第1号編集会議 MUGA発刊の流れ
★ 編集会議出席者
・那智タケシ=那 フリーライター 『悟り系で行こう』著者
・河野龍路=河 潜態論研究家 『潜態論入門』著者
・高橋ヒロヤス=高 弁護士 ウスペンスキー翻訳者
●「無我表現研究会」発足までの流れ
那 「無我表現研究会」なんていうたいそうな名前の会になってしまったのですが、あえて「表現」と入れたのは閉じた世界にしないためなんです。精神世界なんて、みんなそんなところありますよね。アセンションとか、何だとか。みんな、閉じている。特権意識の集団になってしまう。わかる人にはわかる、と。それではこの世界は変わらない。直接的に、この世界のあり方に触れていませんから、変えようがないんです。宗教臭さを消して、科学にしろ芸術にしろ、オールラウンドなジャンルに通じる価値観として「無我」を提示したいということです。これまではエゴを助長させるような文化・文明が蔓延していました。とりわけ20世紀後半からその傾向が強くなっている。科学、芸術、芸能だけでなく、精神世界なんかもね。
高 精神世界という業界に足を踏み入れてどうですか?
那 正直、ひどいなと。例えば、引き寄せの法則だなんだと言うのがあるんですよ。要は、強く願えば何でも願いがかなうと。金持ちになれると。これこそエゴの願望そのものですよね。自分のことしか考えていないんですから。それでいい家に住んで、高級外車に乗って、成功しましたと言われてもね。ここまで愛と真逆のことをやられるともう何も言いたくもない。悲しくなりますよ。みんな、「私」「私」なんですね。「私」が満足し、肥え太ればそれで満足なんです。もちろん、これは精神世界に限ったことではなく、世の中全般に関してですけど。それが精神世界なんていう一見、清いとされている世界にも思いっきり入り込んでいて、もう足を踏み入れたくない気持ちですね。
今回の原発の問題にしても、「私の会社」主義があんなことになった。九州電力の問題にしてもまったく同じですよね。自然のことはどうでもいい、民衆のことはどうでもいい、この日本という国を支配しているのが完全なエゴ文化であることが、福島原発によって顕になった。とんでもない時代に生きているな、と、初めて気づいた人も多かったのではないでしょうか。こういう時代だからこそ真逆のことをやりたい。私、エゴではなく、「世界=無我」の側からの表現を発信し、こういう方向が正しいんだよ、と。「世界」の側につき、そこから始める人々に集まってもらった。新たな思想のムーブメントを作りたいという気持ちです。
高 河野さんの潜態論との出会いもひとつのきっかけになったということですか?
那 その通りで、科学のジャンルで「無我」をやっている人がきてくれたのが大きい。それが会を作ろうと思ったきっかけです。科学でもこういうことを言っている人がいるのならやれるんじゃないかと。悟りだなんだと言っているだけでは世の中は変わらない。もう一人、ぼくと似たような悟り系タイプの人と出会っても、何か会をやろうとは思わなかったでしょうね。科学というのは強いんですよ。とてもいい出会いでした。科学、芸術、宗教、これでジャンルを超えた運動になるんじゃないかな、という予感がありました。
河 ちょうど、福島原発の事故の直後あたりにお会いしたんですよね?
那 そうです。2月頃、ぼくの本を読んだ河野さんがコンタクトを取ってきてくれて、「悟り系科学」のようなものを研究している、と。同じ頃に『潜態論入門』という悟り系科学のような本を出されたということで興味があったら送りますと。何となくピンとくるものはあったので早速、送ってもらいました。読んだら目からうろこでしたね。すべてを理解したわけではないですが、これはすごいものかもしれない、と。肌感覚ではフィットするものがありました。その後、原発の事故もあって、これは何かやるしかないな、と河野さんとお会いしていろいろと話し合うようになったんです。
●白か黒かの時代
高 「無我表現研究会」というと、無我の境地でなくては表現できないようなイメージもありますよね。ハードルが異常に高くなってしまう。
那 無我を探求している人はたくさんいると思うんですよ。でも、もうそれじゃ間に合わない時代になってしまった、とぼくは考えています。最初から、こっちが正解です。無我の側から何ができるか一緒に模索しましょう、ということです。「私」と「世界」の境界線があって、どっちを選ぶかと言う時代ですね。「世界」を選んだら、そこから何ができるかです。これは『悟り系で行こう』でも既に書いていたことなんですが、「私」か「世界」か二択の時代になる、白か黒かはっきり分かれる時代になるとは感じていました。そしてぼくは「世界=無我」の側からの表現が増えれば増えるほどこの世の中は良くなるんじゃないかと思っています。黒い世界で白を探求するのではなく、白が多い環境を作るという意識が世界を変える。今までは正解に向かって探求していた人はたくさんいたと思うんです。求道者的な人。ぼくもその一人だったかもしれない。でも、それではもう間に合わない。最初から、こっちが正解です、正解から始めましょうということです。完全に白ではなくてもね。そこから何ができるか模索していきましょう、表現していきましょう。そういう表現が増えれば世界は良くなるんじゃないかと。子供たちへの影響も大きい。ダークグレーで迷っている時代は終わった、というのがぼくの認識です。
高 今は黒が圧倒的な時代ですよね。少ない白が何かを変えることができるでしょうか?
那 オセロですよ。少ない白でも、ポイントを抑えれば一気にひっくり返すことができるかもしれない。江戸時代なんかは白だったんじゃないですかね? インディアンとか。そういう環境で生まれた子供は自然と白になる。悟りというのは黒い世界で開くもののような気がします。白の世界なら必要ないんです。もう、ひっくり返さないと世の中終わっちゃうな、という危機感がものすごくあります。3月11日でいろんなことが明らかになった。非常時だから見えてしまったものがある。放射能に汚染された中、個人的幸福なんてものはない。もう、社会全体をひっくり返さなくてはだめな時代なんですね。そのためにはいろんなジャンルの「白」が必要だな、と。数は少なくともね。そういう意味で、無我研を作って、多様なジャンルで共感していただけるような表現者に声をかけたんです。高橋さんの場合は、少し特殊ですけどね。コンタクトを取ってもらう前からぼくはあなたのことを知っていましたから。
●AKBの中にも「白」きものはある
高 不思議だったのは、ぼくはホームページを二つ持っていて、一つは芸能論で、好きなことを書きなぐっているもの。もう一つはスピリチュアルなものでまったく異なる内容なのですが、那智さんはぼくの芸能論のホームページだけを前から知っていて、何か感じていてくれたという。鳥居みゆきなんかも語っていたせいもあるんですが、親近感を覚えていたと。それでぼくがたまたま書店で那智さんの本を手にとって、ピンとくるものがあったので連絡すると(こんなことはまずないんですが)、「知っていましたよ」と。でも話を聞くと、好きな芸能人のことを延々と書いているブログの方で、へーって感じでしたね。
那 芸能の世界って影響力が半端ないと思うんですよ。何だかんだで子供たちは見ているわけですから。大半は黒でも白い存在もある。そういう正しい評価というか、無我の側からの芸能論を語っていただければという気持ちがあります。
高 那智さん、最近AKBのこととか語っていますよね? ぼくはいまいちわからないんですが。
那 ああ、それは当然でしょうね(笑) 本来なら、評価なんてできないですよ。ぼくもまったく興味なんかなかったですから。ただ、何かあるだろうなと思って動画とかいろいろ見たんですよ。
高 白い部分もあったと?
那 何で若者が管直人を見たくなくて、AKBが見たいか、わかったんですよ。確かに、政治の世界も真っ黒で、どうしようもない。AKBもシステム自体は黒い。総選挙とかね。あれは思春期の少女にとってはものすごいハードなシステムで、よく大きな問題が起きずにいるな、と。ただ、中にいる子は意外と冷めているんですよね。自分たちがどういう風に見世物になっているかよく理解してる。それで高橋みなみっていうリーダーの子がいるんですけど、ちょっと面白い。エゴを刺激される競争システムの真っ只中で、他のメンバーのことばかり気にしてるんですよ。
河 ぼくも那智さんに言われて動画を見たんですが、不思議な子ですね。
那 そうですね、例えば、彼女はいつも舞台裏とか一人で歩き回ってると。何をしているの?って聞かれて、問題がある子や悩みがある子は目立った所にはいないからチェックしてる、と。仲良しグループみたいなのがいくつもできて連帯感がなくなった時は、あえてその中に入って、一人を別のグループに連れて行く。そういうことを繰り返して固まりを壊していくことでチーム全体の連帯感を取り戻したとかね。「私」ではなくて「公」で動いてる。それは身振りや表情にも表れています。一人だけ遅く残って、研究生のダンスを教えてたり。一番人気でなくても、裏方的な人がリーダーになり、尊敬されている。つまり、人気競争だけなら内部から解体してしまうけれど、こういう人がいるから恥ずかしいことはできない、人を見下せないという良きモデルになっている。それが全体に良い影響を及ぼしている。これは珍しい例なんじゃないかって思うようになりました。
高 あのプロデューサーは、そういうところも見てリーダーにしたんでしょうけど、彼は白い皮を被った黒のような気もしますね。黒い皮を被った白なのかもしれませんが。
那 でも、手のひらで踊らすという感覚から化けたと思うんですよね。生身の人間が集まったことによる科学反応みたいなもので。長くは続かないでしょうけれど、時代を象徴する存在だし、影響力がある。見た目の人気競争より、人格がクローズアップされるアイドルというのはこれまでなかったし、悪くないことだと思ったんですよ。
河 ただ、どうしても女性の商品化という問題がつきまとっちゃう。
那 そこまでさかのぼっちゃうと芸能界も全否定になってしまうわけだけれど(笑)要は、物差しですよね。何で評価するかと。曲とかパフォーマンスとか、作品のクオリティだけで評価したらAKBはだめということになってしまうかもしれない(中には良い曲もありますけどね)。新しい物差しが必要で、その物差しならAKBの中でも色分けができるような物差し。どんなジャンルでも通用する物差しでなくては新しい価値観にならない。それはすなわち「エゴ」か「非エゴ」かなんですけど、これを非宗教的にやるというのが難しい。でも、「それが格好良い」という風にならなければ世の中は変わらない。それで本を書いた時、「悟り系」でもまだ宗教臭い気がして、「世界系」がいいって言い出したんですよ、途中で。そしたら出版社に反対された。まぁ、今にして思えば「世界系」もないなって感じですけど。
●エヴァンゲリオンで言う「世界」はエゴの投影
高 世界系って別の意味があるんですよね、すでに。エヴァンゲリオンか何かで、個人のトラウマを解決することで世界が救われる、みたいな。
河 エヴァンゲリオンで言う世界というのは何を意味しているんですか?
高 ぼくもよくわからないんですけど、宇宙レベルの大戦争が、ぼく個人の問題を解決することで解消された、と。「世界は私である」と言うわけだけれど、ただ、その場合の世界というのはエゴの投影でしかない。要は、非エゴではないわけです。ぼくのトラウマが病んだ世界の原因だ、と。
河 一種の唯我論?
高 そう、だからちょっと意味合いが違ってきちゃう。
河 世界系という言葉がそういう風に使われているなら使えないですね。
高 悟り系でいいんじゃないですか? ぼくはいい言葉だと思う。
那 ぼくは抵抗あったんですが…
河 あの本にもあったように、悟りを正しく位置づけしたいという意味ではいいんじゃないですか。
那 定着すればいいのかもしれないですけど、まだそんな風でもないし、これからですね。
●水面下にいる認識が転換した人たちに向けて
高 最近、文学なんかは良いものがあると感じますか?
那 ぼくは見つけられないです。最近はあまり読んでないですけど。
高 日本の近代文学というのは正直、ほとんど自我の垂れ流しですよね。ドストエフスキーまでいっちゃえばまた別ですけど。自意識との葛藤とか。
那 日本でそれを超えちゃったのは宮沢賢治くらいですかね。
高 あっ、ぼくも今、その名前を出そうと思ったんです。あの人は自我を超えちゃってる。でも、個人的な天才で、ああいう流れは継承されていない。
河 そういう動き自体がないんですよね、今の社会に。一部でもあってもよさそうなものなのに。書店に行っても、ミステリーとかばかりで、雑誌のコンセプトでそういうことをやっているものは一つもない。
高 あまりにも無我の側からの表現がなさすぎるし、評価もされていない。だから、那智さんの言うように認識の転換をしちゃってる人がいて、自分がおかしいんじゃないかということで、表現できない人もいるかもしれない。
河 いや、隠れたところでそういう人は割といると思います。逆に言うと、そういう人をなるべく評価するきっかけ作りができればな、と。
那 実際、ぼくが注目していて、今回、声をかけさせていただいた詩人のritaさんのような方は、本当に誰も見ていないところですばらしい作品を書いている。こういうものがいいんだよ、と評価したいし、感じて欲しい。こっちの方向が正しいんだよ、とね。ところが、非エゴなものを作っている人ほど、自己顕示欲がないゆえに誰からも注目されない。ぼくはそういう人たちを高く評価してあげたいという気持ちがあります。
河 いろんなジャンルで埋もれている人はいるでしょうね。
那 そう思います。結局、商品価値があるものは、「自我」を刺激する、「自我」に心地よいものばかりですから。文学でも、音楽でも、映画やドラマでもそんなものです。政治や経済のみならず、文化的レベルという意味でも、もうどうしようもないくらい最低の国になってしまった。大人たちはこれだけひどい社会を作り出してしまったわけで、子供たちはどこに正しい価値観があるのと探している状態だと思うんです。「100これが正しい」と言える大人はまずいませんから。昔だったらいたと思うんです。禅の坊さんでも、侍でも。今は、あまりにもいない。反動として、そろそろそういう人たちが出てきてもいいと思うんですけど。
河 これは希望的観測なんですが、そういう人たちは水面下にはいると思うんですよ。
那 だから、それを見える形にしてゆくことが大事だと思うんです。明晰に。
河 それができたらかなりね、面白いことが起こると思うんですよ。やっぱり人間の作った文明だし、自然現象だから、行き詰れば反動が来る。
那 切迫感だと思います。放射能が降り注いで、人間も自然も汚れて、大人の心は真っ黒で、こういう時代になんとかしなくちゃ、と。罪悪感とか責任感がなくては嘘だと思うんです。個人的幸福とか、個人的探求の時代じゃない。悟ったら幸福とか、救われるとか、そんなの大嘘で、この歪んだ世界はどうなるの、と。悟りはゴールでもなんでもないし、そんなに甘くない。逆に、課題が課せられる。そこからでしょ、という切迫感が今はある。白の側に来たら、個人的なことは置いといて動き出さなくちゃいけない時代になっている。個人的探求というのはあくまで個人がやればいいことで、それはメインテーマではないということです。
河 つまり、形にしてゆくことで俗な世界につながっていくと。
那 いきなり、崇高な芸術作品を作ろうなんて思わなくてもいい。新しい粘土で、これかな、こうかな、と試行錯誤して作り出すことが大事。何か違うでしょ、と。今、この世界のあり方に疑問を持ち、無我の側の世界の重要性に気づいた人たちは、何らかの形でこの世界に表現する――その行為自体が大事なんです。粘土そのものが違えば何かが違う。もちろん、それは芸術活動に限らず、生活の中で表現してゆくことが一番大切なんですけどね。人間関係や、ちょっとした身振り、素振りの中で。でも、まずは時代を変える象徴として、形にしたものが必要なんじゃないか、と。機関紙『MUGA』はそのために作ったんです。まだ産声を上げたばかりで、本当に小さな声かもしれません。でも、ここでは、「無我」が感じられるような作品を発信、評価してゆきたいと思っています。