選ぶ必要もないのではなかろうか。


確かに、ダンテス・ダイジは危険な存在である。ヨーガの技法うんぬんではなく、存在それ自体がラディカルにすぎるのである。彼は、あまりにも行きすぎているし、あるいは、あまりにもクラシカルすぎる。その行きすぎである点が、彼がマイナーなカリスマに留まる理由である。それにしても、ダイジの残した代表作である『アメジスト・タブレット・プロローグ』を見る限り、現代の“スピリチュアルままごと”と比べて何と真剣な響きに満ちていることか!


冥想は、最もあたりまえで気楽な

久遠の戯れである。

しかし、現代人にとっては、

自己理解と直観にともなうエゴの消滅は、

すなわち真実の冥想修行は、

発狂や死の覚悟を必要とせざるを得ない。


(アメジスト・タブレット・プロローグp48)


禅でよく言われる、

自我の死、大死一番とは何をさしているのだろうか?

もちろん、自我の死、あるいは、

クンダリニー・ヨーガにおける、

肉体上の死と復活が、

善悪を越えた

まったく新しい善悪という自由を実現することは、真実である。

自我の死とは、自我の知覚する全宇宙の死であり、一切万象の滅尽であり、一切

万象それ自身の目覚めである。


(アメジスト・タブレット・プロローグp66)


空とは、体験ではないし、

まして、神秘体験とか、実在体験とか、宇宙意識の体験なぞといったガラクタで

は、断じてない

空もしくはニルヴァーナとは、

心身脱落であり、全体脱落である。

宇宙脱落であり、絶対者脱落である。

空もしくはニルヴァーナには

どのような痕跡もない。

神もしくは絶対者のあとかたさえもない。

しかも、

それは、目覚め切っている。

充実し切っている。


(アメジスト・タブレット・プロローグp172)


ダイジの詩作には、既存の宗教的覚者には見られない、ある肉体的境地がうかがえる。私は「肉体的」と言ったが、これは「実存的」と言い換えてもよいかもしれないし、「個人的」と大胆に翻訳してもよいだろう。すなわち、エゴを超越した経験、体験、感覚というものは、逆説的に、個人という肉体を通してのみこの形而下の世界に顕現されるということである。質的変容が生じた肉体には、必ず独自の身振り、笑い方、話し方、関係の仕方という個性が生じる(人格の成熟とは関係がない)。ここにおいて初めて、“超越的個人性”とでも言うべきものがこの地にきらめきわたるのである。例えば、以下のような言葉にそれは顕れている。


救世主とは

君が死んだ君自身のことにほかならない

救世主とは

救済すべき何ものもないことに

目覚めた君自身のことにほかならない


(アメジスト・タブレット・プロローグp18)


君が慈愛を感じたり

君が何かを愛したりすることはない

君がすでに死んでいるのなら

慈愛のみが満ち渡っている

愛のみが満ち渡っている


(アメジスト・タブレット・プロローグp21)


その独自な世界との関係を芸術においては「形式」と呼ぶ。独自な「形式」なくして真の「内容」は表現され得ない(ゴッホの独自なタッチが一つの典型である)。つまり、真実の表現というものについての真贋は、この独自で真に個性的な「形式」があるか否かにかかっている。

ワンネスやアセンション、いまここ、といった単なるお題目を繰り返す人々に何の真実も感じられないのは、この形式の徹底的な欠如であり、すなわち個人と世界の関係における表現者としての責任の放棄ゆえである。真の表現者は常に、自ら表現するものへ一個人として全的責任を持ち、リスクを背負う。その背水の覚悟こそが――痛ましいまでの創造者としての圧倒的な孤独な運命の自覚こそが――個人という枠を超えて他者に届く祈りのバイブレーションとなるのである。誰かが唱えた真実の棒読みは残念ながら、宇宙的真実の体得ではなく、その人が外から導入した観念と一体化しているにすぎないことの証なのだ。


ダイジの詩作は、あの超越的原理を感得したことによる力強さのみならず、時に、柔弱と言ってよいほどに極めて繊細で、人の弱さに対する慈悲に満ちており、それが一つの魅力なっている。その繊細さは、道元へのシンパシーからも感じられる。


人間になれなかった道元かわいそうな道元よ

あなたは その全生涯を

奥深き冷厳な山林にありて

人間になろうと全身全霊で

努め励んだ


今・吾・ここにて

道元老古仏に深く深く深く

帰依したてまつります


あなたは 人間になろうとして

只管打座の日々を送り

「正法眼蔵」を著述した

あなたの言う正法眼蔵が

人間そのものに他ならぬことを

私は知っている

しかもあなたは

決して人間になれなかった

道元よ

あなたはあまりにも弱すぎて

人間ドラマを愛することはできても

人間ドラマを演ずることはできなかった

そして肺結核で若死して

その人間への仏道修行を閉じた

あなたは煩悩を生きるには

余りにも弱すぎたのだ


今・吾・ここにて

道元老古仏に深く深く深く

帰依したてまつします


あなたは人間の限りない喜びと悲しみ

そして虚無と

それら一切を現成せしめる山河大地とを

果てしなく見切った

だがあなたは「修証一如」という

悪知恵によって

煩悩の汚濁を見渡したが

ついに煩悩そのものへは帰れなかった

太郎や花子は煩悩そのものを生きている

煩悩そのものの人間ドラマには

煩悩も悟りもない

かわいそうな道元よ

あなたは すべてを知りすぎた


今・吾・ここにて

道元老古仏に深く深く深く

帰依したてまつります


あなたは貧しい仏道者だ

余りにも心の貧しい仏道者だ

あなたは終生

心貧しき仏道者として生き切り

ついに豊かな人間達にはなれなかった

二十世紀末の今日

フーテン娘は

赤ん坊をコインロッカーの中に捨てる

デリケートな現代人達は

山林の自然を恐れて

都会のネオンサインの中へ逃げる

平凡なサラリーマンの一家団らんの中には

肥大した自意識同士の

言葉にならない戦いがあり

工場労働を本当に楽しんでいる工員は

一人としていない

悟りという愛情ならぬ愛情を

求める気力のない哲学青年は

流行歌手の歌声と

睡眠薬とガス管の中に自殺する

そして私は

これら本当に豊かな

人間の苦悩という営みが

二十世紀末の今日だけのものでないことを知っている

そして道元よ

あなたはこれらあらゆる人間達の

豊かな営みそのものになろうとして

ついになりえなかった


今・吾・ここにて

道元老古仏に深く深く深く

帰依したてまつります


今・私は説法しよう

あなたの古仏としての営みは

山河大地のみではなく

あらゆる人間達の営みそのものであったことを

森羅万象や無数の生命達の

営みなどどうでもよい

あなたの只管打座は

人間の限りなく豊かな営みそのものであった

万里一条鉄の大生命などどうでもいい

私は 今・ここで

あなたとともに叫ぶ

私は人間だ

果てしない喜びと悲しみとを持った

たった一人の

かけがえなく豊かな人間そのものだ


今・吾・ここにて

人間道元に深く深く深く

帰依したてまつります


(「絶対無の戯れ」より)



道元老古仏は

その究極性においては

釈迦老古仏よりも

余りにも純粋だ。

それゆえ

道元の只管打座は

いかなる意味でも

釈迦や老子などの

円熟に至ることはなかった。

道元よ

余りにも余りにも純粋透明な何者かよ。

21世紀の水晶の中の水晶よ。


(アメジスト・タブレット・プロローグp30)


これらの詩作を通して、我々は確かに、この地に二本の足で立って存在し、泣き、笑い、愛し、一つの運命を十全に生きた一人の人間に出会うことができるだろう。一人の血の通った、強くもあり弱くもある、温かみある人間の息吹が感じられることだろう。個人性を超えた体験、境地が個人という肉体を通して現れる――この逆説は、受肉化した神であるところのキリスト的存在の秘密でもある。普遍的真実は、常に、「究極の個人性」を通してのみ表現され得るのである。


我々は、真実を感得し、それを自らの肉体でもって表現するために生きている。すなわち、愛の顕現のために、あなたの手と言葉、あなたの微笑み、あなたの眼差しはあるのである。その肉体的表現の最も率直な例として、最後に、ダイジの次の作品を紹介して、この稿を終えたいと思う。


だいじょうぶだよ 君は必ず死ぬ


だいじょうぶだよ

君は必ず死ぬ

死んだら

あたたかい夜のぬくもりの中で

君と僕は

君と僕のいのちを

あたためあう

夜闇のフクロウも

僕達の命だ

フクロウの鳴き声が

静かに僕達の瞳をしめらすことだろう


だいじょうぶだよ

君は必ず死ぬ

死ぬべき君には

もうどのような恐れも無用だ

そして僕達は

時間を忘れた夜明けの

すがすがしい大気を吸い込む

まるで初めて

大気を吸い込んだように

僕達は

夜明けの息吹を感じることだろう


だいじょうぶだよ

やがて死ぬ時が来る

僕達の宇宙ゲームを終らせて

夢もない眠りに

やすらかに帰る時がくる

初めがないここには

生も死も

初めから夢にすぎなかった


だいじょうぶだよ

君は必ず死ぬ

さあ今 君は君自身に帰る

帰っておいで

君自身である

僕自身の胸の中に

人々は

どういうわけか

死をいみ嫌っていた

だが だいじょうぶだよ

君もやがては死ぬ

死が

君にすべての生命達との

ふれ合いを教えてくれる

だいじょうぶだ

君は死なないのだから

生と死の中をつらぬき

やさしさが

いつも響いていた


(『絶対無の戯れ』より)