ダンテス・ダイジの愛について

那智タケシ  

最近、久々にダンテス・ダイジの詩を読み返して、透明に染み渡る無形なるものに浸った。それは、末期がんで亡くなる直前で、すべての我欲が抜け去った人の透明さに触れたばかりだから、なおさらそんな風に感じたのかもしれない。一人の人間から離れて、通り過ぎてゆくもの、染み通るもの――その神秘的な働きの予感に、彼の詩は満ちみちている。

 

愛について 

 

ダンテス・ダイジ

 

愛のないところはどこでも
見知らぬ世界だ
見知らぬ世界という不安を
私は歩いていた
宇宙も私自身も愛さえも
ぜんぜん知らないという私自身だ
本当に見知らぬ私自身は
私のいかなる不安な感情とも無縁だ
神秘が今ここに歩いている
神秘が今ここに座っている

 

こちらの病室では
あと一週間の命である病人が
不安から逃れようと
一しょうけんめいに般若心経を上げている
となりの病室では
あと一年の命である病人が
果物ナイフで自殺を図った
そのとなりの病室では
死を明日にひかえた病人が
禁じられたタバコをふかして
夜空に輝く月と星々とを眺めている

 

長年月の血のにじむような

坐禅の修練によって

その僧侶は無想定を習得したと思っていた
やがて僧侶は年老いて
死が目前に迫った時
坐禅を組んで無想定に入ろうと思ったが
入ることはできなかった
死の恐怖は余りに激しく
死の恐怖におののきながら
その僧侶は死んだ

 

挫折を信じた大学生が
自分のウジ虫のような人生を嘆いていた
海中のヘドロの中の細菌達は
ウジ虫のような生活に憧れた
ウジ虫は何とも思わずに
ウジ虫の生命を生きている

 

いつもキリストの姿に憧れている
ひとりの牧師がいた
彼は一度でよいから
霊なるキリストをじかに見たいと
いつも憧れていた
ある晩 その牧師が寝ているかたわらへ
キリストは降臨した
しかし牧師はそれを知らなかった
彼は熟睡していたのだ

 

天地の始まる以前に愛がある
愛は愛である自分自身以外を
決して見ることがなかったので
天地も人間たちのあらゆる営みも
知ることがなかった
ある一組の老夫婦がいた
彼らは何十年かの生涯を仲よく暮らし
若き日の夜ごとの甘美な一時と
何十年かの仲よく暮らした生涯を
愛であると感じていた
その老夫婦が住んでいる小さな家の
すぐそばのアパートの一室で
トルコ風呂の女が
睡眠薬を多量に飲んで自殺した
その女のアパートの窓際には
サボテンの鉢植えが一つ置かれていた
彼女がどんな花よりも
サボテンが好きであったことを
永遠に誰も知ることがない
彼女は花の咲いていないサボテンを
愛していた
彼女が自殺した次の日
そのサボテンに小さな花が開いた
サボテンは そのトゲの部分よりも
自分の中から出た
小さな花を
より深く愛していた

 

『絶対無の戯れ』ダンテス・ダイジ著(森北出版)より

 

ダイジの愛は、病んだ人や絶望者、俗世から半分解脱した者、仏教者、キリスト者のみならず、生きとし生けるものに通じ、ウジ虫の気持ちから、ウジ虫に憧れる細菌たちにまで染み通る。彼がとりわけ深く愛したのは、この社会で虐げられ、無視され、省みられず、誰にも愛されることなく、気づかれることなく死んでゆく受難者たちだった。宗教的な愛の本質は慈悲であり、すべての存在をひとしく哀れみ、愛する性質を持つがゆえに、隅の方に、隅の方に、誰も知らない暗がりに入り込んで寄り添っていく。その愛には上手く生きられずに自殺した風俗嬢だろうが、幸福な人間だろうが、どんな罪人であろうが関係がない。

 

ダイジの詩は、いずれもこの肉体的実感を伴った愛の感覚に満ち溢れていて、時には人間界を超え、植物の世界から無機物の世界へ、そしてこの宇宙さえ包括して超えていき、涅槃の彼方に消えてしまう。しかし、再び傷ついた、痛めつけられた者たちの側に戻ってきて、静かな瞳で彼らを見つめ、許し、佇んでいるのだ。その融通無碍な働きの中に、老子が言うところの無為自然があり、色即是空空即是色があり、極めて人間的な、現世における弱者への限りない哀れみの眼差しがある。もしかすると「空」に流れ込む「無」のエネルギーは、この地上で一人の人間を通してのみ「愛」に転じるのかもしれない。その瞬間、無が有になるのである。透明なものが慈悲に変わるのである。

 

この詩の最後において、ダイジの愛は自殺した風俗嬢の部屋に入り込む。誰にも愛されることのなかった、犠牲者の部屋のサボテンに目を向ける。おそらく、孤独だった女が愛していたその植物と、誰にも知られることのなかった彼女の幼児のような感情にも気づいている。そして、誰にも気づかれることのなかった純粋さに、限りのない哀れみの気持ちを抱いている。まるでヴェンダースの『ベルリン天使の詩』の天使たちのように、何も言わずに人々の必死な営みを側で見守っている。しかし、葛藤と自己中心性にまみれた私たちは、その存在に気づくことができないのだ。

 

彼女が自殺した次の日、サボテンの花が咲く。それはおそらく、サボテンが自分を唯一愛してくれた存在に対して応えたものだろう。しかしダイジは、そんなサボテンの花の生命のはからいにさえ気づいている。サボテンの中の愛にさえ等しい価値を認め、気づいている。こうして、どこまでもどこまでも染み渡る無形なる力の波は、詩作を読んだ読者の中にも入り込み、通り抜けて、私たちの世界に再び舞い戻る。

 

絶対無の戯れ――この働きを俗世界に浸透させ、具体的なものの中に展開し、目に見えぬものを可視化する表現の中に、彼の宗教的芸術家としての非凡さがあるのである。