第20号編集会議 石ころになって見えてくるもの
12月12013 3/10 渋谷のファミレスにて
★ 編集会議出席者
・那=那智タケシ(無我研代表)
・高=高橋ヒロヤス(弁護士・翻訳家)
・テ=ティモ伯爵(岩手からやって来た20代男子。クリシュナムルティ等を学ぶ)
●aikoは自分の響きがある
那 ティモ君はぼくらと人周り違う世代だけど、クリシュナムルティが好きだったり、リルケが好きだったり、画家だったらルドンとか、本当にびっくりするくらいぼくと似たところがあるよね。
テ はい、不思議です。
那 AKBを受け付けないというのはわかるんだよね。
高 (笑)
那 いや、高橋さんがこのメルマガで取り上げた視点はともかくとしてさ、ティモ君は商業主義というか、感傷主義というか、そういうのばっかりだから、やだーってなって、もっとリアルな、今の自分の不満足感とか、不条理感とか、深さとか、響きを持ったものを求めた。
テ そうそう。
那 その時に、例えば今回紹介してくれたEnvyが響いたということでしょ?
テ 本とかでも、クリシュナムルティとか、リルケとか。
那 「マルテの手記」好きでしょ? ぼくも好きだけど。岩波文庫版に限るね?
テ はい。
那 物足りない、物足りないって思う人って、絶対、究極までいかなくては気がすまないの。で、これが絶対だ、これが絶対だと探していくと、ある地点にいく。これで、響いてきたと。自分の抱えてる絶望と同じくらいだ、とか。これがリアルだと感じるという。その感覚はわかる。似ているから。
ぼくも学生時代は軽いSFから入って、物足りなくて、カミュ読んでみよう、カフカ読んでみよう、キルケゴール読んでみよう、ドストエフスキー読んでみよう、古典が終わったら精神世界とかそっちも探ってみたり。クリシュナムルティに出会ったり。音楽なら、クラシック行く人はバッハとかベートーベンに行く。こういうよりコアな現代的な表現に行く。だから止まれないのよ。途中で納得できないんだよね?
高 その感覚はわかる。これが究極だっていうのが、これ(Envy)に出会った時、彼が感じたってことね。
テ そんな感じです。
那 最近思うのはさ、響きというかさ、太鼓叩くようなものでさ、地に足が着いた瞬間に響くものがある。中途半端にこの辺り、空中じゃ響かない。響く振りはできるけどね。表現として。言葉もポンとここ(足元)に来た時に、それがどんな俗な言葉であっても響く。響きを持つ。例えばファミレスにいて有線がかかってる。いろんな今風の音楽がかかっているけど、全然響かないな、と。響かない、響かない、と思っていた時に、たまにいい曲とかもある。メジャーでも。例えば、俺、今まで全然なんとも思っていなかったけど、今日とか朝ファミレスいたら、aikoが流れてきたのね。
テ ああ……
那 響きがあるのね、あの人。わかる?
テ はい……
那 aikoすげーな、この人本物だ、と思った。あっ響いてるって。この人は自分の響きとか、言葉を持っているんだよね、だから続けられると思う。ヒップホップの変な売れてる歌の後にaikoで、そこに好みとかじゃなくて差を感じたんだよね。
高 地に足が着いてる感がある。
那 そう、そう。それが高尚であろうが、俗であろうが、表面的なことは関係なくさ、等身大で、自分の言葉で、自分の大地に足を着いて表現している。だからこれ(ティモ君の評論)見ると、Envyって人は俺はYoutubeで何回かしか見てないけど、そういう人たちだっていうのはわかる。好みはともかくさ。普遍性とかはともかくね。それはだからズキューンってきたってことでしょ?
テ はい。
高 出会ったのは高校生の時?
テ そうですね。
那 だから志賀直哉にしてもさ、遠野物語にしても、地に足着いてるんじゃないの? 自分の地平で見て、手ごたえのある事実を表現してる。何か?と。これ以上のものはないし、これ以下でもないというところで裸で勝負できる。気取らずに。
高 虚飾がない。
那 そう。それがすがすがしい。
高 志賀直哉で言えば、意味があると思われるという事実を、ピックアップして並べていくというか、その技術がすごい。てらってやっているのではなく、地に足を着いてやっていると自然にそうなる。
テ ああ……
高 天性の作家。そこは芥川が逆立ちしてもかなわない、という話がある。
那 今、思うのはさ、確かに志賀直哉が天才だとして、あるいは聖書というものが別格なものとして、無我研的にはそれを多少意識しないと意味がない。志賀直哉と芥川龍之介と太宰治が日本の古典となっているわけでしょ? 国語の教科書的な。みんな名作だよと言う言い方で終わらせちゃう。そこにある微差を指摘しなくちゃいけないと思う。その微妙な差の中に大きな隔たりがあるということを。
何か作るにしても、それを理解したうえで作らなくちゃいけない。てらうわけではなくて、知ってるってことね。彼らとは時代が違うんだから。何でも無意識でやればいいってものではないんじゃないかな。いったん、今の時代のやばさがわかった上で無意識に入るのならいいけど。だから、今回の並びは良かったと思うよ。遠野物語と聖書と志賀直哉とEnvy、これが同じジャンルだよってことだよね、無我研的には。これが一つの同ジャンルとして同じコーナーに並んでいなくちゃならない。そういうことなんですよね、やりたいのは。
高 無我表現ってジャンル?
那 無我表現っていうととっつきにくいかもしれないけど……
●柳田国男は意識的に「わかっていた」
那 柳田国男って人はさ、志賀直哉みたいに書けばそういう風になっちゃう人ではなくてさ、わかってた人だよね。時代のその、近代化される中でさ、過去の怪しげなものを捨て去って、功利主義の中でさ、これでしょと。ここ捨てたら日本人でなくなるよっていうのを知ってて、だから遠野出身の作家である佐々木喜善から話を聞いた時に、ビビビッときた。
佐々木喜善は地元だからいっぱい知ってるの。でも柳田国男は「きた」と「もらった」と。編集して書き直して、「これで平地人を戦慄せしめよ」と。これだよ、というさ。
要は、ピンポイントでわかったということだよね。何が大事か。こんな7,80頁の本が、最初、自費出版で350部くらいしか刷らなかったのに、芥川龍之介とか三島由紀夫とかが「すごくね?」って気づいた。柳田国男は100%知っていた。ここピンポイントで押さえないと絶対だめ。だからいっぱい聞いた中で、効果的なものを並べたわけでしょ? それで多少編集して、デフォルメして見せることで、日本にも天狗みたいな人たちとか、山の中の怪しい人たちがいっぱいいたんだっていうさ。神と人間の境界線にいるような存在? それがいっぱいいたんじゃないかというのを示した。無形なる何かを明晰に見た人だよね、山人たちの中に。
だからEnvyって人たちも、わかってやっているんじゃないかな。無意識の叫びじゃなくて。時代に対するアンチテーゼとして。これだけメジャーな音楽が腐っちゃったら妥協しないよということですよね。それは理性でもわかっている。
テ はい、そう思います。
高 佐々木喜善は作家としてあまり大成できなかったみたいですね?
那 柳田国男がエッセンスをまるごと持っていっちゃったみたいですね。ただ、佐々木喜善という人は宮沢賢治とも交流あったみたいだけど文学やりたかった人なんですって。地元の人だから、自分の知っている情報の価値を客観的に見れなかったのかもしれない。外部から来たインテリで官僚の柳田国男が気づいてしまった。これだ、と。中にいる人はわからなかったのかな。だから「遠野物語」という奇跡的な作品ができた。
高 今みたいな背景的なエピソードがわかるとなお面白いですね。
●幻想をそぎ落とした人間だけが持つ「響き」
那 今、長編の作品を書いているんだけど、壊していかなくちゃいけないじゃない? 満足するとさ、ああ、ここ嘘ついてるとかわかっちゃう。だから何層も壊していく。ばりんっばりんって苦しいの。完成じゃないって自分で認めるのが。でも、壊していくと、ここで地に足着いたって表現がある。これで間違いない、響いてくる。それが最近わかるようになってきて面白い。それがわかると、表現として猫かぶってるのがわかる。オブラートというか、かっこつけてるのがわかる。でも、響くためには、自分で自分の曖昧な部分、嘘の部分を壊していかなくてはいけない。これはつらい作業。地に足着くまではね。
高 そういう意味では、スピリチュアル系の本って今、ほとんどごたくだよね。
那 一番だめだと思う。
高 一番本質的なことを語っているはずなんだけど、もっとも遠い表現になっている。
那 だって、事実っていうさ、石ころがここに一つあるとして、石ころはこうだ、こうだって積み重ねちゃうじゃん? ほわーんとしたもの。こっち(石ころから離れた上の方)になっちゃうじゃん。ネットとかでもね、いろいろと言ってくる人もいるけど、おまえの石はそのほわーんじゃなくて、そのちっぽけな方だよ、って。それが見えちゃう。こちらがそこを指摘すると、切れちゃう。いや、そのいびつでちっぽけなのがおまえだよって。それを認めない人とは同じ土俵にも立てない。俺は認めてるよって。こんなんだけど、何か?って。ここ(足元)だもん。でも、ここってわかってる人は強いのよ。この石は石だもん。石以上にもなれないし、以下でもないってこと。
ところがね、それがわかっていると、この石を変化させることができる可能性が出てくる。触れているから。無駄なものを削ることもできるし、石は歩かないけど、歩いていくこともできるわけ。地に足が着いていれば。こうやって、人と握手したり、触れ合うこともできる。社会と関係することができる。でも、石の頭上に観念とか、神秘体験だとか、知識だとか、ほわんとしたものがまとわりついちゃってると、それが自分だと思っちゃって、どんどん他者と関係ないところにいく。シャンカラの哲学がどうとか、唯識がどうかとか、まるで自分の身体に身についた真理みたいに語っちゃうわけですよ。そういうのは現実からどんどん遊離する。学問として、わかってやっているならいいんだけどね。
いや、おまえは仏説じゃないんだよって。劣等感に満ちた、何もないからどんどん積み重ねてる、ちっぽけなのがおまえだよって。でも、絶対にそれを人は見ない。これを見ればいいだけなのに。だからどんどん遠回りして、それを一度ぶっ壊して、戻ったらはじめて対等。くるっと回って一周して地に足着いたら禅だけど、あるがままでいいんだよってそこではじめて言える。でも、地に足が着くと、そんな時代じゃないってのもわかる。石になったら、どう歩いて、どういう風に変化していくか、表現して行くか、全体にどう影響を与えていくかという義務が生まれる。そこからがスタートになる。そこからが新たな関係、新たな表現の道になっていく。だから、無我研で提示したいのは、そういう人たちが作り出す、その先の世界観のビジョン。まぁ、おぼつかない足取りでも、ビジョンだけ示したいな、と。
例えば、たまちゃん(たまちゃんSOUZOU学科主催)なんかがやっているのは、ほわんとしたものを全部幻想だから捨てなさい、身体感覚だけを信じなさいってところからはじめてるけど、それは資質とか役割の違いだからね。
高 だから、そぎ落とした末のところからはじめようってこと?
那 そうそう、そぎ落として、等身大で。傲慢だったり、ずるかったり、弱かったり、でもそれが俺なんだよ、何か?って言えた時に、人は強い。幻想がないし、そこからはじめることができる。でも、そういう人間だけが持つ響きというものがある。そういう響きっていうのは拡がっていくし、つながっていくと思う。当然、現実世界を変えていく力を持つ。人類単位で見てもさ、「こののままじゃどうしようもなくない?」っていう気づきがないと、理想ばかり積み重ねても絶対に変わらない。愛と平和をいくら謳ってもね、それを言っている人の中に愛も平和もないんだからさ。でも、そっちに下手に踏み込んじゃうと、認められないでしょう? 自分に愛がないってことを。真実はね、愛と平和を謳うことじゃなくて、愛と平和が我々の中にないってことでしょ? 現に、ないんだからさ。だから原発が爆発しちゃった。パンドラの箱、開いちゃってるじゃん。
テ はい。
那 「悟り系で行こう」を書いた時はそこまでいけてなかった。認識のレベルまでで、表現のレベルまではいけてなかった。いろいろまとわりついた自我を否定して壊すとこまで。これが幻想だってことはわかった。自分が路傍の石ころの一つにすぎないって気づいた時、ぱっと広がってあーっと。石ころってわかった時に、自画像から風景画みたいに認識が入れ代わった。すべてひとしなみの事物で、だからこそどこまでも拡がっていくって。他者とも自然とも等価な存在として触れ合えるって。だから勢いで書いた。
テ そこは興味深く読みました。
那 まぁ、足らないところもあるけど、今、読んでも基本的なことは全部書いてあると思うよ。「みんな、インドとか行くけどここ(胸)だけは見たがらない」とか。これが問題なんだから。葛藤が。満たされないことが。なのにどんどん積み重ねて、どんどん遠ざかって、もう俺なんか手の届かない人がいっぱいいるから。ばいばーいって。天上から見下ろされてるぐらいの勢いの人。
テ (笑)
那 でもね、ここを見ていって、石ころにすぎないとわかってもね、いきなり石にはなれないんだよね。滞積したものが身体には残っているのね。認識に身体が追いついてないの。だから苦しいけど、気づいて、壊して、落としていく。ばーっと心身脱落みたいに大量に落ちた時もあった。それでもまだ薄いのが何層かある。落として壊して、それを繰り返して地に足が着くまでけっこうかかった。石ころとして定着するまでね。でもね、地に足着いて満足って時代じゃないこともわかっちゃうの。そこまでいくと。ほわーんと幸せになりました、じゃないのよ、絶対に。
よく悟りというのはね、ほわーんと幸福な状態が続くことみたいに言う人がいる。そういう固定観念もわかる。幸せになることだと。でも、全然違うよね。放射能が出てて、黄砂もきてる。飢餓もあるし、経済危機もあり、戦争もある。ぎりぎりやばい状態なの。ほんと、ぎりぎりだよ? 明日にもとんでもないことが起こるかもしれない。もしも人が全体としての単位を自覚したら、ここからどうすべきかってなっていく。幸せじゃなくて、泣き声が聞こえてくる。そこに衝動が生まれるの。衝動が慈悲なのね。
高 自分のことがゴールじゃないってことね。
那 こちらは遠回りしてるから、遠回りしてる人に何が違うか明晰に言える強みはある。最初から地に足着いた強い人も知ってるけどね。そういう人はまた別になんかやってる。だから、どちらにしろ等身大の人とは話ができる。おれ、すごいとか、こんだけ勉強してるけど、真実とは違うんじゃないですか、という人とは話せない。嘘だもん、だって。
高 今の部分、メルマガに使えそうだよね?
那 うん、今、ちょっと意識してがんばってしゃべってる(笑)
高 ブログでも似たようなこと書いてるよね? それをこういう対談形式にするとわかりやすいかもしれない。
那 ああ・・・あのブログは理解されるとも思っていないけど。最近、「誤解と偏見しかないから」ってたまちゃんに言ったらね、「そんなのくそくらえだよ」っ言ってくれた。「響く人には響いてるよって」だから、いい人だなっていうか(笑)まぁ、強い人だよね。違うラインに見えて、つながってるから面白いよね。
でも、今日はティモ君が来てくれたけど、こうやっていろんな人が、一応、無我研って木に止まったり、寄って来てくれたりするわけじゃないですか? 離れてく人もいるけど、それはそれでいい。だから地に足着いて、根をはって立ってれば、まだ上に伸びてく可能性はあると思うんだけど、どうですか、その辺は?
テ 自分が感じていることを那智さんが言葉で話してくれるから、そうそうって思いました。
高 そうそうってうなずく? まぁ、高校時代からクリシュナムルティを一生懸命読んでいた人だものね。
テ 言葉で表現するはの難しいから。
●「見るものが見られるものである」とは
テ クリシュナムルティが「見るものが見られるものである」って言うじゃないですか? あれがよくわからないんですけど。
高 葛藤があるとして、葛藤と葛藤をどうにかする自分が別のものではないということでしょ。それをどうにかできる自分がいない。主体と客体がない。葛藤自体が自分だから。
那 つまりさ、きみはきみなんだよね(肩を叩く)。それ以上でも以下でもない。その事実がわかった時に、つまりさっきの話で言えば、きみは特別な、人よりも素晴らしい体験や知識を持った高い存在ではなく、路傍にたくさんある石ころのひとつにすぎないって気づいた時に、すべてがひとしなみの価値を持って輝いてくる。ティモ君も、俺も、高橋さんも、あのウェイトレスさんも、この茶碗も、コップも、何もかもが等価値を持つ神の被造物になる。だからね、そこに二元論はないの。主体と客体はないでしょ? 自分が石ころになることで、万物をひとしなみの構成物のように感じた時に、ただ世界がある。「見るものは見られるもの」になる。茶碗は茶碗であり、きみはきみになる。山は山であり、花は花であり、世界は世界になる。するとどこまでも拡がることができるし、どこまでも高くなることができるし、どこまでも深くなることができる。一からはじめることではじめて事物と関わりあえて、どこまでもいける可能性を持つ。
テ なるほど。
那 だから、自分は特別だって人ほどね、真逆の事実に驚いて悟りとか何だとか言うけどね、元々謙虚に石ころみたいに生きてる人は、それが当たり前なんだと思う。体験がどうこう言って、まとっちゃってる人はまだ全然だめってことで、自分は宇宙になる体験をして、すべてを悟ったなんて言ってたら、昔なら禅門くぐってもぶん殴られて追い出されてたよ? 全部捨てて、初めて落ち着く。でも、そこから先の話ね、表現とか、新たな関係を作り出すとか。だって、同じ土俵にいて、裸になって、初めてこうして触れ合ったり(握手する)、わかりあったりすることができるわけじゃない?
テ そうですね。
高 ティモ君は今のスピリチュアルな業界とか知らないのでしょ?
テ 知りません。
那 知らない方がいいと思うよ。
テ クリシュナムルティとか、神智学の本とか、OSHOとかは読んできましたけど。
高 いつくらいの話?
テ 高校生くらいです。
高 すごいね、それ?
テ 高橋さんが翻訳したウスペンスキーの「ターシャム・オルガヌム」も読みましたよ。
高 あれ、読んだの? 高校生で?
テ はい。高校時代は時間があったので。
高 岩手であんなの読んでるの、ティモ君くらいじゃない? でも、嬉しいよね。
那 あの本、めちゃくちゃ難しいよね。なんとかオルガズム?
高 オルガヌム。
テ 難しいけど、面白かったです。理解はあまりできませんでしたが。
高 でも、何で読んだの? OSHOが紹介してたからかな?
テ わからないですけど。
那 何だかんだで縁があったって感じだよね。
テ はい、そう思います。
那 彼みたいにさ、朴訥で飾らずに、「俺はこんくらいだ」って言える人が一番強いと思うよ。揺るぎようがないじゃん? 君みたいなタイプの人こそさ、そのままでいいんじゃないかな。少しずつ自分の世界を広げていけば。すごい良いものを持っていると思うよ。
テ ありがとうございます。
那 それじゃあ、今日はがんばってしゃべりすぎたのでこの辺で。