第18号編集会議 第1回オフ会
12月15日都内某事務所にて
※去る12月15日、都内某事務所にて無我表現研究会の第一回オフ&座談会が開かれました。7名の参加者が、約3時間に亘って様々な話題が繰り広げましたので、その模様をご紹介します。
★ 編集会議出席者
・那=那智タケシ(無我研発起人)
・高=高橋ヒロヤス(無我研執筆者・弁護士)
・た=たまちゃん(たまちゃんSOUZOU学科主催)
・加=加藤女史(会社員・ウルトラリンパ受講生)
・ハ=ハニー(会社員・スピリチュアルな世界を遍歴)
・M=M女史(会社員・スピリチュアルな世界を遍歴)
・テ=ティモ君(20代男子・岩手から参加)
●それぞれの悩み・遍歴
那 ではみなさん、まず自己紹介からお願いします。
ハ 昔からこういう世界(精神世界)に興味がありました。それから紆余曲折あって、偶然、アマゾンで那智さんの「悟り系で行こう」という本を知って、面白い人がいるんだなと思って。それからたまさんのブログを偶然知ったんですが、たまさんと那智さんがお知り合いになって対談をしていることに妙な偶然を感じて。それからメルマガを購読しはじめました。
加 私はあまり本とか読む人間ではなかったのですが、一時期仕事がつらくて鬱病になってしまったんです。自分のどこがいけなかったのか、何が悪かったのか、すごく悩みに悩んでいる時期があって…。その時に本をいろいろ読んだのですが、その中に那智さんの本があって、メルマガまできて…。同じ時にちょうど母親が癌で亡くなったんですけれど、メルマガに菊池さんのウルトラリンパの話があって、すごく共感したんです。母も抗がん剤で体が免疫力をなくして亡くなってしまったので、やっぱり健康であることとか、体力を失わずに治すという考え方が大事だと考えて、リンパの講座を受けたのが那智さんや高橋さんと知り合いになったきっかけです。
M 私がここに参加したのは、読み手の側からどんな人が作っているんだろう?と。文章からだけだとどうしても自分のイメージでカチッとしてしまうのがあって、実際に会うとどんな感じかなと思ったので、参加しました。
まずメルマガを読むきっかけっていうのは、たまちゃんのブログを見て、那智さんと対談をしているのを聞いて、購読しました。自分を深く見る作業をはじめた時にたまちゃんのブログに出合ったんです。自分を深く見ようと思ったきっかけは、今年になってから自分がいろんなことに依存しているというのをはじめて認識したんです。それまではそういうことを一切思ったことがなくって。急にすごい依存しているんだなって。依存というのがすごい無責任だと思ってショックを受けたんです。それで、どんどん話が過去にさかのぼってしいますが、そんな風に思ったきっかけは、すごく楽しいグループの中で活動していたんですけれども、ある人と本当に親友になって、きっと人生ずっと楽しく、この人と話しながらやっていくんだろうなって思っていたのが、ものすごく簡単なことで崩されたというのがあった時に、依存を感じたんです。今はたまちゃんと滝行をしたりしながら、自分を見つめる作業をしています。
テ 二十四歳で、岩手の盛岡から来ました。高校の時にクリシュナムルティっているじゃないですか? あの人の本を読んで、読んだのはいいんですけど、難しいんで。それで日本にクリシュナムルティの影響で本を書いた人というのがその時は見つからなくて。あきらめていたというかそんなのがあったんですけど。最近、アマゾンで偶然、那智さんの本を発見しまして、クリシュナムルティで覚醒したとかそういうことが書いてあって、この人だって感じで。
那 遠くから来てくれてうれしいですよね。若い人も珍しい。高校生でクリシュナムルティにひっかかるのも面白いですね。
テ 精神的にちょっと病んで。いろいろ読む中で偶然発見して。最近、那智さんの本を読んでこういう人に出会いたかったという感じで、今日は来ました。
たまちゃん到着。
那 一通り自己紹介とか、このメルマガを何で知ったのかとか、教えもらったので、たまちゃんもお願いします。
た 何で知ったんだろう?
一同(笑)
た 思い出せない。
那 実はぼくも思い出せない。いつもそうだよね、いつだっけ?とか。どうしてだっけ?とか。同じタイプ。全然思い出せない。
た すっかり忘れてしまいました。
那 自己紹介を。
た たまちゃんSOUZOU学科というブログを書いているたまちゃんです。今、Mスタジオというところで、アートとヨーガを練習する教室を開いています。後、趣味?
一同(笑)
那 自分の遍歴とか、きっかけ。
た 三、四年くらい前になりますかね、ふとしたことで。記憶が定かでないんですけれども、自分を知ろうと思いまして。そこからいったい何をしたらいいんだろう?と。手探りでたくさんいろんなことをやりながら、ただ誰かに依存することなく全部やってみようという感じで、ちょこちょこいろいろなことをやってきました。あっちにいってはいろんな人の話を聞いてみたりとか。実際に滝行をやってみたりとか、屋根の上で一晩寝てみたりとか(笑)いろんなことをしながら過ごしました。
ある時、自分なりの答えというのが見つかって、果たしてこの体験は他の人もあるのかどうかと探そうと。初めてそこでインターネットというものを使って、他の人を見てみたんですけれども。なんか、何となく同じようなことを言っている気がするんだけれども、なんか違うぞっていう、そのまた微妙な差が、自分の中のもやもやになり、今度はそこを探求したい、知りたい。何なんだろう?と。そういうことをやりながら、いろんな情報と自分をすりあわせながら、何がどう違うのかっていうのを良い悪い関係なしに、どこから違うというのを探してきました。
クリシュナムルティはまったく知らなかったんですけれども、私が言っていたことが、友達にクリシュナムルティが好きで昔から読んでいた人がいて、どうも同じようなことを言いだしてきたということで、教えてもらったんですね。たまちゃんと同じようなことがこの本に書いてあるといわれて。それで少し読んだ。あまり多くの本は読んでいないのですが、一、二頁読んだだけで、同じような感じだと思って。そこからちょっと読むようにして。翻訳も難しいのか、読むのがすごいたいへんで、今はスタジオでクリシュナムルティの読者会とかをやって、ゆっくり読み合わせをしていたりしています。
●自我肯定をしてしまうスピリチュアル
那 那智というのは、悟り系で行こうと言う本を11年の3月に出す時に、悟りとかって仏教の世界とかあるし、やばいのかなと思ってペンネームでつけた名前です。体験というか、認識の転換があってから人に言うことでもないし、三年ほど黙っていました。本を書いたのは、たまたまライターという仕事をしていたこともあり、ちょっとこの世に中にひとこと言ってやろうかなというくらいで出版のあてもなく原稿をばっと書いて。たまたま出してくれるところがあったので出したという感じです。
本を出してからいろいろな人から連絡はあったのですが、潜態論という科学を何十年も研究している人から連絡があって、通じるところがある、と。意気投合して。それからすぐ原発の事故があって、潜態論というのは原発を何十年も前から論理的に否定していた科学なんですが、こういう時代だから何か一緒にやりませんか、と。悟りとかスピリチュアルだけじゃなくて、芸術とか科学とか、ひとまとめにした新しい価値観を提出できる何かをやろうということになりました。名前をぼくの提案で「無我表現研究会」にして、資本も何もなかったので、メルマガでもやろうとした時に、高橋さんがブログにコメントをくれたんです。ぼくは高橋さんの鳥居みゆき論なんかを書いてある芸能ブログのようなものを知っていたので、連絡を取り合って、当初は、三人で始めた感じです。
それから詩人のリタさんや、アラスカのマチカさんや、リンパの菊池さん等、縁がある人やアンテナに引っかかった人に執筆してもらったり、対談してもらったりしながらコツコツ続けてきました。
一年半以上続けてきたのですが、スピリチュアル業界への嫌悪感みたいのもあって、作品で勝負しようというラインで続けてきました。でも、一年以上続けてきて、あまりに一方通行だとそれもどうかということで、高橋さんの提案もあって、新しい出会いというか刺激を求めて今回、こういう会を開かせていただきました。面白いイベントになればいいと思うので、本音でばんばん言っていただければと思います。
高 メルマガの感想を聞かせていただけるとうれしいのですが。
ハ 私はスピリチュアル業界がどうしようもないというのは賛成で、那智さんがまともなブログを書いているなと思って。メルマガには悟りとかじゃなくて、詩とか、芸能とかリンパのこととかいろいろ載っているから。私はそんなに真剣というわけではないのかもしれないですけど、娯楽として毎月楽しみにしているという感じです。
高 じゃあ、たまちゃんのブログで那智さんを知ったって感じですか?
ハ いや、別々に知って、そしたらたまたまお二人がつながったんで、こういうこともあるんだなって思って。
那 意外と狭い業界というか似た者って少ないんですよ。もっといっぱいいると思っていて。
ハ いや、那智さんとたまちゃんは特殊だと思いますよ。
那 たまちゃんは過激だけどまっとうで面白いことを言っているので、ちょっと話します?と。ハニーさんは、スピリチュアル業界で紆余曲折あったわけですか?
ハ 相当あって…。もう、本当に心からこれはだめだと思って、一切切って。真実というのはお金とかじゃないはずだと思って。そんなに大量のお金をつぎ込まなかったんですけど、たまちゃんとか那智さんはそういう中では利益とか、そういう感じではなかったので、興味を持ってという感じです。最近のスピリチュアルな業界ってどう思いですか?
那 基本、自我肯定ですよね。きみは大丈夫だよって。みんな疲れているから、癒されたい。だから人気が出る。でもあれは、残しちゃうんですよ、ここに(胸)。これまで積み上げてきた自分を包み込んでくれる。大丈夫だよって。自己肯定が、あの言い方だと自我肯定になってしまう。ぼくは逆で、ぶっちゃけて言うと、ぶっ壊さなくちゃいけないという人。ただ、これは本気でやると生きるか死ぬかになってしまうし、相手の死を預かって責任を持って誰かを導くような役割があるとは自分にあるとも思っていないので、表立っては言いません。
●危険な瞑想とは
那 個人的に何か修行のようなことをしている人はいますか?
ハ 瞑想はしていますね。
那 座っていますか?
ハ 姿勢とかはそれぞれですけど、いろいろやり方を調べて、この人の言っていることは信じられるなというのがあって、これをやってみようって思うのがあって、それを毎日、五分から十分、つらくない程度で継続していってます。
M 私、瞑想って怖かったんですよ。だからやめたんです。あるところで団体でやっていたのですが、瞑想をはじめると、自分の中で変なところにいっちゃうんですよ。変なところにいって戻ってこれないという感覚があったりするので。やり方がきっと間違っていたのでしょうけれど。だから瞑想をやめて肉体行にしました(笑)
那 変なところにいっちゃう感じ?
M 一番怖かったのが、やっていて「みなさん終わりましょう」って言われた時に、戻ってきた時にすっとまた戻っちゃう。現実に戻れない。変な世界にいっちゃうんですけれど、いっちゃう世界というのが気持ちいい世界。気持ちよくて、白くて、ふわーっとした世界。戻ってもまたすーって後ろからひっぱられるみたいにいっちゃうって感じで、それが何かずっとあってなかなか戻ってこれない時があった。いつも意識していないと、ひっぱられちゃうみたいな。
ハ それってどういう瞑想ですか?
M 「さぁ、みなさん瞑想しましょう」と言われて、自分の中心に行くみたいな、そんな感じ。
ハ 瞑想って一口に言っても、難しいというか危ない感覚がありましたね、自分の中では。変な風にやっちゃうと精神がおかしくなりそうな。
M たぶんそれは私が抱えていたいろいろなものがあるので、そういう方向にいったんだろうな、と。だから解決の方法を知っていました。自分の中ではわかっていたんです。
ハ 同じ瞑想をやっても結果が違ってくる。
M そうです。
ハ 自分の体験でも、スピリチュアルってみんな簡単に言ってるけど、瞑想って本当に危ないものだなって思っています。変な人につくとおかしくなる。
那 きつね憑きみたいな人もいますね。
ハ ああ…。
那智 結局ね、最初は自我をクリーンにしないと、あるいはパソコンだったらデフラグじゃないけど整えないで強制的に瞑想したり、オウムじゃないけど苦行して神秘体験したりすると、たいへんなことになる。非常にいびつな精神構造になる。クンダリーニがあがろうが何しようが。人間の体って一定の修行をすると神秘体験をしたり、エネルギーがあがってパーッと気持ちいいとか自動的に起こったりする。でも、ここにある積み重ねてきた「私」というイメージとか、「自分は特別だ」という意識とか、人よりも優越したい自分とか、そういう虚構の自我を見て壊すなり落とすなりしないと、そういう体験は害悪になりかねないというのがぼくの見立てです。そういう人が見ているとすごいいるので。
みんな天上に行きたいわけです。天上からはじめたい。でも、ここ(胸)から見ないとどうしようもないよ、と。見ていくと下のエネルギーになる。逆に、落ちていく。底蓋が外れて、落ちていく。虚構性を理解した後、さらに見て、味わって受容してゆくと、自我の残滓のようなものがとめどなく落ちるようになる。そっちで浄化した後だったら何をしてもいい。けれど、パイプが詰まっているのに強制的に神秘体験をしても汚いもや幻想とミックスされてろくなことにならない。逆に取り返しがつかなくなったりするんです。自分は世界を救うメシアだと言いかねない。自我が肥大化した妄想と体験が一体化して、観念化、固定化されてしまうともうどうしようもなくなります。
M もっとそれを早く知りたかったな、と。本当にいろいろ抱えながら様々に体験してしまったから。最近、ようやく体験を追い求めるのではなくて自分を見始めた感じです。
●精神病とは社会の外にあるもの
那 事前にMUGA17号を配布させていただいたんですが、感想を聞かせてください。
テ 那智さんの小説はけっこう、印象に残ったというか。埼玉県の女性の話で、何回かそういう小説とかあったと思うんですけどすごく面白くて。
那 娯楽として読めるものになっているならぼくはうれしい。
テ こういう人もいるんだなと思いましたし、スピリチュアルの危険性も感じましたし、あとはリタさんの詩も好きです。自分はけっこう、自然が好きなので。
那 似ているんでしょうね。クリシュナムルティが好きな人は自然が好きで、自然が好きな人はこういう作品が好きでって。例えばたまちゃんはクリシュナムルティに共感する、と。画家ならルドンが好きだという。ぼくもルドンは一番好きな画家なんです。
テ 自分もルドンは好きです。
那 似ているんですよ。不思議でしょ?普通そうした要素がつながることはあまりないように見える。それでいて、今、ここにいる人の中に偶然同じものが好きな人が三人いる。そういうものが好きな人はぼくの小説は好んでくれるかもしれない。それから高橋さんの評論とエッセイはそれぞれ別人の作品のようなものなので、それは別々に聞いてみたい。ハニーさんは17号を読んでみてどうでしたか?
ハ やっぱり那智さんはライターという仕事をしていることもあって、普通に生活していたら会わないような方ともよく会ってらっしゃるんだなって思って。印象的で。今回の芹姫さんは小説として読むと無の人なのかもしれないし、でも、普通の一般の人から見たら統合失調症。その二つの見分け方がやっぱり一般人にはわからないというか、その点で難しい、真実はどっちなのかなというか。
那 その話になると精神病とは何ぞやというね、社会的常識の枠組みの外にいる人は精神病扱いされるわけで。ちなみに芹姫さんは実在はしません。
ハ しないの? 真剣に考えちゃった(笑)
那 ただあのテープは実在します。芹姫さんが言った言葉じゃない。全然違うキャラクターの人が言っていて、録音させてもらった。小説仕立てにする時に、芹姫というキャラクターを考えた。いろいろな人がモデルになっているのですが、あれを実在だと思ってくれたら成功だったのかな、と。リアリティというか。
ハ リアリティありました。
那 嘘くさい話じゃないと感じていただければ。
た リング以来でしたよ、映像が浮かんだ、本読んで、リアルに(笑)
那 そんなに?(笑)
た きゃあーみたいな(笑)出てくる感じで。目に浮かびました。
那 こういう人と話すと背筋がぞぞぞってするんですよ。無意識のところにつながっている人というのがいる。そういう人はスーパーリアルで、テープを聞いていても、ぞくぞくする。ホラーと言うかね。ただそれをたいしたことないなんて言ったら小説にならないので、負けたとか圧倒されたとか、でないと共感を持たれないんです、小説って。悟り系だから何ともなかったと言ったらだめなんで。本当は超えているから表現できていると思っているんですけど、だめだめなところを出した方が共感してくれる。
テ 煙草をやめたのは本当ですか?
那 本当だけどこれがきっかけじゃない。単に体壊して。
一同(笑)
●自分が消えた瞬間、行動が始まる
那 加藤さんはウルトラリンパを一緒に学んでいるのですが、あまり普段こういう話をしないんですが、MUGAとか読んでどう思っているんですかね?
加 このメルマガは毎回読んでいます。最後の高橋さんの「無我表現とは」という文章が、私としては面白かった。たまたま小林秀雄さんの本とか読んでいたので。子供の頃は絵とかすごい好きだったんですけれど、働き出してからは仕事中心で、仕事以外切捨ててしまう感じできていたもので、美とか芸術を見るという感覚というのを今まで仕事に使って見ないようにするというか、捨てちゃっていたようなところがあって。小林秀雄さんの文章で、そういうのは見ていないとなくなっちゃうと書かれていたので、これからいろいろ美術に触れていきたいと思っていたので、そこですごく共感しました。
那 高橋さんとしては、この文章はどういう意図で書いたのですか?
高 今回、座談会をやるというので総括的なものを書きたいと思ったんです。メルマガの創刊号とか2号を読んでくださっている方には、繰り返しになってしまうと思うんですけど、17号になってもう一度ちょっと改めて原点というか。今日のためにというか。急いで思いつきで書いたので練れた文章ではないし、基本的にこういうことが言いたいんだ、と。
だから悟りとか無我とかいうのをあまり重んじすぎないというかね、むしろ表現が大事なので。悟っているから偉いんだ、とか、無我だからじゃなくて、むしろ何を表現しているのかというのが一番大事だと思うんですね。だから悟りについてすごい精緻な理論を作って、この通りにやれば悟れるとか、実際にこういう風な体験があったとかそういう人はたくさんいるんですけど、じゃあ、実際にその人が今、何をやっているの、と。セミナーとかやって人々を導いている仕事とかあるのかもしれないけど、それ以外の場面で、震災があって、原発事故があったりする状況の中で一人の人間としていったい何をやっているの?と。表現としてそれだけじゃないだろ、と。
ぼくはスピリチュアル業界は知らないけど、精神世界には興味があったから、そういう本はいろいろ読んでいますけど、その中ではなくて、むしろ外にあるもので無我表現というかな、そういうのがどこにあるかを探して紹介していきたいな、と。
那 社会につながった形の表現。閉じられているから、ああいうところは。
高 スピリチュアル業界の中で閉じちゃっている。そういうあり方がちょっと違う。そこで言われていること自体は普遍的なことが言われているとしても、表現できていないから、社会に出すインパクトがない。そういう意味でいろんなジャンル、AKBとか(笑)最近では、建築家の坂口恭平さんとか。そういう人は掘っていくと、無我的な発想がある。坂口さんは自分が消えた瞬間があって、そこから行動が始まったというから。いろんなジャンルで、悟りとか言っていないけど、やっていることはそういうことになっている。そういう人を見つけていくというのがぼくのここでやりたいことだと思うんです。
那 今まで当たっていなかった光の当て方ですよね。AKBと坂口恭平と、ランボーとドストエフスキーが並列で評価される。こういうものが美しいんじゃないか、とか。大げさに聞こえるかもしれないけど、人類にとっての方向性を指し示すのがこのメルマガの存在価値ではあるのかな、と。もう少し執筆者のバリエーションが欲しいのは正直なところですけど。
高 那智さんが言われたように新しい価値観の創造。大げさに言うとそういうところを目指しているわけだけれども、いろんな人がいろんな観点から書いてもらうのが本当は望ましいんですよね。今の所、連載人は3人ですし、これからいろんな人に単発でもいいので寄稿してもらえればという希望もあって、今日の集まりになっているんですけど。
●表現は方向性を持たず、自己完結していなくてはならない
M 私は那智さんの作品は物語として読みやすいと思った。一番感じたのは、50円玉を芹姫さんが拾うシーン。私もこんな感覚あったよなって。いつも読んでいるとすごく私の中では、キーンとした感じなんです。すごい変な表現なんですけど、きれいな感じ?シンプルというか。それで実際に会った時に、ああ、ちゃんとした人だって、普通の人っていうのかな、悪い意味じゃなくて。
高 どんな人だと思っていたんですか?
M 文章だけしか知らなかったので、文章の中から、なんか線の細いすごいきれいな人という感じだったんですよね。表現が難しいんですけど。
那 わかりますよ。ソフトにおっしゃっていると思うんですけど、もっとやっかいそうな人とか面倒くさいこと言いそうな人とかそういう風に思っていた?
M そうじゃなくて、本当に純粋に、言葉通りに受け取ってもらえばいいんですけど、すーっとした一本、余計なものがついてない、すーっとした感覚でいつも受け取っていて。だからこの文章は実際にあったこととして私は受け取ったんですけど、今日お会いする日を楽しみにしていて、普通と言うか。良かったというか。
那 意外と普通、みたいな(笑)物書きなんてそんなところありますよね。自分の中の純度の高いものを形にしているわけで。
M こういうのをすごく忘れていたな、という感覚がありましたね。本当に純粋なものに対した時のはっとした感じというか。自分がもう見失っていたものを思い出させてくれたようなそんな感じがしました。
た 私も小説も目に浮かぶように読ませていただきましたし、「無我表現とは」というエッセイも、すごくコンパクトにまとまっていると思いました。
高 たまちゃんのブログの方がはるかに強烈ですけどね。
た そうですか?(笑)でも、表現というのは、無我ですよね。セミナーというのは表現ではない。説き伏せるのは表現とは言えない。表現というのは自己完結している状態だから表現。
那 文字通りですよね、表に現すのが表現だから。隠れたものがそのまま顕になって表現。本質が形になっているから自己完結している必要がある。表現とメッセージは違います。
高 セミナーを受けた人がいて、それが終わった後、どう表現するかですよね。セミナーの空間というのはパッケージ化されている。そのマニュアルを伝える空間。そこではある訓練を積めば誰でも講師になれるし、同じようなこともできるかもしれないけど、それが終わった時に一人の人間として自分が、周りの出来事に対してどういう風に振舞っているのかというのを見ないと評価できないのではと思います。
那 極端に言えば、実生活は見えないけれど、ブログの字面を見ただけでぼくはわかります。響きというか。顔を見ても、文章を見てもすぐにわかります。それが肉化されているかいないかということが。本質は顕になる。見る人が見ればごまかせないんです。
た 表現って考えると、何か表現されたものを見ると考えますよね。これは何だろうって。ちゃんと考えさせてくれるのが表現であるというのは思いましたね。
那 いいとこ取りではないということですよね、方向性を持たないというか。例えば、芸術家は選択してはならない、と言いますね。リルケとかロダンは。表現対象を美しい存在だけ選ぶと、イージーな少女マンガになってしまう。それは芸術ではない。ひとしなみにこのコップだろうが、犬の糞だろうが、老婆だろうが、美しい人だろうが、愛して表現しなくてはならない。それって自分の目で見た世界じゃないですか? その中で編集作業は当然ある。これが価値があるとか、これが実在だとか。でも、基本的にモチーフを選択する権利を芸術家は持たない。それがストイックな表現。そういう意味で言えば、ある種のセミナーの「あなたは完璧で美しい」というのは愛じゃないし、メッセージでしかない。選択と方向性があるから。
たまちゃんが言った本当の意味の表現というのは存在それ自体の結晶なんではないでしょうか。例えば、モナリザという絵がある。あれについてひとことで何か言える人はいないと思うんです。悲しみがあり怒りがあり喜びがあり、祈りがある。すべてが一つになってモナリザになる。リンゴと同じで、事物それ自体に良いも悪いもない。評価を超えている。そこまでいったのがたぶん本当の芸術表現で、神の被造物に近づく。人間それ自体も同じで、今の自分を出せばそれが表現であって、良いも悪いもない。評価しきれないと思うんです。
た 表現って面白いですよね、なんで人は表現をしだしたのか?とか、いろいろ考えちゃいますよね。
那 なんで表現したいのか、とかね。自分を知って欲しいとか、認めて欲しいとか最初にあるとしても、もっと深いレベルであるものね。
●AKBとベートーベンを等価値に見る眼差し
高 過去の記事でもいいですけど、メルマガ全般で感想とか批判でもいいですけどありますか?
ハ よく高橋さんはAKBとか、論じていますが、私は嫌いなわけではないですけど、プロデューサーのこととか考えると、AKBを見る度にいたたまれない気分になっちゃうんですけど、高橋さんはどう思っているのかなって。
高 そこを言われちゃうと厳しい(笑)ぱっと見は俗悪かもしれないし。最初は那智さんが言っていたんですよ、AKBがいいって。AKBの中には純粋なものがあるって。最初はぼくも何を言っているんだって。
那 冷たい反応だった(笑)
高 高橋みなみの動画かなんかを見て、見所あるんじゃないって。知ってます?高橋みなみ。
ハ リボンの人。
高 そうそう、その動画で献身的に自分を捨ててメンバーに尽くしている。普通ならできないことをやっている。行動でこういうことをやっているのはすごいというか、口で言っているだけじゃなくて。実際に200人以上メンバーがいても、たかみなのことを悪く言う人は一人もいないと言いますね。心からみんなしたがっている。AKBにはたかみなについて行くメンバーと、たかみなに何があってもついて行くメンバーしかいないと言われているくらいにね。だから、そこまでのことをさせるというのが、単に計算でやっているのでは絶対ないし、まぁ、それがきっかけだったんです。だからってAKBがいいからみなさん聴きましょうとはそんなことは言わないですけど、さっき言ったように社会で無我的な表現をいろんなジャンルで探している中でそのアンテナに引っかかったということで、いろいろ書いてるんですけど。
那 ぼくが及びもつかない境地にいってしまったので(笑)
一同(笑)
高 若いティモ君はどう? 全然興味ない?
テ ぼくも冷たい目で見ていた。高橋さんの文章を読んでこういう深い見方もあるんだなと思ったりして。自分は中古リサイクルショップみたいなところで働いているんですけど、CDコーナーがあって、レジの近くにあって、デモ機でいつもAKBかかっていて、いつもうるさいなと思っていらいらしていたんですけど。
高 それは誰もが通る道です。
一同(笑)
那 まだ甘いらしいよ。
高 自分もそうだった。
テ それくらい深いものがある、と。
高 深いかどうかはともかく。例えばベートーベンとかバッハとか、すばらしい音楽があるじゃないですか。本当に崇高で無我表現。それとAKBというものすごく俗悪な表現があるんですけど、そこで現れているエッセンスというのは等価値だと思っているんですよ。非常に洗練された表現と俗悪な表現があるんですが、何というのかな、無我からきているのかな、そういうものがある。ぼくも上手く言えないんですけど。そこにおいては等価値だと思っていて、だからこそどんなジャンルにもそういう表現はあると思っている。例えば悟った人がやる表現が無我表現で、そうでない人が何をやっても無我表現にならないということない。まさに那智さんの小説の女性の最後の行動は無我表現だし、そこであまりレベルという話をしたくないというか。あと、無我表現って別にきれいなものじゃないし。
さっき選ばないという話があったけど、無我表現というところでは等価だとぼくは思っているんだけど。この辺のことはまだ言葉にできない。
那 さっき、ぼくの小説の主人公は実在しないと言いましたけど、モデルになっている、それに近い人物はいるわけですよ。どういう人かというと、道を歩いているでしょ?誰かかポケットからレシートっぽい紙切れを落としたとしますよね。道の向こう側ですよ。ぼくらはほっておいていってしまうと思う。でもその人はタタタと走ってって、どうぞって。向こうからしたらうざいし、変な人だと思われるかもしれない。でも、そういうところで何も考えずに動いてしまう。瞬間で。こういうところは勝てないな、と。人が小銭をばらまいても一生懸命拾って。本当は人のお金ってあんまり触ってはいけない感じがするけど、そういうのも考えない。良いことをしている意識もない。ただそういう人なんですね。そういう損得抜きで動く先天的な人がいるんです。
無我表現という言葉はぼくが最初に考えたんですが、生きた人間を見る中で、こういう人が無我表現なのかな、とか。誰も認めないし、理解もされないし、愛されもしないけど、けなげに生きているな、とか。そういうの美しいな、とか。こういう人がちゃんと評価されない世の中ってなんだろう、とか。仕事がちょっとうまくできて、要領がよくて、上司におべっかを使って給料を高くしてもらってなんて人たちがいる一方、さっきの人は雑用ばかりやらされて安月給で働いていたり。本当に価値があるものは何かっていうのを提示したいなって。
高 クリシュナムルティは思考というものを否定する。思考から出た行動はすべて腐敗するという過激な言い方をしますが、まさにそれが無我表現でないものなんですよね。クリシュナムルティのいう選択なき気づきとか、観察者なき観察というのはまさに無我表現のことを言っているわけで、そこに思考とか、今言ったような計算とか、功利主義とかまったく介在しない行動のことですよね。そういうのは、日常の中で、なかなかめぐり合うことはないけれども、ある瞬間にそういうものが出たりする。普段、利己的に振舞う人でも、ある瞬間にそういう行動を取ってしまうこともある。そういうのは全部無我表現。そういうのを拾っていくというのかな、そういのが本当にできればいいなと思っています。