無我表現研究会について

高橋ヒロヤス  

2011年の初夏にフリーライターの那智タケシ氏が「無我表現研究会」を立ち上げ、月1回の無料メルマガを発行し始めてから、早くも2年が過ぎた。

那智氏が書いた、会発足の趣旨という文章には、こう書かれている。

(引用始め)

「私」「私のもの」「私の国」「私の神」というエゴイズムに基づいた価値観、表現が蔓延している現代世界において、「私」ではなく「世界」という単位からの表現を志し、研究、創造、評価、発表することを趣旨とする会である。

この場合の「世界」は、=「無我」であり、さらに言えば「私」性の超越である。表現ジャンルは、芸術、科学、スポーツ、芸能、宗教、哲学、生活等問わない。新たな表現の創造、評価による文化的価値の転換、革命を目指す。

(引用おわり)

これまでに、無我表現研究会は、月に1度のMUGA発行を通して、上記の趣旨に則り、新たな表現の創造、評価による文化的価値の転換、革命を目指してきた。

その中身は、詩や小説の発表、芸能論など、一見すると呑気な趣味的同人誌にすぎない。しかしそれらは、既存の媒体にはない「視点」を含んだものであった。そして、もしこの活動に何らかの価値があるとすれば、この「視点」の提示に尽きるといってよい。

すなわち、「無我表現」というジャンルの発見、提示、紹介である。

無我表現とは何か、については、MUGA第1号の拙稿「なぜ無我表現研究なのか」に詳述した。

会が発足したのは2011年の東日本大震災と福島原発事故の直後だった。2年半が経過した今も、原発事故は収束するどころか、最終的な処理の目途が絶たないまま海洋に汚染水を撒き散らし、放射能汚染はさらに深刻の度を増している。

このエゴに塗れた末期的文明症状を呈している世の中にあって、「無我表現」こそが未来への希望である。

無我表現とは崇拝されるべきものでも、自我(エゴ)の努力によって達成できる何物かでもない。それは純粋な聖性の現れである。

無我表現は、至るところに存在するが、それが正当に評価されることは稀である。少なくとも、それが「無我表現」であるという観点から評価されることはなかった。

MUGAにおいては、敢えて「スピリチュアル」から遠い場所で無我表現を見出そうとしてきた。そこには、安易な自己啓発(自我啓発=自我満足)系スピリチュアルへのアンチテーゼ的な意味合いも含まれていたといえる。

自分が取り上げて来た種種雑多な素材から考えると、無我表現にはいくつかの種類があるように思う。

・本人の活動の中でまったく無意識に(文字通り無我夢中で)表現されるもの。

AKB、能年玲奈など

・自我表現が突き抜けて無我表現になっているもの

ビートルズ、マイケル・ジャクソンなど

・生き方そのものが無我表現となっているもの

クリシュナムルティ、無為隆彦など

1番目のものは、瞬間的な魔法のようなもので、たいてい一時的なもので終わる。

2番目のものは、インスピレーションが続く限り持続する。

3番目のものは、その生自体が無我表現である。

上記以外に、「無我表現的」な存在として、坂口恭平、タモリなどを取り上げた。

誰もが知っているものの中に無我表現を見出すという意味で、記事の同時代性も大切だと思う。

また、無我表現について哲学的な見地から語っているものとして、ウィトゲンシュタインやアフォーダンス理論、無為隆彦氏の「老子眼蔵」について取り上げた。小田切瑞穂博士の潜態論も、無我表現の範疇で捉える事ができる。

今後の課題としては、潜態論や老子眼蔵など、わが国に芽生え、このままでは忘却されるおそれのある貴重な無我表現思想のさらなる探究・紹介・普及、無我的芸術家の表現活動との連携といったことが挙げられる。特に、文芸、絵画、デザイン、映画、音楽、彫刻など、アートの分野における無我表現を発見していけたらいいと思う。

ずいぶん堅苦しい文章になってしまったが、それぞれの執筆陣がアンテナを張り巡らし、自由に表現していく中でいろんなものが自然につながっていけばいいと思っている。その思いは当初から変わっていない。