第2号編集会議 無我の科学・潜態論

座談会「潜態論」の可能性について

★ 編集会議出席者

・那智タケシ=那 フリーライター 『悟り系で行こう』著者

・河野龍路=河 潜態論研究家  『潜態論入門』著者

・高橋ヒロヤス=高 ウスペンスキー等の翻訳者 弁護士


●無我の科学・潜態論の時間論
高 ぼくは無我表現研究会で河野さんにお会いして、潜態論という科学の可能性にすっかり魅了されてしまったわけですが、やはり小田切教授が現象の源に「潜態」というものをもってきたところがすごいと思います。現象を閉じた単体としてではなく、潜態から生まれた半開のものとして捉え、従来の科学式を書き換える。これはものすごい試みだと思うのですが、昭和の時代では理解されなかった。今、理系の人には理解されるのでしょうか?
河 わかりません。逆に理系の人ほど受け入れるのが難しいかもしれませんね。
高 友人にSF作家がいるのですが、彼なんかは興味を持つかもしれません。その辺りから火がつけばいいな、とか。
河 SFでタイムマシンというのがありますよね、潜態論的には時間を遡ることはできません。未来にも行けないのでタイムマシンは存在しなくなる。
那 潜態論的に時間の定義というのはどうなっているのですか?
河 時間論というのは「謎」だから面白いのかもしれません。ただ潜態論では時間というのは何かというと「謎」を時間と呼んでいるんです。むしろ、ひっくり返してしまった。
高 その発想が面白い。
那 クリシュナムルティなんかは、「時間は思考だ」と言いますよね。ぼくはわりとそっちなんです。例えば無我夢中で何かをやっていると人は時間を感じない。無心だからですね。ぼくは麻雀をやるんですが、調子がよくて流れと一体になっている時は、ほとんど記憶がないんです。どうやって勝ったか覚えていないことが多い。思考が入り込んでいないんですね。ところが調子が悪くて負けている時は、なぜ負けたかしっかり覚えている。思考、つまり自我が入り込んでいるからです。時間というのはそんな風に、思考が介在するところにだけ存在する、と感じます。「謎」と言われるとちょっと身体の感覚では自分にはわからないです。
河 潜態論では、「謎」というか、不明な環境を時間と定義しています。だから今、那智さんが言った「調子がいい時は時間を感じない」というのは、不明な環境がないからです。調子が悪い時は、環境が邪魔しているから時間を感じる。時間のあるなしというのは、結局、環境を意識するかどうかなんです。だから楽しい時は環境をあまり意識しないから時間を感じない。不明環境が時間だという精神的な意味はそういうことです。物理的には見えているものが空間であって、見えていないものが時間として左右しているので、それをカウントしている、見えないものカウントせざるを得ないということです。
高 ウスペンスキーなんかも、もし二次元生物というのがいたとしたら、三次元の高さというのが時間だといいますね。自分たちの知覚できないものを時間と捉える。我々が三次元の知覚を持っていると言われているけれど、明日のことがわからないというのは、もう一段上の次元から見たら、明日のこともわかるかもしれない。でも、我々にはわからないからそれを時間と呼ぶ。それと潜態論の時間論は通じる気がします。ただ、小田切先生はバリバリの科学者で、自然科学を書き換えようとした人ですから、今の科学者が見たらどうなるかものすごく興味があるんです。
河 見てきた人もいるはずですけど、拒絶されてきたというかね。
高 それは単に心理的抵抗なんですかね? 小田切先生の数学的表現がある。あれは肝なわけですよね?

 

●ノーベル賞・湯川秀樹の理論を否定した小田切瑞穂
河 今、ある科学に対する書き換えですね。
高 もしもあれが正しいのなら、好き嫌いは別にして認めざるを得ないと思うんです。アインシュタインの方程式だってニュートン哲学からいうと違うけれど、認めざるを得ない。潜態というのがあることを認めざるを得ないんじゃないですか?
河 現象論的な客観データを基にした現在の科学を最初から否定してしまうわけですから、それを否定するのはなかなか難しい。
高 現在の科学では素粒子は百以上あると言われていますが潜態論では素粒子は四つということになっている。それを実験で裏付けることはできないんですか?
河 できると思いますよ。光、熱はともかく、動く、止まる粒子が見つけにくい。潜態論が認められれば、意識的に四つの素粒子を見つけることはできると思う。
高 論理必然的に四種類しかない。潜態論を前提にすれば、素粒子論が非常にすっきりするということですよね。
河 霧が晴れたように明解になります。基本は四種類の素粒子と、それを組み合わせた六つの動き。今の素粒子論は実験で強引にぶつけて出てきているものを探し出している。つまり、後から無理やり結びつけて作っている。しかも一瞬。存在の基礎ではなく、一兆分の一秒とか。そんな単位でしか存在しないものを素粒子として扱うのは意味がないんです。潜態論では素粒子は二つに分かれる。つまり存在の基本になっている素粒子とそこから派生的に出てくる素粒子です。潜態論なら素粒子を分けられんですが、それを知らないと分けられない。なぜなら、潜態とのつながりが見えないからです。
高 既存のデータから潜態論で別の読み取り方をできる、と。
河 できるでしょうね。ただ、背景になっている思想を覆すのは難しい。当時、小田切の同期の湯川秀樹なんかは見ているわけですから。非科学的だという見方をされてきた。小田切は湯川の論理を抽象概念にすぎないと否定していたわけですが。
那 でも、潜態論のどこが非科学的と言われていたんです?
河 つまり、見えないものを基盤にしているからです。
那 それが現象の基盤になっている「潜態」ですね。
高 でも、素粒子なんて存在の究極最小の構成要素ですよね。その先には無しかないわけでしょ?
河 今の科学でもその先は無ですよね。
高 その先は無であるという前提なら、潜態論を非科学的だとは思わないですけど。
河 ただ、その先は科学だけでは足りない。そこを超えるには哲学が必要。そこから先は科学が自分の力で行くことはできないので、哲学になってしまうんです。感覚でもって捉えることができないから、科学の対象にはならない。
高 ただ、感覚でもって捉えることができないということを認めないと、科学自体が存在の基盤を失ってしまうのでは。その先は無なんですから。
河 今、ヒモ理論なんかが科学として認められ始めていますが、感覚では捉えられないものを科学の基礎にするということは、科学自体が行き詰っていることの証なんです。
那 ただ、いきなり潜態論を科学研究者にもっていってもまだ受け入れられないと思うんです。まずは世間に潜態というものが認識される必要があると思います。高橋さんみたいに反応する人もいますし(笑 ぼくも文系ですが、これは本物だという直観はありましたから。
河 ぼくも文系の人間で、理系のことがわかっていたわけではないですけど、潜態論に出会った時は、精神世界のものにはない可能性を見た気がします。
那 下手したら仏教の人がこれを認めるかもしれない。「半開」なんていうのは、仏教でいう縁起や諸法無我につながるわけで、日本人なら誰でもそういう感覚はある。
高 小田切先生自身は禅もやられていて、お寺で講義等もされていたわけでしょう?
河 えらいお坊さんともお知り合いでしたね。
高 潜態論自体、仏教の四諦や六波羅蜜と潜態の原理を絡めて語っていますよね。
河 仏教の四諦と科学を関連付けたのは始めてだと思います。
高 ポテンシャルは膨大で、それを受け入れる土壌はできはじめている。このメルマガの一つのメインとして、単なる一科学理論として売ってゆくのではなく、文学や、アートや評論といったものと等価なものとして提示していけば理解できる人には理解できる。
那 時代の必然として、潜態論が注目されるようになれば面白いですね。
河 個人的には、一人歩きしてくれるのが理想ですけど。
那 「MUGA」を通して、より多くの人にこの科学理論の魅力が伝わってくれればなと思います。